2014年4月6日日曜日

高村氏の集団的自衛権行使「限定容認論」のまやかし

 砂川事件最高裁判決が「国には固有の自衛権がある」という憲法制定時以来の常識を述べたことを取り上げて、その判決が『個別的』と限定していないから『集団的自衛権』も容認したことになる、とした高村自民党副総裁の論理は、5日の本ブログでも指摘したとおり、1959年当時はまだ「集団的自衛権」の概念が一般的でなくそんなものを意図した筈もないものに、無理やり『含まれている』と強弁する詐術以外のものではありません。
 
 それにもかかわらず高村氏の「集団的自衛権行使の限定容認論」が、自民党内ばかりか野党の間にも浸透しつつあるということです。それに勢いを得たのかどうか石破自民党幹事長は5日のテレビ番組で、集団的自衛権行使を容認した際の自衛隊の活動範囲について、「地球の裏まで行くことは普通考えられないが、日本に対して非常に重大な影響を与える事態であれば、行くことを完全に排除はしない」と述べたということです
 正に舌の根も乾かぬうちの何とかですが、これほどの暴論に直結する「詐術」が公然とまかり通る議員の世界とは一体何なのでしょうか。
 
 5日の東京新聞社説は、「個別的自衛権を有するかどうかが議論されていた時代の判決を、集団的自衛権の行使の一部を認める根拠にするのは論理の飛躍にほかならない」、「長年の議論に耐えてきた政府の憲法解釈=集団的自衛権の行使は違憲を、一内閣の意向で変えていいのか、たとえ限定的だったとしても、政府の憲法解釈を根本的に変えることにほかならない」と断じています。
 
 河北新報も5日の社説で、「限定は曖昧なものになりそうだ。憲法解釈の変更を閣議決定する際、活動範囲や行使の具体例は明記せず、国会答弁で他国での行使は認めないと説明するという」ことであれば「歯止めになり得まい」、「憲法解釈のたがさえ外せれば、後々の情勢変化に合わせ、内容などを拡大できる」、「集団的自衛権の行使容認は、事実上の憲法改正」である、政府の姑息で不正なやり方を批判しています。
 
 同じく琉球新報も、「最初に全面行使論を吹き掛け、ここに来て抑制的にとどめたかのように装う手法」、「自衛隊の活動範囲は日本領域と公海上に限定」するというが、米国の戦争のたびに海外派兵を含めて協力を強いられた日本外交の過去を考慮すれば」たちどころに“限定”は解除される歴代内閣が積み重ねた解釈を国民的議論も尽くさず、憲法改正の手続きも経ずして変える暴挙」、「『限定といった言葉で議論の本質を隠してはならない」、と政府の狡猾さを痛烈に批判しています。
 
 以下に東京新聞と河北新報の社説を紹介します。
 紙面の関係で琉球新報の分は割愛しますので、下記のURLで呼び出してお読みください。
   (社説) 集団的自衛権 「限定」で本質隠すな  琉球新報 4月5日
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集団的自衛権 「限定容認」という詭弁
東京新聞 2014年4月5日
 限定的なら認められる、というのは詭弁(きべん)ではないのか。集団的自衛権の行使の「限定容認論」である。政府の憲法解釈は長年の議論の積み重ねだ。一内閣の意向で勝手に変更することは許されない。
 限定容認論とは、集団的自衛権の行使を「日本近海を警戒中の米艦船が攻撃を受け、自衛隊が防護する場合」など事例を限定して認めようというものだ。自民党の高村正彦副総裁が主張した。
 高村氏のよりどころは、米軍駐留の合憲性などが争われた最高裁による一九五九年の「砂川判決」である。
 日本の自衛権について「わが国が、存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは国家固有の権能の行使として当然」との判断を示した。
 高村氏はこれを論拠に「国の存立を全うする必要最小限度(の実力行使)には、集団的自衛権の範疇(はんちゅう)に入るものはある」として、米艦船の防護などは「必要最小限度に当たる」と主張している。
 
