2015年10月22日木曜日

「新9条」めぐり公開討論会

 東京新聞が、「解釈の余地のない新たな憲法9条を制定し、自衛隊の活動拡大に歯止めをかける考え方について意見を交わす公開討論会が、20日に行われたことを報じました。
 
 この背景には、14日の東京新聞「こちら特報部」が「平和のための新9条論」と題した記事を掲げたことがあります。
 そこでは、「・・・安倍政権の暴走に憤る人たちの間からは、新九条の制定を求める声が上がり始めた。戦後日本が平和国家のあるべき姿として受け入れてきた『専守防衛の自衛隊』を明確に位置づける。解釈でも明文でも、安倍流の改憲を許さないための新条である」として、伊勢崎賢治氏(外語大教授)、今井一氏(ジャーナリスト・「国民投票/住民投票」事務局長)のそれぞれの9条の改正案が報じられました。
 
 誤解を怖れずに要約すれば、9条の内容は海外での戦争は一切認めずにこれまで通り平和主義に徹するものの、自衛隊に市民権を与え自国防衛の任務を負ってもらうというものです。
 20日の公開討論会はその流れの上にあるものです。
 
 憲法9条は制定当時は確かに文字通りの「絶対平和主義」であり、自衛のための組織や装備は一切持たず もしも外国が侵入してきたらそのときは素手で戦うしかないと、担当大臣も答弁しています。
 しかしその後、憲法前文で「国民の平和的生存権」が、また憲法第13条で「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」が謳われていることとの整合性から、憲法第9条がわが国が自国の存立を全うするために必要な自衛の措置を採ることを禁じているとは解されないとなって、今日の解釈に至りました。
 
 いわゆる「新9条」の議論は以前からあるもので、いずれかの時点で真剣に討議されなくてはならないのかも知れませんが、いまがその時期なのかについては大いに議論のあるところと思われます。
 
 東京新聞の記事と、そのきっかけになったと思われる映画作家 想田和弘氏のブログを紹介します。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「政権交代へ野党結集を」 9条めぐり公開討論会
東京新聞 2015年10月21日
 解釈の余地のない新たな憲法9条を制定し、自衛隊の活動拡大に歯止めをかける考え方について意見を交わす公開討論会が20日、東京都千代田区の参院議員会館で開かれた。学識者らが、安倍政権による集団的自衛権の行使を容認する憲法解釈の変更や、安全保障関連法の制定を批判し激論を交わした。 (荘加卓嗣)
 
 参加したのは慶応大の小林節名誉教授、評論家の佐高信(さたかまこと)氏、作家の落合恵子氏、東京外語大大学院の伊勢崎賢治教授。
 伊勢崎氏は、他国から攻撃を受けた際、国内に限定して武力に訴える個別的自衛権の行使と、その場合の交戦権を新たに認める一方、自衛隊だけでなく在日米軍についても海外での武力行使を禁じる新九条の制定を提唱し、「(米軍駐留に関する)日米地位協定も同時に改定しないと意味が無い」と説明した。
 
 これに対し小林氏は「政権交代して安保法を廃止すれば、現行の九条は生きる」と主張。落合氏も「護憲派が分かれてしまう。現政権を代えることを使命にするしかない」と慎重な考えを示した
 また、安保法の廃止を目的とした連立政権の樹立を共産党が呼び掛けていることに、民主党内から否定的な意見が出ていることに対し、野党勢力の結集を求める意見が相次いだ。
 
 
憲法9条の死と再生
映画作家・想田和弘の観察する日々 2015年9月16日
「マガジン9」所載 http://www.magazine9.jp/article/soda/22727/ 
   (前 略
 もし法案が可決されれば、自衛隊は「専守防衛」の原則から逸脱し、海外で米国の戦争に参加できるようになる。したがって日本国憲法第9条はほぼ死文化する。実に残念かつ遺憾だが、それが私たちいわゆる「護憲派」が直視しなければならない現実ではないだろうか。
 実際、共同通信の報道によれば、9月14日の国会前デモに現れた大江健三郎氏はこう言ったそうだ。
 「法案が成立すれば、平和憲法の下の日本はなくなってしまう」
 僕は護憲派の大御所的存在である大江氏のこの見解に同意せざるを得ない。
 
 憲法第9条が書かれた当初、それは徹底した非戦と非武装を宣言するものだった。したがって自衛隊の存在も許されなかった。これは当時の吉田茂首相などの国会答弁などでも明らかである。
 しかし冷戦が激化し、朝鮮戦争が勃発して、状況が変わった。9条を起草させたマッカーサー元帥自らが日本の再軍備化を指示し、警察予備隊が作られた。そしてそれはやがて保安隊を経て自衛隊に改組され、「自衛隊は合憲」との憲法解釈が定着した。米軍の兵站に他ならない米軍基地の存在や日米安保条約も容認されていった。
 実はこの時点で、憲法第9条は7、8割方死んでいたのである。
 
