都知事選から2週間が経ちましたが、日本のメディアとSNS界ではいまも理不尽な「蓮舫バッシング」が止みません。異常な「光景」というしかありません。
小池百合子氏が3選を果たしたのは、都政の権力者に繋がることの美味さを失いたくない勢力(既成の権力)の願望が如何に強列であったかを顕わしています。メディアがそれに含まれるのは言うまでもなく。このことはそのまま都政の醜さを示しています。
蓮舫氏は敗れはしましたが、選挙中に「自立した個人」約3000人による都内700カ所での蓮舫氏応援のスタンディングを生み出すという、新しい民主主義の在り方と希望を示しました。これは画期的なことであり貴重な経験になります。
しんぶん赤旗が掲題の記事を出しました。メディアの異常な蓮舫氏たたきは〝女性差別″であり、そのまま民主主義を後退させるものであると指摘しています。
また「世に倦む日々」氏は「今野忍と朝日新聞による蓮舫ハラスメント ~ 」という記事を出しました。これは朝日新聞の姿勢の批判に特化した長文で緻密な文書です。かつての朝日新聞はそうではなかった筈ですが、経営者らの意図を反映したとはいえ随分と劣化したものです。
2つの記事を紹介します。
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特報 メディア異常 蓮舫氏たたき〝女性差別″〝民主主義後退″と批判
しんぶん赤旗 2024年7月20日
7日に投開票された東京都知事選挙で幅広い市民と野党が応援し、128万票を獲得した蓮舫氏(元参院議員)に対し、開票扉後からNHKをはじめ大手メディアが〝個人攻撃″を繰り返しています。日本の政治分野におけるジェンダー平等に深刻な悪影響を与えかねない状況が続いています。 (日隈広志)
NHKは8日のネット報道で「2位はドコなんですか?」との見出しで蓮舫氏の3位を報じました。「ドコ」とカタカナで表記するなどして揶揄したものです。その後にNHKは「当初の記事タイトルに情報を追加し修正いたしました」との釈明を添えて見出しを変更しました。
日本テレビは7日のネット報道で「蓮舫氏〝2位にもなれず″」との見出しを付け、解説委員による署名記事に「都民が『仕分け』、蓮舫氏を3位」として配信しました。
「2位をめぐる表記は、民主党政権時代の「行政刷新会議」(事業仕分け、2009年)での「2位じゃだめなんでしょうか」との蓮舫氏の発言から取ったものでした。
ミソジニーの態度
雑誌『放送レポート』の岩崎貞明編集長は、政治家の過去の発言の責任を問うことはメディアの重要な役割だと前置きした上で、一連の記事は「政策や政治姿勢との関わりでの論評では
なく、言葉遊び」だと批判。また、メディアの中で蓮舫氏のように物おじせずに男性中心の権力に反抗する女性を懲らしめ、抑えつけようとする態度(ミソジニー)も見て取れると指摘しました。
「本来、大手メディアの報道には表現の自由を体現し、民主主義の発展に貢献する役割があります。しかし声を上げた女性の落選をあざ笑うかのような報道は、立場の弱い人の発言の機会を奪い、民主主義を後退させるものです」
「私は黙らない」 蓮肪氏き然
蓮舫氏の振る舞いや容姿に対して、大手メディアから〝攻撃″が繰り返されています。
東国原英夫元宮崎県知事は8日のTBSの情報番組で、蓮舫氏について「生理的に嫌いな人が多い」と発言。14日の読売テレビの情報番組では、タレントの上沼恵美子氏が蓮舫氏について「笑てへん」「きつい」「頭がいいっていうのを出しすぎ」などと放言しました。
こうした蓮舫氏をだまらせようとする動きに対し、蓮舫氏は14日、X(旧ツイッター)に投稿し、「私はね。黙らないよ。いま、最も自由に黙らない」と宣言しました。
