2023年8月12日土曜日

「原爆投下正当論」を考える 米国内の批判逃れる虚構

 広島長崎への原爆投下に対しては、1946年に連邦キリスト教会評議会から 原爆投下は「道徳的に弁護の余地がない」との声が出るなど、米国内で批判が高まりました
  ⇒8月5日)  原爆使用 当時も国際法違反 連合軍トップ「投下不要」と
 それに対して米国政府は当時「1945年11月から日本本土上陸作戦を計画していたが、原爆投下で日本が降伏したので不要となり、米兵の命が救われた」という「人命救助論」で正当化しました。この「原爆投下正当論」はいまも米国内に根強く残っているということです。
 しんぶん赤旗日曜版に、米国の原爆開発・製造の極秘計画「マンハッタン計画」に詳しい山崎正勝・東京工業大学名誉教授の話が掲載されました。
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「原爆投下正当論」を考える 米国内の批判逃れる虚構
                しんぶん赤旗日曜版 23年8月13日20日合併号
 米国では広島、長崎への原爆投下を正当化する議論が依然として根強く残り、核兵器禁止・廃絶の妨げになっています。原爆投下正当化論をどうみるか。米国の原爆開発・製造の極秘計画「マンハッタン計画」に詳しい山崎正勝・東京工業大学名誉教授に話を聞きました。
                                    坂口明記者
東京工業大学名誉教授 山崎正勝 さん
        やまざき・まさかつ=1944年生まれ。専門は科学社会学、物理学史
        著書に『日本の核開発:1939~1955-原爆から原子力へ』『〔増補〕
        原爆はこうして開発された』(編著)など

米の被害予測を水増
 米国による原爆投下正当化論の代表的なものは「人命救助論」です。米国は当時、1945年11月からの南九州上陸作戦(オリンピック作戦)など日本本土上陸作戦を計画していました。ところが原爆投下で日本が降伏したので本土上陸作戦は不要となり、そこで犠牲となる米兵の命が救われたというのです。
 この主張を始めたのは、原爆開発で重要な役割を果たしたコナント・ハーバード大学長だといわれます。投下翌年の946年に連邦キリスト教会評議会から原爆投下は「道徳的に弁護の余地がない」との声が出るなど、米国内で批判が高まりました。コナントは「原爆投下による人的被害は、上陸作戦による被害より軽微だった」として原爆投下を正当化しようとしました。
 しかし当初「日米双方で数十万人の命」とされていた上陸作戦の被害予測は、その後「100万人の米兵の死傷者」(スティムソン陸軍長官)、「50万人の米国民の命」(トルーマン大統領)と、恣意(しい)的に水増しされました。
 それは原爆投下の真相が判明するにつれて犠牲者数が増えたからです。米側は当初、広島原爆の死者は3万人とみていました。ところが46年4月の米軍の報告では長崎と合わせて死者11万3千人、負傷者6万7千人となりました。それに伴い上陸作戦の被害予測も増え、この虚構が戦後、米国での支配的な見方として定着してしまったのです。

後世界の支配が狙い
 原爆投下を巡る経緯の真相の解明も、正当化論を考える重要な論点です。
 ウランの核分裂が発見されたのはドイツです。マンハッタン計画は、ナチス・ドイツが米英より先に原爆を造るとの懸念から始まったとされます。
 ところが米科学研究開発局局長として同計画を合む戦時中の科学研究を指揮したブッシュは、1944年2月には「ドイツに大規模な原爆開発計画が存在しない」ことを知っていました。ドイツ降伏の1年以上前です。「ドイツの原爆開発への対抗措置」がマンハッタン計画の大義だったなら、この時点で中止すれば良かったのです。
 同計画には総額20億ドル近くが使われました。戦時中なので大統領権限で進められ、戦後に議会に報告することになっていました。そこで「そんな大金を投じたのに何の効果も示さないのはまずい」という議論が出てきます。
 ただし44年初頭では、まだ総額の約2割しか使っていませんでした。その時点でやめておけば費用対効果が大問題になることはなかったのです。ところが、そうはならず、計画は続けられました。
 それはやはり、日本の降伏に不可欠だというよりも、戦後世界で米国が支配権を獲得するためではなかったでしょうか。マンハッタン計画総責任者のグローブスは「敵はソ連」との信念を持った人でした。44年春には「原爆を造る本当の目的はソ連を抑えることだ」と語りました。
 44年9月に米英首脳以ニューヨークのハイドパークで行われた会談で「たぶん日本に対して(原爆を)使用する」と合意します。グロープスは同年秋には「標的は日本」と決めていたといわれます。
 ソ逓はスパイ情報で同計画の存在を知り、独自の核開発を始めていましたが、本腰を入れたのは広島に原爆が投下されてからでした。こうして米ソ核開発競争、米ソ冷戦が始まります。『破滅への道程-原爆と第二次世界大戦』を書いた米国の歴史学者M・シャーウィンは「もし原爆が日本に投下されていなかったなら戦後世界の様相は違っていただろう」と指摘しています。

     

 1942年8月13日

 1944年9月18日

 1945年4月12日

     5月 8日

        25日

      7月16日

          20日

        8月 6日

           9日

          15日

 マンハッタン計画発足

 米英首脳ハイドパーク覚書

 ルーズベルト大統領が死去しトルーマン副大統領が後任に

 ドイツ降伏

 米統合参謀本部が南九州上陸作戦を認可

 初の核爆発実験(トリニティ実験)成功

 米軍が日本に模擬原爆(通常爆弾)投下開始

 広島に原爆投下

 ソ連が対日参戦。長崎に原爆投下

 日本が降伏