2024年9月2日月曜日

ウソつき百合子の「災害死と虐殺死を同列に置く詭弁」を許してはならない

 都知事に再選された小池百合子は、カイロ大(首席)卒業が「大ウソ」であることを絶対に認めようとしません。事実でないことが100%明らかであるにもかかわらずにです。

 関東大震災後に関東地方を中心に大々的に起こされた日本人による朝鮮人虐殺事件の犠牲者を悼むための追悼碑を、実行委と都が共同して建立した1974年以降、歴代の都知事は横網町公園(墨田区)で行われている「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼集会」に追悼文を寄せてきました
 ところが小池氏が知事になった翌年から追悼文が寄せられなくなり、今年も寄せられていません。その理由が、朝鮮人虐殺事件犠牲者への追悼は「関東大震災の犠牲者への追悼の中に含まれている」からというものでは、まさに「ウソつき百合子の詭弁」というしかありません。
 護憲の弁護士澤藤統一郎氏が掲題の記事を出しました。
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ウソつき百合子の、「災害死と虐殺死を同列に置く詭弁」を許してはならない。
                     澤藤統一郎の憲法日記 2024年9月1日
経歴詐称のウソつきとして知らぬ者とてない小池百合子。本来、立候補の資格すらないこんなウソつきが平然と知事の座に納まっている不思議、不気味、そして不合理。こんな事態を許してしまった都民の一人として、恥ずかしい限り。
そのウソつきが、毎年9月1日には見えすいた詭弁を弄して、排外主義者の正体を露呈している。この事態は、「恥ずかしい」では済まない、危険極まりないと言うしかない。本気になって、このレイシストを弾劾しなければならないと思う

1974年以来、東京・横網町公園で毎年行われている「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼集会」。台風の余波の中で、今年も行われた。同公園に虐殺された朝鮮人犠牲者の追悼碑があること、その碑の前で毎年継続して追悼式がおこなれることの意味は、とても大きい。まずはそのことを確認しておきたい。
関東大震災時の、朝鮮人・中国人・社会主義者らの虐殺は、震災に伴って必然的に生じたものでは決してない。震災をきっかけにして起こった虐殺は、当時の帝国日本が基本国策としていた、近隣諸国に対する侵略戦争と植民地支配の副産物であった。帝国日本の膨張主義の所産と言ってもよい。
膨張主義の国策を持つ国家は、侵略や植民地支配を正当化すべく国民心理を操作する。そのために、自国を賛美し対象国を侮蔑して排外主義を煽動する。根拠のない自国民の選民思想を吹聴し、近隣諸国の国民を故なく差別する。我が国の近代においては、そのための小道具として荒唐無稽な国体思想が一役も二役も果たしている。国民の大多数が、この天皇制国家の洗脳と煽動に乗せられた。本気になって、「日本は神国」で、近隣諸国は隷属すべきだと思い込んだ。国家が主導する教育の恐ろしさの実例である。

遅れた帝国主義国としての日本が、朝鮮・中国に侵略を開始して以後、その国の民衆からの抵抗を受けたのは当然のことである。それを過酷に弾圧し、弾圧にさらなる反発があり…、という過程で、日本国民に中国人・朝鮮人に対する、潜在的な恐怖や憎悪が醸成されていった。
朝鮮全土での「3・1独立万歳運動」も、中国の「五四運動」も1919年である。そのような緊張関係の中で、きっかけとなる事件が起きたのだ。虐殺の本質は、日本の侵略政策にあつた。しかし、国はそのことを認めたくない。レイシズム知事はなおさらのことである。その状況の中での追悼式の継続は、日本と近隣諸国民の民衆間の友好を醸成し、平和を築く礎としての高い意義を有している。この追悼の輪が国内に広がれば、平和と国際協調主義の基礎がそれだけ強固なものになる。

排外主義をめぐっての確執は、この追悼文送付をめぐる攻防に集約した感がある。一方は、歴史的事実を直視して朝鮮人・中国人虐殺の事実を謙虚に認め、真摯に謝罪のうえ、今からでも真実を掘り起こす調査を開始し、その調査結果を各国で共有するとともに、その原因を国際的な叡智をもって究明して、絶対に同様の事態を繰り返さぬ再発防止の策を定めることを要休する。そして、それがアジアの平和につながるものと考える。
他方は、歴史的事実を無視し、あるいは偽造し、隠蔽して、朝鮮人・中国人虐殺の事実はなかったとし、あるいは正当防衛として、謝罪も調査も必要ないとする。排外主義と民族差別を肯定して、憎悪を煽る。保守陣営の中に、このような勢力旗しかに存在する。いまや、小池百合子がその勢力の代表者となりつつある。

小池百合子は、毎年9月1日に東京都墨田区で開かれている朝鮮人犠牲者の追悼式典に2017年以降、追悼文を送っていない。日朝協会など市民団体でつくる式典実行委員会は追悼文の送付を小池百合子に求めたが、「都慰霊協会が営む大法要で、関東大震災のすべての犠牲者に哀悼の意を表している」との理由で拒否し続けている。
本日、宮川泰彦実行委員長は小池都知事の姿勢を念頭に「過去の悲惨な歴史は恥ずかしいことだが、そこから逃げ回ることはもっと恥ずかしい。過ちを繰り返さないために子や孫、周りの人に語り継ぐことが我々の責務ではないか」とあいさつしている。そのとおりではないか。
「都慰霊協会が営む大法要で、関東大震災のすべての犠牲者に哀悼の意を表している」は、ウソつき百合子の詭弁に過ぎない

虐殺犠牲者は震災で亡くなったのではない。震災の被害を免れて生き延びたのに殺害されたのである。自然災害死ではなく、虐殺死を遂げている。その無念さ、悲惨さはを同一に捉えることはできない
何よりも、災害死には加害者が考えられないが、虐殺死は集団での殺人罪該当行為である。必ず、犯人がいる。文明社会では、責任の所在を明確にしなければならない

何よりも、これまでの歴代知事(あの石原慎太郎でさえも)が送付を続けてきた知事としての追悼文を、突然中断したことについての理由の説明がない。右翼のデマ宣伝を根拠として挙げることができないから、災害死と虐殺死を同列に置く詭弁を弄しているに過ぎないのだ。