まるで「見せしめ」
島根県の丸山達也知事は「なぜ女性が勢いよぐ物事の問題点を力強く指摘すると、バッシングを受けるのか。女性蔑視、差別に近い」(12日の記者会見)とメディアの態度を批判。日本共産党の小池晃書記局長は14日のNHK日曜討論で、蓮舫氏に対するメディアなどのバッシングに対し「根本的に見直さないといくら女性の政治参加をと言っても進んでいかない」と強調しました。
全国の地方女性議員ら超党派でつくる「全国フェミニスト議員連盟」の武井多佳子共同代表(愛媛県議・ネットワーク市民の窓)は、「政治分野でジェンダー平等を目指す運動をなえさせるような攻撃」だとして危機感をあらわにします。
同議員が実施した調査では金国の女性議員から、議会内でのいじめ、ハラスメントが多数報告されています。
「現状でも選挙戦に高い壁がある女性候補者に対して、落選すればどうなるかという『見せしめ』そのものです」
政治を変える希望
同議連の内田亜希子共同代表(埼玉県八潮市議・市民と市政をつなぐ会)は「自分に置き換えれば心が折れそうになるほどの恐怖」だと心情を明かします。
一方で、蓮舫氏の応援を通じて全国の街角でプラカードを持って立った人(ひとり街宣)は3000人を超え、選挙期間中に多くの市民が立ち上がりました。
「蓮舫さんの選挙は女性や子どもといった、追い詰められている人々に光を当てました。政治を変えるという希望を確実に広げたのではないでしょうか。バッシングに終始するのではなく、選挙で訴えたさまざまな政策の議論を深めて欲しいものです」
今野忍と朝日新聞による蓮舫ハラスメント - 朝日新聞綱領・記者行動基準・新聞倫理綱領の違反
世に倦む日日 2024年7月19日
7/7 に東京都知事選の結果が出て2週間近く経ったが、3位落選した蓮舫に対して右翼からバッシングの嵐が執拗に続いている。その苛烈な誹謗中傷に便乗して、掉さすように、朝日新聞が蓮舫叩きの攻撃を繰り返し、今週(7/14-20)のネット空間の最大の事件と話題となった。7/9 に朝日が載せた鈴木涼美の寄稿は、悪意に満ちた下品な嫌がらせの内容で、X上では女性を中心に大きな反発が広がった。続けて、7/15 に政治部記者の今野忍が、蓮舫に対してX(引用ポスト)で直接に難癖をつける暴言の挙に出たが、その不遜で悪質な挑発行為への批判が爆発的に広がり、朝日新聞への抗議が殺到する。購読をやめるという意見が続出し、翌 7/16、今野忍はその場凌ぎの釈明を上げてXの更新中断に入った。一方、蓮舫は 7/16 に弁護士と相談、朝日に対して質問状を発すると宣告する。
右翼側から今野忍を擁護し応援する反撃が寄せられ、蓮舫に対して言論弾圧はやめろという怒号が吹き荒れ、タイムラインは左右の綱引き状態となっている。まず最初に、①朝日新聞綱領を確認しよう。第1項に「不偏不党の地に立って言論の自由を貫き、民主国家の完成と世界平和の確立に寄与す」とある。この「不偏不党」の原則に照らして、今野忍の発言を(本人の過去の投稿群や写真群も合わせて)検証すると、朝日記者として逸脱を免れないと判断できる。今野忍への批判には、産経新聞の記者かと思ったという感想があったが、産経の記者よりも幼稚でグロテスクな感を禁じ得ない。問題は特に第4項だ。「常に寛容の心を忘れず、品位と責任を重んじ、清新にして重厚の風をたっとぶ」。この原則に照らせば、今野忍の言動は明らかに綱領違反だろう。「朝日記者」の看板を背負っての発言なのだから。
