2019年8月20日火曜日

政治家の言葉遣い 重さも、厳粛な意識も、含羞もない

 政治家には独特の言い回しがあって、それが経験の中で生まれて磨かれたものであればそれなりに重みがあるし、もしも臨機に巧みに使われれば「うまく逃げたナ」と半分肯定しながら受け入れてしまいます。
 しかし便利だからといって無闇やたらに使うことがあってはならないし、日常茶飯的に何の説得力もない使い方をすれば、呆れられ軽蔑されるのがオチです。当然、口にする人の知性や人格に関わります。
 
 松尾貴史氏が「政治家の言葉遣い 重さも、厳粛な意識も、含羞もない」のタイトルで、最近の新聞やテレビで見聞きする言葉遣いで違和感を覚えるものとして5つの例を挙げ、痛烈に批判しました。
 まことにそうした言葉を平然として繰り返す人の傲慢さには「含羞」は望むべくもありません。安倍内閣が如何に劣化しているを示す一例です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
松尾貴史のちょっと違和感 
政治家の言葉遣い 重さも、厳粛な意識も、含羞もない
毎日新聞 2019年8月18日
 最近の新聞やテレビで見聞きする言葉遣いで、違和感を覚えるものをいくつか挙げてみようと思う。
 
「仮定の質問には答えられません」
 これは、官房長官が会見の場でよく口にする逃げ口上だ。いつも疑問に思うのだが、質問した記者はなぜ引き下がってしまうのだろうか。ここで食い下がると、自分も有名な女性記者のようにオミットされてしまうことを恐れているのだろうか。説明する責任がある権力の側がそういう安易な手段で逃げるのならば、逆に報道陣が結束してオミットし返せばいいのではないか。もちろん、記者たちの中には“御用メディア”の所属も少なからずいるので無理な話かもしれないが、あまりにも情けない。
 
 仮定の話には答えられないというならば、「確実に決定してしまった事柄」か、「実際に起きてしまった過去の問題」についてしか答えないということになってしまうではないか。そもそも仮定の話ができないというのは、実はその先にもくろんでいるスキームを隠しておかなければいけない事情があるのか、それともご本人に想像力そのものが欠落しているかのどちらかだろう。こんな人物が次期総理に一番近いというのだから途方に暮れてしまう。
 
「対案を出せ」
 これは性質の悪いへりくつとして頻繁に使われている。適切でない企てを遂行したい勢力が、それに反対する側に対して「ならば」と持ち出す便利な言葉だ。今このタイミングでイシューにすべきではない問題でも、反対している側に「サボタージュする者」というレッテルを貼ることができる印象操作用語だ。
 例えば、憲法を変えたいと望む国民が少数であるにもかかわらず、その憲法によって暴走を縛られている権力者の側が「変えたい、変えたい」と主張して、それに異を唱えるとこの言葉を叫び始める。これはすこぶる狡猾(こうかつ)な手法で、その罠(わな)とも言える土俵にうかうか乗ろうとするどっちつかずの野党の党首もいる。確信的なのか、そこつなのかは不明だが。
 
「その指摘はあたらない」
 実は「そんなことはない」と言っているだけなのだが、単に否定するとその根拠を問われる流れが起きてしまう恐怖心からか、客観的事実を話しているような錯覚を与える表現になるのだ。単にワンクッションを置いているだけなのに、なぜかその理由を聞き返せないムードができてしまう。質問する側には、「どうあたっていないのか」「なぜ指摘が間違っているのか」を聞き返すというくらいの小さな努力はしてほしいものだ。まあ、聞き返しても、この回答の主なら「あたっていないからです」と答えるのが関の山だろうけれども。
 
「誤解を与えたのだとしたら撤回する」
 謝罪を求められた時に使われる言葉だが、これぐらい不遜で尊大なわびようもないのではないか。まるで世間が勝手に誤解したような口ぶりで、完全に相手のせいにしてしまっている。国民に読解力がないのが問題だ、とでも言いたげだ。
 そもそも、政治家の言葉は失言を撤回すれば済むような軽いものなのか。政治家にとっての言葉というものは、武士にとっての刀のようなものだと思う。ひとたび抜く時には誰かを傷つけてしまう危険をはらんでいるものだという意識がないのだろうか。
 
「私の発言の一部だけが報道されて」
 これも、同じ人物がよく使っている印象だ。「一部だけが報道されて」というが、なぜ全部せねばならないのか。それほどありがたいお言葉を発信してくださっているというのか。政治家としての重さも、厳粛な意識も含羞もないご仁が、どの口でそれを言うのか。もちろんそんな価値はないのだけれど、全部報じられて困るのは自分の方だろう。
(放送タレント、イラストも)