 政府の憲法解釈で違憲としてきた集団的自衛権の行使を、一内閣の判断で合憲とすることには公明党や自民党の一部に根強い慎重論がある。限定容認論は説き伏せる便法として出てきたのだろう。
 しかし、いかにも無理がある。
 個別的自衛権を有するかどうかが議論されていた時代の判決を、集団的自衛権の行使の一部を認める根拠にするのは「論理の飛躍」(公明党幹部)にほかならない。
 公明党の山口那津男代表は高村氏との会談で、個別的自衛権で対応できないか、まず検討すべきだと、限定容認論に慎重姿勢を示したという。当然だろう。
 集団的自衛権をめぐる議論の本質は、日本が直接攻撃されていないにもかかわらず、他国のために武力行使することが妥当か、長年の議論に耐えてきた政府の憲法解釈を、一内閣の意向で変えていいのか、という点にある。
 たとえ限定的だったとしても、政府の憲法解釈を根本的に変えることにほかならない
 このやり方がいったん認められれば、憲法の条文や立法趣旨に関係なく、政府の勝手な解釈で何でもできる。憲法が空文化し、権力が憲法を順守する「立憲主義」は形骸化する。イラク戦争のような誤った戦争に巻き込まれることも現実味を帯びてくる。
 限定容認なら大丈夫と高をくくってはいけない。立憲主義の危機にあることを、すべての国会議員が自覚すべきである。
 
 
集団的自衛権/限定容認、歯止めにならず
河北新報 2014年4月5日  
 集団的自衛権行使を容認する憲法解釈の見直しに向け、まずはハードルを低めにして、風穴を開けることを優先するということなのだろう。
 政府が固めつつある、いわゆる「限定容認論」である。従来の解釈を改めて、憲法が認めている「必要最小限度」の自衛権の範囲内に、一部の「集団的自衛権行使」も含まれるとする内容。自衛隊の活動範囲は日本領海と公海上に限定し、他国領内への派遣は認めない方向だ。
 
 自民党内の消極派と、何より慎重姿勢を崩さない公明党の抵抗感を和らげる思惑がのぞく。
 党内論議を主導するのは自民党の高村正彦副総裁。始まった自公協議でも、最高裁の砂川判決を引き合いに限定的な行使容認であれば、憲法解釈の変更は許容されるとの見解を示し、公明党の理解を得たい考えだ。
 あくまで限定的な容認を強調することによって、集団的自衛権行使の名の下に「地球の裏側まで出掛けて行って戦闘行為などに加担する」といった懸念を取り除く狙いがある。
 ただ、限定は曖昧なものになりそうだ。憲法解釈の変更を閣議決定する際、活動範囲や行使の具体例は明記せず、国会答弁で他国での行使は「認めない」と説明するという
 担保するのが首相答弁では、明確な「歯止め」になり得まい。答弁の変更は十分あり得るし、自衛隊法などの法律で活動範囲を制約したところで、法律の改正も可能だ。
 憲法解釈のたがさえ外せれば、後々の情勢変化に合わせ、内容などを拡大できる。小さく産んで…と読めてしまう
 
 そもそも「限定容認論」を厳格に解釈すれば、認められている個別的自衛権で相当程度、対応できるのではないか。
 シーレーン(海上交通路)防衛とともに、集団的自衛権行使の具体的な状況として、政府が想定する朝鮮半島有事で、自衛隊が公海上で攻撃を受けた米艦船の防護に当たる場合、周辺事態法など現行法の改正で対処できるとの見方がある。
 集団的自衛権の行使容認は、事実上の憲法改正を意味し、国の針路にも関わる大転換だ。その必要性と適否について、熟慮が欠かせず、当然、国民の理解を得る慎重な手続きも要る。
 その点、時の政権の判断で何とでもなる閣議決定という手段は、適切だろうか。やはり、憲法改正で臨むのが筋だ。
 自民党内は「限定的な行使」容認が大勢となっている。今後、具体的な行使の範囲をめぐり議論が本格化する見通しだ。
 
 共同通信社が先月実施した世論調査で、集団的自衛権行使容認の憲法解釈変更に反対が、賛成の倍近い57.7%に上り、前回2月の調査より6.7ポイント増加した。現実味を帯びるにつれて不安が高まっている印象だ。
 国民の意向を置き去りにする形で、与党内の合意形成を急いではならない。限定が限定にとどまらない事例は数多い。そうした危うさも踏まえ、結論ありきで臨べきではない。