2023年8月9日水曜日

09- 欧米の傀儡政権が倒されたニジェールへあのヌランドが乗り込んだ

 西アフリカのニジェールでは、国軍の兵士ら7月26日にバズム大統領を拘束しクーデターを宣言しました。そして新たな国家元首に大統領警護隊トップのアブドゥラフマン・チアニ将軍がなりました。

 西アフリカの15カ国からなる西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)は7月末、拘束されているニジェールのモハメド・バズム大統領を7日午前0時までに復権させるよう求めていましたが、軍事政権は受け入れず外国機の飛来を禁止する領空閉鎖を行いました。
 軍事クーデターの指導者らは6日、スタジアムに集まった支持者らに熱烈な歓迎を受けました。
 以前フランスの植民地だったニジェールは金やウラン石油などの資源が豊富なのですが、欧米に従属しているため国民は貧困なままです。
 西欧は言うまでもなく周辺国も一斉に軍事クーデターに反発していて先行きは不透明です。
 革命政権はロシアに応援を要請しているようですが、ロシアはまだ態度を明らかにしていません。
 そんな中、2014年のウクライナクーデターを主導したビクトリア・ヌーランドがニジェールに乗り込みました、このクーデターを失敗させることが目的です。櫻井ジャーナルが報じました。
 併せて同ジャーナルの記事「『法に基づく支配』は米英金融資本による支配を正当化するための戯言」を紹介します。
           ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
クーデターで欧米の傀儡政権が倒されたニジェールへあのヌランドが乗り込んだ 
                          櫻井ジャーナル 2023.08.09
 アメリカのビクトリア・ヌランド国務副長官代理が8月7日にニジェールの首都ニアメを訪問、ムーサ・サラウ・バルムーなどクーデターを主導したグループの軍人と会談した。席上、クーデターで大統領の座を追われたモハメド・バズームの復権を要求したという。
 ヌランドがバルムーと会ったひとつの理由は彼がアメリカの特殊部隊で軍事訓練を受けていたからだが、クーデターを指揮したアブドラフマン・チアニ准将と面会できず、バズームとも会えなかったという。アメリカはニジェールに軍事基地を保有し、約1100人の部隊を駐留させている
 ヌランドの「上司」にあたるアントニー・ブリンケン国務長官は3月にニジェールを訪問しているが、これは中国やロシアのアフリカへの影響力が強まることを抑え込むことが目的だったと言われている。

 ニジェールはフランスの植民地だった国だが、西アフリカの中心に位置していることからアメリカ軍は基地を建設し、ドローン(無人機)を飛ばす拠点にしている。この基地はAFRICOM(米アフリカ軍)と連携し、北アフリカや西アフリカにおける軍事作戦の要でもあるが、新しい指導者たちはその基地を閉鎖したとも伝えられている。

 クーデター後、ニジェールの代表団がマリでワグナー・グループに戦闘への参加を要請したようだが、ロシアは今のところ慎重。それでもヌランドはクーデターを実行した軍人グループがワグナー・グループを接触することを警戒している。
 7月26日にクーデターが実行された翌日、ロシアのサンクトペテルブルクではロシアとアフリカ諸国の首脳が友好的な雰囲気の中、会議した。これもアメリカ政府は意識していると見られている。もしアメリカ政府に服従しないなら軍事介入も辞さないとヌランドは示唆したとされている。
 2013年11月から14年2月にかけてアメリカのバラク・オバマ政権はネオ・ナチのグループを使い、選挙で成立したウクライナの政権を倒したが、現場で指揮していたのはヌランド。そのヌランドはニジェールで旧宗主国の手先になっていた大統領を排除したクーデターを批判している