1952年に制定された綱領は朝日新聞社の憲法である。たった4項だけの簡潔な規範だ。当然、記者は守らないといけないし、会社は守らないといけない。下卑た口上を殊更に並べた今野忍のXポスト群は、挑発的であり、品性に欠け、典型的な第4項違反の行為である。悪ガキの幼稚園児が、集団のルールを敢えて破って暴れ、幼稚園に迷惑をかけて自己満足している姿に見える。朝日新聞の体質や社是を変えたいとか、反逆したいという欲望と意思が本人にあり、また、今野忍を手駒に使ってそれをやらせている上司や幹部がいるのだろう。朝日の「不偏不党」を壊して読売化(右傾化)させたいのなら、せめて第4項は守って紳士的に振舞うべきだ。人を顰蹙させる粗暴で無礼な物言いは、知性と教養の欠如の証明であり、或いは、プロパーと比較しての経歴上の劣等感に由来するものではないかと推察する。
朝日新聞は、綱領の下に記者の行動基準を規定している。綱領が最高法規たる憲法で、②記者行動基準が実定法の位置づけだ。その前文にはこう謳われている。「朝日新聞社で報道・評論、紙面編集に携わる者(以下、「記者」とする)は高い倫理基準を保ち、長年にわたって朝日新聞に寄せられてきた人々の信頼をいっそう高めるように努める」。朝日記者は高い倫理基準を持ち、朝日新聞への世間の信頼を高めるよう努めないといけない。読者の一人として私もこれに同意する。今野忍は綱領と行動基準に違反する例外中の例外分子に違いないが、果たして今の朝日社内に、この前文を忠実に守っている記者が何人いるだろうか。程度の差はあれ、どれもこれも信頼と評判を落とし、朝日のブランドを傷つけている者ばかりだ。筑紫哲也や小林一喜が築いて証したクォリティペーパーのブランドを、正統に引き継いでいる者がいない。
記者行動基準は、前文の次に順守すべき基本姿勢を列挙している。「権力を監視して不正と戦う」こと、「特定の個人や勢力のために取材・報道をしてはならず、独立性や中立性に疑問を持たれるような行動をとらない」こと、「常に批判精神を忘れてはいけない」ことが明記されている。ジャーナリストにとって基本的な規律と命題だろう。この規定に照らして、今野忍の態度と行動と言動はどうだろうか。Xのフォロー名簿に並ぶ面々は、やはり偏った傾向を示していて、「不偏不党」や「中立性」の謳い文句に違和感を生じさせ、特に「批判精神」とは縁遠い表象だ。朝日が「批判精神」と言う場合、そこには「権力の監視」と絡めた意味があり、読売や産経とは異なった中身で人々が期待する地平がある。安倍晋三と握手する記念写真とか、自衛隊の迷彩服を着てポーズをとる写真のアピールは、この基準に照らして妥当だろうか。
麻生太郎を持ち上げる発言もある。一方、立憲民主党と共産党に対しては一貫してネガティブで、朝日記者という身分を知らなければ、ポストはほとんど右翼工作員の言説と変わらない印象を与える。特に都知事選の取材を報じた書き込みは異常で、蓮舫と共産党に対する敵意が露骨だ。今回の事件は、朝日の読者に大きな衝撃を与えただろう。これまで、不信感を深めつつも朝日を「リベラルの代表紙」として認め、我慢して購読を続けてきた市民に、最後の一撃を与える反響を生んだと想像される。経営への悪影響は小さくないはずで、だからこそ、今野忍のX更新自粛という推移に素早く至ったと思われる。幹部 - 特に部数と売上に責任を持つ幹部 ー は焦燥しているに違いない。新聞の発行部数の減少は、朝日を含めて全紙が同じ苦境にあるけれど、朝日の場合は他紙とは異なる事情があり、単なる新聞離れを越えた深刻な葛藤がある。