 しかし9条にはそれなりの存在意義もあった。少なくとも9条を根拠にして、集団的自衛権の行使は禁じられてきた。そのため、自衛隊が海外でできることは厳しく制限されてきた。無論、100%潔白ではない。日本政府はベトナム戦争やイラク戦争といった米国の侵略戦争を肯定し、米軍に基地や燃料、カネを提供し続けてきたのだから。とはいえ、日本は9条を盾にして、かろうじて米国の戦争への加担を最小限にとどめてきたといえるのではないだろうか。
 その均衡が、今回の「戦争法案」によって破られようとしている。憲法9条のかろうじて生きながらえている部分にトドメを刺され、9条そのものが殺されようとしているのだ。
 こう書いても、護憲派からは異論が出るかもしれない。「いや、戦争法案が通ったとしても、まだ9条は生きているんだ」と。その気持ちはわからないでもない。実際、これから違憲訴訟を行ったり、戦争法廃止のための運動をしたりする際には、現行の憲法第9条をその根拠にすることになるであろう。その意味では、まだ生きているのかもしれない。
 しかし、その「生」は極めて脆弱なものだ。9条は集団的自衛権行使の歯止めになれず、したがって自衛隊をコントロールすることができず、いわば亡骸同然になる。もしそうなった場合、私たちは、その受け入れがたい事実と、正面から向き合わなければならないのではないだろうか。
 でなければ、護憲派はいつまでも9条の屍体を後生大事に「護り」、腐乱していく屍体とともに心中せねばならなくなる。だが、法案が通った暁には、9条に関する限り、もはや「護る」ものなど何もないのである。護るべきものは、すでに死んでいるのだから。
 
 私たちは、9条の亡骸とともに心中するわけにはいかない。
 私たちは、9条の亡骸を手厚く葬るとともに、心機一転、「新しい9条」を創って、自衛隊の行動に歯止めをかけ、制御する手立てを講じなければならない。「9条護憲派」は「9条創憲派」に生まれ変わらねばならないのだ。
 こう書くと、護憲派からは「想田は隠れ改憲派か」との批判が飛んでくることはわかっている。
 だけど僕は、批判を恐れずに、自分の思うところを書かなければならない。私たちにとって最も大事なのは、日本という国がこれまで曲がりなりにも基本姿勢として保ってきた平和主義を守ることであり、9条の条文を守ることではないのだ、と。また、主権者の総意の下に「新9条」を創らなければ、日本の平和主義は9条とともに朽ちていく運命にあるのではないか、と。そして9条の条文がいくらそのまま保存されていても、自衛隊が米国の戦争に参加することを止められないのなら、何の意味もないのだ、と。
 
 では、どうしたら「新しい9条」が創れるのか。
 まずは、日本の安全保障を巡るスタンスについて、「私たちはいったいどうしたいのか」の本質的な議論を始めることが必要になるであろう。
 
 日本国憲法の最初の趣旨の通り絶対非暴力を貫くのか。それとも個別的自衛権のみを行使する自衛隊だけ認めるのか。それとも集団的自衛権も行使する軍隊を認めるのか。日米安保条約は保持するのか。それともいずれは廃止すべきなのか。米軍基地は残すのか。それともお引き取り願うのか
 
 かなり意見が割れると思う。
 しかし、これは私たち主権者がもはや避けては通れない議題であろう。どんなに困難であろうとも、なんとか意見をすり合わせ、決めなければならない。そして死文化した9条の代わりに、私たちの総意のもとに「新9条」を創るのだ。
 個人的には、現行の日本国憲法第9条の徹底した非暴力・非武装の理念は素晴らしいと思う。それを究極の理想として目指すことは間違っていない。とはいえ、今ある自衛隊をいきなり廃絶することが現実的とはどうしても思えない。少なくとも当面の間、個別的自衛権は容認せざるを得ないだろう。しかし、海外にまで派兵して集団的自衛権を行使するのは、日本のためにも世界のためにも愚の骨頂だと思う。米軍基地も日米が合意の上で、100年くらいかけて少しずつ縮小・廃止していくべきであろう。
 
 僕は、そうした方針を恣意的な解釈が不可能なくらい明確に書き込んだ「新9条」を制定すべきだと考えている。実際、僕の上記のような基本的スタンスは、異論はたくさんあるにせよ、日本の主権者の多数派の考えではないだろうか。様々な世論調査を見る限り、日本の主権者の多くは、個別的自衛権と自衛隊は容認するものの、集団的自衛権には否定的だからだ。
 もちろん、そのような「新9条」を制定するには、極めて困難なハードルがある。まずは新9条に賛同する議員を多数当選させ、国会の3分の2を占めなければならない。そして国民投票を発議させ、私たち主権者の過半数によって承認されなければならない。このプロセスには、順調にいったとしても非常に膨大な時間と政治的エネルギーが必要であろう。しかし、私たちは自分たちの力で、主体的かつ民主的に「新9条」を制定する努力をすべきだと思うのだ。それこそが、日本の立憲主義と平和主義を守るための、唯一の道だと思うのだ。でなければ、自衛隊を自由に海外派兵したがっている勢力が、その趣旨に沿った改憲を仕掛けてくるのを、私たちは防ぐことができないと思う。
 
 いかがであろうか。
 ピンチはチャンスである。安倍晋三政権の誕生という絶体絶命のピンチのおかげで、私たちはいま、本当の意味で「憲法」や「民主主義」や「平和主義」と向き合おうとしている。反対運動の盛り上がりは、そのことを明確に示している。
 チャンス到来、なのである。