2024年6月24日月曜日

慰霊の日と日米地位協定(植草一秀氏)/戦没者追悼式 沖縄戦から79年~

 植草一秀氏が掲題の記事を出しました。
 6月23日は沖縄戦 戦没者の「慰霊の日」ですが、それは同時に1960年6月23日にいわゆる「日米地位協定」が締結された日でもあると述べました。
 また日本は1952年4月28サンフランシスコ講和条約発効独立を回復しましたが、米軍は従来の占領関係を維持しようとして、占領時代の方針をそのまま「協定化」したものが「日米地位協定」であるとされています。
 植草氏はその実態を
 ・基地の使い方は米軍が勝手に決め、日本側に発言権はない。
 ・日本の空に何を飛ばそうが日本政府は事実上、口を挟めない。
 ・日本を米国の植民地状態に置く根拠となっているのが日米地位協定。
とまとめて、その発効日4月28日を主権回復の日」と呼ぶのは間違いで、サンフランシスコ講和条約第三条で「日本国は、北緯29度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む)・・・を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する」として、沖縄を含む南西諸島、南方諸島を日本から切り棄てることで日本は主権を回復したものであり、沖縄にとって4月28日は「主権回復の日」ではなく、日本から切り棄てられた「屈辱の日」であると述べています。

 併せてNHKの記事「戦没者追悼式 沖縄戦から79年 『慰霊の日』」を紹介します。
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慰霊の日と日米地位協定
                植草一秀の「知られざる真実」 2024年6月23日
6月23日は「慰霊の日」。
1945年6月23日。沖縄での旧日本軍の組織的な戦闘が終わったとされる日。
太平洋戦争末期の沖縄戦では、住民を巻き込んだ激しい地上戦で20万人を超える人が亡くなった。県民の4人に1人が命を失った。

その6月23日を沖縄県が「慰霊の日」と定め、戦没者を追悼し、平和への願いを新たにする一日としている。最後の激戦地となった糸満市摩文仁の平和祈念公園では、6月23日正午前から戦没者追悼式が行われた。

この6月23日には別の意味もある。1960年6月23日に、「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定」が発効した。いわゆる「日米地位協定」と呼ばれるもの。
日米地位協定により米軍は基地の「排他的管理権」を有している。
「米軍特権」、すなわち日本における「治外法権」を定めた協定である。

基地の使い方は米軍が勝手に決め、日本側に発言権はない。
日本の空に何を飛ばそうが日本政府は事実上、口を挟めない。
日本を米国の植民地状態に置く根拠となっているのが日米地位協定。
その発効日を「沖縄慰霊の日」に定めたのである。

1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効した。敗戦日本が独立を回復した日とされる。日本政府が国際社会に復帰を果たした日とされる。
第2次安倍内閣が発足した翌年、2013年4月28日に、東京の憲政記念館において「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」が挙行され、「天皇陛下万歳」が三唱された。
安倍首相は4月28日を「主権回復の日」に定めた。

しかし、日本は本当に独立を回復したと言えるのか。
日本に降伏を迫った最終文書である『ポツダム宣言』には次の規定が設けられた。
十二、前記諸目的カ達成セラレ且日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府カ樹立セラルルニ於テハ聯合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルヘシ
日本が独立を回復した時点で連合国の占領軍が日本から撤収することが明記された。
1952年4月28日に発効したサンフランシスコ講和条約にも次の条文が置かれた。
第六条
(a) 連合国のすべての占領軍は、この条約の効力発生の後なるべくすみやかに、且つ、いかなる場合にもその後九十日以内に、日本国から撤退しなければならない。

この条項が履行され、日本が完全な独立を回復したのであれば「主権回復の日」を定める意味がある。
しかし、サンフランシスコ講和条約発効にはからくりがあった。
日本の独立を封殺する二つの重大な取り決めが同時に盛り込まれたのである。
一つは上記第六条の後段。
「但し、この規定は、一又は二以上の連合国を一方とし、日本国を他方として双方の間に締結された若しくは締結される二国間若しくは多数国間の協定に基く、又はその結果としての外国軍隊の日本国の領域における駐とん又は駐留を妨げるものではない。」
但し書きが付記され、連合国と日本国が協定を締結した場合には外国軍隊の日本駐留が妨げられないとされた

もう一つは第三条の規定。
第三条
日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。
このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。
つまり、沖縄を含む南西諸島、南方諸島を日本から切り棄てることで日本は主権を回復した。

沖縄にとって4月28日は「主権回復の日」ではなく、日本から切り棄てられた「屈辱の日」である
そして、「慰霊の日」にあたる6月23日に米軍による治外法権を定めた「日米地位協定」が発効した。
慰霊の日戦没者追悼式に岸田首相が出席したが、日本政府の沖縄に対する欺瞞を見逃すことはできない。

