2019年8月7日水曜日

広島 平和記念式典が行われました

 平和記念式典は広島市の平和公園で午前8時から開かれ、92の国の代表などを含む、およそ5万人が参列しました。
 この1年に亡くなった人や新たに死亡が確認された人合わせて5068人で、その名前が書き加えられた31万9186人の原爆死没者名簿が原爆慰霊碑に納められました。
 
 平和宣言は被爆者が詠んだ短歌が初めて引用されました。そして松井市長は「唯一の戦争被爆国として、核兵器禁止条約への署名、批准を求める被爆者の思いをしっかり受け止めてほしい」と述べ、日本政府に対し核兵器のない世界の実現にさらに一歩踏み込んでリーダーシップを発揮するよう求めました。
 これに対し安倍首相のあいさつは核兵器禁止条約には触れず、「核兵器国と非核兵器国の橋渡しに努め、双方の協力を得ながら対話を粘り強く促し、国際社会の取り組みを主導していく」という相変わらず空疎で意味不明なものでした。
 
 式典のあと広島市内のホテルで行われた安倍首相と7つの被爆者団体の代表らの会合でも、被爆者団体側は、核による威嚇は核の保有を増加させ核抑止の考えは破綻しているとして、核兵器保有国と非保有国との橋渡しという立場を離れて、日本も核兵器禁止条約に署名・批准し発効を推進するよう要望しましたが、全く同じ回答に終始しました
 広島県被団協の佐久間邦彦理事長は「これまでと何ら変わらず、期待はずれだった。政府には、まずは核兵器禁止条約に署名するよう働きかけていきたい」と述べました。
 
「平和宣言2019」の全文とNHKの記事を紹介します。
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平和宣言【令和元年(2019年)】
 
広島市は毎年8月6日に、原爆死没者への追悼とともに核兵器廃絶と世界恒久平和の実現を願って平和記念式典を行い、広島市長が「平和宣言」を世界に向けて発表しています。広島・長崎の悲惨な体験を再び世界の人々が経験することのないよう、核兵器をこの地球上からなくし、いつまでも続く平和な世界を確立しようと、これからも平和宣言は訴え続けていきます。(広島市ホームページより)
 
   
今世界では自国第一主義が台頭し、国家間の排他的、対立的な動きが緊張関係を高め、核兵器廃絶への動きも停滞しています。このような世界情勢を、皆さんはどう受け止めますか。二度の世界大戦を経験した私たちの先輩が、決して戦争を起こさない理想の世界を目指し、国際的な協調体制の構築を誓ったことを、私たちは今一度思い出し、人類の存続に向け、理想の世界を目指す必要があるのではないでしょうか。 
特に、次代を担う戦争を知らない若い人にこのことを訴えたい。そして、そのためにも1945年8月6日を体験した被爆者の声を聴いてほしいのです。
 
当時5歳だった女性は、こんな歌を詠んでいます。 
「おかっぱの頭(づ)から流るる血しぶきに 妹抱(いだ)きて母は阿修羅(あしゅら)に」 
また、「男女の区別さえ出来ない人々が、衣類は焼けただれて裸同然。髪の毛も無く、目玉は飛び出て、唇も耳も引きちぎられたような人、顔面の皮膚も垂れ下がり、全身、血まみれの人、人。」という惨状を18歳で体験した男性は、「絶対にあのようなことを後世の人たちに体験させてはならない。私たちのこの苦痛は、もう私たちだけでよい。」と訴えています。 
生き延びたものの心身に深刻な傷を負い続ける被爆者のこうした訴えが皆さんに届いていますか。 
「一人の人間の力は小さく弱くても、一人一人が平和を望むことで、戦争を起こそうとする力を食い止めることができると信じています。」という当時15歳だった女性の信条を単なる願いに終わらせてよいのでしょうか。
 
世界に目を向けると、一人の力は小さくても、多くの人の力が結集すれば願いが実現するという事例がたくさんあります。インドの独立は、その事例の一つであり、独立に貢献したガンジーは辛く厳しい体験を経て、こんな言葉を残しています。 
「不寛容はそれ自体が暴力の一形態であり、真の民主的精神の成長を妨げるものです。」 
現状に背を向けることなく、平和で持続可能な世界を実現していくためには、私たち一人一人が立場や主張の違いを互いに乗り越え、理想を目指し共に努力するという「寛容」の心を持たなければなりません。 
そのためには、未来を担う若い人たちが、原爆や戦争を単なる過去の出来事と捉えず、また、被爆者や平和な世界を目指す人たちの声や努力を自らのものとして、たゆむことなく前進していくことが重要となります。
 
そして、世界中の為政者は、市民社会が目指す理想に向けて、共に前進しなければなりません。そのためにも被爆地を訪れ、被爆者の声を聴き、平和記念資料館、追悼平和祈念館で犠牲者や遺族一人一人の人生に向き合っていただきたい。 
また、かつて核競争が激化し緊張状態が高まった際に、米ソの両核大国の間で「理性」の発露と対話によって、核軍縮に舵(かじ)を切った勇気ある先輩がいたということを思い起こしていただきたい。 
今、広島市は、約7,800の平和首長会議の加盟都市と一緒に、広く市民社会に「ヒロシマの心」を共有してもらうことにより、核廃絶に向かう為政者の行動を後押しする環境づくりに力を入れています。世界中の為政者には、核不拡散条約第6条に定められている核軍縮の誠実交渉義務を果たすとともに、核兵器のない世界への一里塚となる核兵器禁止条約の発効を求める市民社会の思いに応えていただきたい。
 