朝日は時代のトレンドに合わせて摺り足で右へ寄ろうとするのだが、朝日の読者は左派リベラルが多く、平均的な知的水準も他紙の読者層より高いため、その編集方針に対して軋轢と齟齬が生じる。経営のために右へ寄ろうとして、長年の読者の拒絶反応を媒介し、他紙よりも激しく恨みの残る購読中止の幕となる。朝日は長くそのジレンマに悩みつつ、有効な打開策もなく、優秀な記者の輩出もなく、緊張感なくだらだら右旋回を進め、記者と記事の劣化を放置してきた。結果として、30年前とは似ても似つかぬ貧相な紙面になり果ててしまった。30年間、朝日は常に近視眼的な対症療法の模索を選び、時代の風潮に卑しく媚び、政権と官僚への忖度と迎合を強め、右翼系や軽薄なポリコレ(⇒政治的妥当性)系の記者を前に出してきた。紙面を荒廃させ、価値を落としてきた。読者を幻滅させ、さらに部数減という悪循環を続けてきた。今回も忌まわしい里程標の一つだ。
2000年に制定された③新聞倫理綱領というルールがある。新聞業界の憲法のような存在で、最初のものは戦後すぐの1946年に制定されている。自由と責任、正確と公正、独立と寛容、人権の尊重、品格と節度の5項目が柱に立てられ、新聞人の倫理が厳格に定められている。「正確と公正」の項では、「報道は正確かつ公正でなければならず、記者個人の立場や信条に左右されてはならない」とある。どれほどXアカウントに「発言は個人の見解です」と但し書きしても、「新聞記者、政治記者」と身分を明記している以上、読む者には朝日記者の公的空間での発言であり、朝日新聞の権威を利用した影響力行使に他ならない。ゆえに、個人の見解だから新聞倫理綱領や記者行動基準の拘束から自由だと居直ることは無理だろう。それは姑息な抜け道の詭計というものだ。今回、蓮舫側から朝日新聞に質問状が寄せられるらしいので、是非この点も焦点の一つにして欲しい。
今回の朝日とマスコミによる蓮舫攻撃は、度が過ぎていて、バッシングの範疇を越えてハラスメントの領域に至っていると断言できる。悪辣で吐き気を催す弱い者いじめそのものだ。確かに発端は蓮舫の失敗から始まっている。批判を受ける責任の一端を蓮舫は負っている(選挙惨敗、Rシール)。だが、そこからの誹謗中傷の増幅と拡大は、徐々に蓮舫の全人格の否定へと進み、ボロボロに破壊する袋叩きに転化して行くのであり、抵抗する蓮舫を弄ぶように虐待する右翼とマスコミの終わりのない偏執は、まさに教室の陰惨ないじめと同じだった。嘗て頻繁に見たしばき隊のネットリンチと同じ光景だ。ちょうど一年前、同じ気分の悪くなるハラスメントを目撃した。広末涼子への徹底的な汚蔑と貶価である。次から次へとネットマスコミが広末涼子の侮辱記事を書きまくり、ヤフーニュースに載せて売りまくった。
毎日毎日、ヤフートップぺージには広末涼子を歪曲する写真が、無意味な揶揄の文章に添えて載った。明らかに、彼らは売れるから煽り、煽って貶めて、競って稼いでいた。誹謗中傷のボルテージを上げ、大衆の興奮の熱量を昂め、弱者を痛めつける娯楽ショーを提供して消費させていた。虐待と銭儲けに愉悦するサディズムの心理と行動でハラスメントを肥大させていた。一年前のその記憶がよみがえり、黙ってはいられなくなった。ネットマスコミは、故意に、蓮舫が嫌がるような本人にとって不本意な写真を使い、蓮舫叩きを正当化する大衆の気分を導いていたのだ。最後に付言すると、左翼は機嫌を悪くするだろうが、杉田水脈に対する左翼・マスコミの容赦ない攻撃も、ハラスメントの水準に近かったと思う。やりすぎに感じる。あのようなしばき隊的手法全開で、差別の問題が本当に解決に向かうとは思えない。
杉田水脈は欠陥だらけの未熟な人物である。本人も自覚はあるだろう。杉田水脈を静かな対話の場に呼び、諄々と説き、内在的なアプローチで初歩的知識を与えることで、自発的変化を促す方法があったのではないか。杉田水脈が稲田朋美的な旋回に動く場面を作り得たのではないか。それが差別問題解決の本来的あり方であって、しばき隊的な人格否定と破壊攻撃が唯一の方法ではないはずだ。