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戦没者追悼式 沖縄戦から79年 「慰霊の日」
                     NHK NEWS WEB 2024年6月23日
沖縄は23日、20万人を超える人が亡くなった沖縄戦から79年の「慰霊の日」で、平和の祈りがささげられています。最後の激戦地となった沖縄本島南部の糸満市では、正午前から沖縄県主催の戦没者追悼式が開かれました。
 「平和の礎」「魂魄の塔」での遺族らの声はこちら 
   https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240623/k10014489441000.html 
太平洋戦争末期の沖縄戦では、住民を巻き込んだ激しい地上戦で20万人を超える人が亡くなり、県民の4人に1人が命を落としました。
沖縄県は旧日本軍の組織的な戦闘が終わったとされる6月23日を「慰霊の日」と定めています。
23日は各地で平和への祈りがささげられていて最後の激戦地となった糸満市摩文仁の平和祈念公園では朝早くから遺族などが訪れ、戦没者の名前が刻まれた平和の礎の前で花を手向けたり手を合わせたりしました。

正午 黙とう
平和祈念公園では正午前から沖縄県主催の戦没者追悼式が開かれ、岸田総理大臣や沖縄県の玉城知事のほか一般の人も参列し正午には全員で1分間の黙とうをささげました。

玉城知事 「平和宣言」
このあと玉城知事が「平和宣言」を読み上げ「いわゆる安保3文書により自衛隊の急激な配備拡張が進められており悲惨な沖縄戦の記憶と相まって私たち沖縄県民は強い不安を抱いている。今の沖縄の現状は無念の思いを残して犠牲になられたみ霊を慰めることになっているのか」と述べました。
そして沖縄が本土に復帰する際に政府が出した声明に触れた上で「沖縄県民が願う平和の島の実現のため在沖米軍基地の整理・縮小、普天間飛行場の1日も早い危険性の除去、辺野古新基地建設の断念など、基地問題の早期解決を図るべきだ」と政府に対し訴えました。
 【動画】全文はこちら 
   https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240623/k10014489721000.html 

平和の詩「これから」朗読 宮古高校3年 仲間友佑さん
このほか式では県立宮古高校3年の仲間友佑さんがことしの「平和の詩(し)」に選ばれた「これから」を朗読しました。
 【動画】全文はこちら 
   https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240623/k10014489711000.html 

岸田首相「平和で心豊かに暮らせる世の中を実現する」
岸田総理大臣は、沖縄県糸満市にある平和祈念公園を訪れ、国立沖縄戦没者墓苑で献花したあと、戦没者追悼式に出席しました。
岸田総理大臣はあいさつの中で「先の大戦において、沖縄は凄惨(せいさん)な地上戦の場となった。不発弾の処理やご遺骨の収集は今もなお続いている。沖縄戦の悲惨な実相と平和の尊さを次世代に継承していくことは、われわれに課せられた責務だ」と述べました。
そして「来年には沖縄戦から80年を迎える。県民の皆様のたゆまぬ努力もあり、沖縄経済は着実に成長し、県民生活も大いに向上した」と述べた上で、「強い沖縄経済」の実現に向けて、国家戦略として沖縄振興を進めていく考えを示しました。
一方、今もなおアメリカ軍基地の集中など、大きな負担を担っているとして、政府として重く受け止め、負担の軽減に全力を尽くしていく考えを強調しました。
そして「戦後、わが国は一貫して平和国家としてその歩みを進めてきた。戦争の惨禍を二度と繰り返さないという強い決意のもと、世界の誰もが平和で心豊かに暮らせる世の中を実現する」と述べました。

追悼式出席者「二度と戦争を起こしてはいけない」
沖縄戦で家族7人を失ったという宜野湾市の又吉好子さん(85)は「家族のうち私以外全員が沖縄戦で命を落とした。みなしごだったので戦争が起きているイスラエルやパレスチナなどの子どもたちを見ると昔の自分と重なり悲しい気持ちになる。『二度と戦争を起こしてはいけない。起こさないでください』と願いながら花を手向けました」と涙ながらに話していました。
またおじを亡くしたという那覇市の田場博司さん(69)は「先祖がいるから自分たちが暮らせているし優しい気持ちで人に接することができる。中東などではずっと戦争をしているが、政治が民衆のことを考えられるようにならなければいけないのではないか」と話していました。
戦時中、父親が沖縄に出征して亡くなったという愛知県出身の80歳の女性は「父と同じ空気を吸ったのは1年で、思い出もないが、やっぱり私をこの世に残してくれた人だからという思いで訪れました。私には、子どもや孫ができて父も『元気でやってね』と言ってくれると思う。母は生前、ウクライナとロシアの戦争が始まった時に『また戦争なの』と泣いていた。私も戦争は嫌です」と話していました。

玉城知事 岸田首相と面会 基地負担の軽減の実現求める
沖縄県の玉城知事は、県主催の戦没者追悼式の終了後、記者団の取材に応じました。この中で、玉城知事は、追悼式に先だって、岸田総理大臣とおよそ10分間、面会したことを明らかにしました。
玉城知事によりますと、岸田総理大臣に対し、基地負担の軽減に向けたSACO合意の速やかな実現のほか、沖縄の振興策については「強い沖縄経済」の推進のために国からの交付金を十分に確保することなどを求めたということです。
これに対し、岸田総理大臣は「引き続きアメリカ軍基地の整理・縮小を進めていき、沖縄振興も政府としてしっかり取り組んでいく」と応じたということです。

面会について、玉城知事は「基地負担の軽減は実感を伴うようにやっていただきたいと伝えた。今後もアメリカ軍普天間基地の辺野古移設の断念を要請し、普天間基地の1日も早い危険性の除去をなおいっそう強く求めていきたい」と述べました