 ウクライナでは排除された大統領を支持していた南部のクリミアでは住民投票を経てロシアの保護下に入り、東部のドンバスでは住民がクーデター体制を拒否、内戦になった。ニジェールの首都ニアメではクーデターの直後に人びとがフランス大使館の周辺に集まり、クーデターを支持する意思表示をした。「フランスを潰せ」、「マクロンを潰せ」、そして「ロシア万歳」と叫ぶ一方、ロシアの国旗が振られていた
 アフリカ諸国はCOVID-19(2019年-コロナウイルス感染症)騒動で西側医療利権の宣伝に躍らず、「ワクチン」と称する遺伝子操作薬を拒否した。アフリカ諸国は欧米を信用していないのだ。アメリカ、イギリス、フランスなどが2011年にリビアで行ったこと⇒カダフィを惨殺も忘れていないだろう。

 ニジェールは金やウランで有名だが、石油も地下に眠っている。資源は豊かなのだが、欧米に従属しているため国民は貧困なままだ。欧米諸国は植民地という看板を下ろしたが、収奪システムは維持している。そうした状態からアフリカを抜け出させるため、リビアのムアンマル・アル・カダフィは「ディナール」という金貨をアフリカの共通通貨にしようとしていた


「法に基づく支配」は米英金融資本による支配を正当化するための戯言
                         櫻井ジャーナル 2023.08.08
 日本がアメリカに従属しているとは言えない。従属している相手はネオコンであり、その背後にいるウォール街やシティ、つまり米英金融資本だ。その支配システムの中心に存在しているセシル・ローズ人脈の拠点はシティだったが、現在、その人脈に地理的な拘束はない。
 この支配システムは「帝国主義」と呼ばれていたが、現在の日本では「自由と民主主義」というタグが付けられている。「法に基づく支配」が宣伝されているが、その「法」とは米英を支配している人びとの意志にほかならない。「万国公法」が帝国主義の支配を正当化するルールだったように、「法に基づく支配」は米英巨大資本による支配を正当化するために考えられた呪文だ。
 かつて地中海沿岸では文明が発達していた。近代のヨーロッパ文明の源流をそこに求める人もいるようだが、地中海文明はヨーロッパ南部から現在のパレスチナ周辺、そして北アフリカにかけての地域で栄えたのだ。その文明を現代ヨーロッパの中心国へ伝えたのは「十字軍」と名付けられた侵略軍、あるいは強盗団だと言えるだろう。
 彼らは財宝だけでなく知識を盗み出し、その知識の中にはギリシャ文明に関するものも含まれていた。十字軍による略奪がなければ、14から15世紀のルネサンスは実現しなかったのではないだろうか

 ヨーロッパが富を蓄積し始めるのはその後。15世紀から17世紀にかけての「大航海」は略奪の時代だった。スペインやポルトガルはそのときにアメリカ大陸を侵略し始め、1521年にエルナン・コルテスは武力でアステカ王国(現在のメキシコ周辺)を滅ぼして莫大な金銀を奪い、インカ帝国(現在のペルー周辺)ではフランシスコ・ピサロが金、銀、エメラルドなどを略奪しながら侵略を続けて1533年には帝国を滅ぼしている。
 莫大な量の貴金属を盗んだだけでなく、ヨーロッパの侵略者は先住民を酷使して鉱山開発も行った。その象徴的な存在がボリビアのポトシ銀山。1545年に発見されたこの銀山だけで18世紀までに15万トンが運び出されたとされ、スペインが3世紀の間に南アメリカ全体で産出した銀の量は世界全体の80%に達したと言われている。
 ただ、略奪の詳細は不明で、全採掘量の約3分の1は「私的」にラプラタ川を経由してブエノスアイレスへ運ばれ、そこからポルトガルへ向かう船へ積み込まれていた。16世紀の後半にスペインはフィリピンを植民地化、銀を使い、中国から絹など儲けの大きい商品を手に入れる拠点として使い始める。(Alfred W. McCoy, “To Govern The Globe,” Haymarket Books, 2021)
 そうした財宝を運ぶスペインの船を海賊に襲わせ、奪っていたのがイギリスにほかならない。エリザベス1世の時代にイギリス王室が雇った海賊は財宝を略奪しただけでなく、人もさらっていた。
 ジョン・ホーキンスという海賊は西アフリカでポルトガル船を襲って金や象牙などを盗み、人身売買のために拘束されていた黒人を拉致、その商品や黒人を西インド諸島で売り、金、真珠、エメラルドなどを手に入れている。こうした海賊行為をエリザベス1世は評価、ナイトの爵位をホーキンスに与えている。
 フランシス・ドレイクという海賊は中央アメリカからスペインへ向かう交易船を襲撃して財宝を奪い、イギリスへ戻るが、ホーキンスと同じように英雄として扱われた。女王はそのドレイクをアイルランドへ派遣して占領を助けさせるが、その際、ラスラン島で住民を虐殺したことが知られている。その後も海賊行為を働いたドレイクもナイトになっている。
 ホーキンスやドレイクについで雇われた海賊のウォルター・ローリーは侵略者のイングランドに対して住民が立ち上がったデスモンドの反乱を鎮圧するため、アイルランドにも派遣された。ローリーも後にナイトの爵位が与えられている。(Nu’man Abo Al-Wahid, “Debunking the Myth of America’s Poodle,” Zero Books, 2020)