こうした中、日本政府には唯一の戦争被爆国として、核兵器禁止条約への署名・批准を求める被爆者の思いをしっかりと受け止めていただきたい。その上で、日本国憲法の平和主義を体現するためにも、核兵器のない世界の実現に更に一歩踏み込んでリーダーシップを発揮していただきたい。また、平均年齢が82歳を超えた被爆者を始め、心身に悪影響を及ぼす放射線により生活面で様々な苦しみを抱える多くの人々の苦悩に寄り添い、その支援策を充実するとともに、「黒い雨降雨地域」を拡大するよう強く求めます。
 
本日、被爆74周年の平和記念式典に当たり、原爆犠牲者の御霊に心から哀悼の誠を捧げるとともに、核兵器廃絶とその先にある世界恒久平和の実現に向け、被爆地長崎、そして思いを同じくする世界の人々と共に力を尽くすことを誓います。
令和元年(2019年)8月6日 
広島市長 松井 一實
 
広島 平和記念式典 核兵器ない世界の実現にリーダーシップを
NHK NEWS WEB 2019年8月6日
広島に原爆が投下されて74年となる6日、広島市の平和記念式典が開かれ、平和宣言で松井一実市長は「核兵器禁止条約への署名、批准を求める被爆者の思いを受け止めてほしい」と述べ、日本政府に対し核兵器のない世界の実現にさらに一歩踏み込んでリーダーシップを発揮するよう求めました。
 
平和記念式典は広島市の平和公園で午前8時から開かれ、雨が降るなか平成27年に次いでこれまでで2番目に多い92の国の代表などを含む、およそ5万人が参列しました。
式典ではこの1年に亡くなった人や新たに死亡が確認された人、合わせて5068人の名前が書き加えられた31万9186人の原爆死没者名簿が原爆慰霊碑に納められました
そして、原爆が投下された午前8時15分に参列者全員で黙とうをささげました。
 
ことしの平和宣言は被爆者が詠んだ短歌が初めて引用され、広島市の松井一実市長が、5歳のときに被爆した東京・文京区の村山季美枝さん(79)の短歌「おかっぱの頭から流るる血しぶきに妹抱きて母は阿修羅に」を読み上げました。
そのうえで松井市長は「唯一の戦争被爆国として、核兵器禁止条約への署名、批准を求める被爆者の思いをしっかり受け止めてほしい」と述べ、日本政府に対し核兵器のない世界の実現にさらに一歩踏み込んでリーダーシップを発揮するよう求めました
これに対し安倍総理大臣は「核軍縮をめぐっては各国の立場の隔たりが拡大している」としたうえで、核兵器禁止条約には触れず、「核兵器国と非核兵器国の橋渡しに努め、双方の協力を得ながら対話を粘り強く促し、国際社会の取り組みを主導していく決意です」と述べました。
 
式典のあと国内外から参列した人たちが原爆慰霊碑の前で静かに手を合わせて祈りをささげていました。
原爆で祖父母を亡くした広島市の77歳の男性は「祖母は遺骨さえ見つかっていません。ことしも平和を祈りたいと思って参列しましたが、きょうは若い人が大勢、来ていてとてもうれしいです。これからは若い人も参加して被爆者の思いをつないでほしい」と話していました。
初めて広島を訪れ式典に参列した63歳のイタリア人の男性は「海外にいると広島で起きた悲劇を感じることは難しいので、世界中の人たちが訪れて当時のことを忘れないことが大切だと思います」と話していました。
 
被爆地、広島の街は犠牲者を追悼する祈りに包まれ、核兵器のない世界に向けた訴えを国内外に発信する1日が続きます。
 
「戦争は瞬時に人生を変える」短歌を詠んだ被爆者は
平和宣言に盛り込まれた短歌を詠んだ東京・文京区の村山季美枝さん(79)は、6日、平和記念式典の様子をテレビで見守り、原爆が投下された午前8時15分に黙とうをささげました。
村山さんは、5歳のときに爆心地から2.3キロ離れた、広島市内の自宅で両親と姉、妹とともに被爆しました。
村山さんの短歌は原爆が投下されたあと、母親が血まみれになった妹を抱えて家を飛び出してきた時の状況を詠んでいます。
村山さんは、「あのときの記憶はトラウマになっていて薄れることがありません。見たままを歌にしましたが、戦争の記憶はこういう形で強烈に残るんだということを知っていただきたいです」と話していました。
 
そのうえで、「私は玄関先で被爆しましたが、1分ほど前まで寝ていた布団は2つにちぎれて庭の木に覆い被さり、そのまま寝ていれば私は死んでいました。戦争は、そのくらい瞬時に人生を変えてしまうもので、だから戦争はやってはいけない、それをいちばんわかってもらいたいです」と話していました。