 北アメリカへもヨーロッパ人が入り込んでくるが、そこには先住民、いわゆる「アメリカ・インディアン」がすでに生活していた。植民地を建設したイギリス系の人びとはイギリス軍と連合し、アメリカ・インディアンと手を組んだフランス軍と1754年から63年にかけて戦っている。
 その後、植民地とイギリスが対立、1773年にはボストン港に停泊していた東インド会社の船に積まれていた茶箱を投棄されている。いわゆる「ボストン茶会事件」だ。1775年にはイギリス軍と植民地軍が軍事衝突、植民地側は76年に独立を宣言した。
 その宣言には「すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている」と謳われているが、先住民は人間として扱われていない勿論、奴隷も人間として扱われていない。過酷な南部の綿花栽培で使われたアフリカ系の奴隷だけでなく、ヨーロッパ系やアジア系の奴隷もいて、「白人年期奴隷」という表現もある。
 ヨーロッパからの移民たちはアメリカ・インディアンを虐殺しながら支配地域を東から西へ拡大させ、1890年12月には「フロンティアの消滅」が宣言された。その時、サウスダコタのウンデッド・ニー・クリークにいたスー族を騎兵隊が襲撃し、150名から300名を虐殺している。「自由と民主主義」を掲げる「正義の国」は虐殺されたアメリカ・インディアンの屍の上に築かれたのだ。

 そうした殺戮の最中、徳川政権は日米修好通商条約の批准書交換のために遣米使節団を派遣した。その時に咸臨丸も同行、使節団がサンフランシスコに到着したのは1860年3月のことだ。そこで彼らが見たアメリカを民主主義国と表現することはできない。その使節団に加わったひとりが後にアジア侵略を主張しているが、必然かもしれない。
 イギリスはその前に中国(清)を侵略しようとしている。インドを侵略、大儲けしていたイギリスだが、経済力で中国に太刀打ちできない。そこで中国にアヘンを売りつけ、1839年から42年にかけて「アヘン戦争」を仕掛けている。1856年から60年にかけては「第2次アヘン戦争(アロー戦争)」を行った。当時、イギリスとアメリカはライバル関係にあったが、アヘン戦争にはアメリカ人も加わり、麻薬取引で大儲けしていた。
 こうした戦争でイギリスは勝利したものの、征服はできなかった。戦力が足りなかったからだ。そこで目をつけたのが侵略拠点としての日本列島であり、傭兵としての日本人だ。イギリスは長州と薩摩を利用して徳川体制を倒す。これが明治維新であり、天皇制官僚体制の始まりだと言えるだろう。この構図は第2次世界大戦後も維持されている。