2023年8月30日水曜日

関東大震災100年 朝鮮人虐殺 千葉・船橋で起きたこと(上)(下)

 9月1日は、関東大震災100年に当たります。同時に、震災後、「デマ」によって6千人とも言われる朝鮮人が自警団等によって大量虐殺されるという、真に忌まわしく日本人として心から恥ずべき事件から100に当たります。

 による朝鮮人犠牲者に対する追悼式は毎年9月1日横網町公園で行われて来ました。石原慎太郎氏を含めて歴代の都知事は追悼文を出してきましたが、小池都知事になってから突然追悼文を出さなくなりました。これは慰安婦問題や関東大震災朝鮮人虐殺を否定している「日本女性の会 そよ風」の主張に同調しているからと言われています。
「大虐殺」は何よりも内閣府の専門調査会報告が、「自然災害がこれほどの規模で人為的な殺傷行為を誘発した例は日本の災害史上、他に確認できない」と認める通りで、否定など出来るものではありません(詳細は別掲の記事を参照ください)。
 さらに東京都も2020年に「そよ風」の横網町公園での集会の言動をヘイトスピーチとして認定しました(同上)。

 しんぶん赤旗が「関東大震災100年 朝鮮人虐殺 千葉・船橋で起きたこと(上)(下)」という記事を出しました。
 こうした史実の「掘り起こし」は既に多くの所で行われていますが、今後も再確認されるべきです。
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関東大震災100年 朝鮮人虐殺 千葉・船橋で起きたこと(上)
爆弾デマ 混乱の中「地獄」見た 鐘打ち鳴らし自警団500人が・・・
       50年後の調査、まだ信じている人
                        しんぶん赤旗 2023年8月28日

各地で据り起こし
 1923年9月1日に発生した関東大儒災の際に、朝鮮人などに対する大量の虐殺が超きました。「朝鮮人が暴動を起こした」などのデマが広まり、軍隊や地域の人たちでつくる自警団などが罪もない人たちを殺害したのです。多くの中国人も虐殺されました。
「社会主義者が内乱を企てている」というデマも流れ、軍などが起こした「亀戸事件」では日本共産青年同盟委員長だった川合義虎fなど社会主義者や労働組合幹部、「甘粕事件」では無政府主義者の大杉栄、伊藤野枝らが虐殺の犠牲になりました。
 朝鮮人の犠牲者は6000人以上とも言われてますが正確なことはわかっておらず、政府は調査をしようともしていません。そうした中、各地で虐殺の実態を明らかにしようと調査・史実の掘り起こしに取り組んでいる人たちがいます。

 1923年9月、関東大震災のときに起きた朝鮮人虐殺は、「朝鮮人が危害を加える」というデマ(偽情報)とともに関東中に広がりました数百人が殺されたといわれる千葉県で50年近く調査を続ける「千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会」は資料や証言で関東大震災当時の様子を明らかにしてきています

学校日誌
 そのひとつは、地震発生2日後、9月3日に現在の船橋市であった爆弾騒ぎです。東京から逃げてきた人の避難所となっていた船橋小学校体操場で起きました。同小学校の『学校日誌」にそのの様子が記されていました。
「夕刻、体操場に収容中の避難鮮人七名中、爆弾を所持せるものあるを発見、直ちに警察署に引き渡す」
 駆け付けた警察官の1人はのちに船橋警察署長、千葉市助役、千葉県議となった渡辺雄さん(故人)です。手記で次のように語っています。
「(小学校の用務員が)長さ10センチ位の黒焼きになったものを差し出して、『避難民のいる雨天体操場を掃除していると、(中略)朝鮮人の席に、このようなもが落ちていました(中略)』と言った」。警察官らは爆弾と思い込み、「大騒ぎとなった」
「爆弾」を持っていたと思われた朝鮮人に、警察署についてきた自警団員が竹やなどでけをさせ警察官の夏の白服が血に染まって真っ赤になっだと記しています。
 警察が陸軍に「爆弾を持ち込んで調査してもらったところ、焼けた砲丸であることがわかりました。ところがその事実は学校日誌や報道になく、「爆弾」の偽情報は訂正されないまま近辺に伝わたと追悼調査行委員会はみています。
 ぼかにも警察署には「朝鮮人約二千人が浦安に上陸、自転車隊を編成して船橋の無線所を襲撃に向かっ.ている」などのデマがいくつも寄せられました

軍の責任
 デマが広がる中、同4日に渡辺さんは虐殺を目撃することになりました。40年以上前の同実行委員会の聞き取り調査に語っていまず。
 総鉄道(現在の東武アーパンパークライン、今ある北総鉄道とは別会社)の敷設作業をしていた朝鮮人労働者が軍の警護で鎌ケ谷から船橋に連れてこられるとの連絡がありました。朝鮮人に関するデマで船橋は混乱状態だったため、船橋警察署長が渡辺さんに「船橋に来ると皆殺しにされるから、習志野の収容所に連れて行くように」と指示。迎えに出た渡辺さんら警察官は、船橋駅北側で手を縛られて連行される約50人の朝鮮人に出会い、「この人たちを我々に渡してくれ」と言いました。軍が聞き入れずに押し問答するうち、自警団らが鐘を打ち鳴らながら500人もやってきました
 報告のため署に戻り現場にすぐ引き返しました「万歳!万歳!」という歓声を聞きながら到着すると、「地獄のありさま」でした。「女人を含め53人が殺され、山のようになっていた。涙が出てしかたがなかった。 警護していた警察官の話では、『手の付けようがなかった』とのことであった」
 委員会の平形千恵子さん(82)は「事件から50年後聞き取りでも、まだデマを信じている人がいた」と振り返ります。「6日に関東戒厳司令部が飛行機で『朝鮮人に対し無法の待遇を慎め』との『注意』をまき、虐殺は止まった。遅すぎたのです。戒厳令下であり、国や軍隊の責任が間われます}と語ります。(つづく)


関東大震災100年 朝鮮人虐殺 千葉・船橋で起きたこと(下)
自警団「渡せ」譲らぬ地区も 海軍所長が殺害勧告 
  発見を知らせる鐘あちこちで
                        しんぶん赤旗 2023年8月28日
 千葉県船橋市(市川市中山を含む)では、「朝鮮人が暴動を起こす」との偽情報を信じた自警団により、5ヵ所で100人以上の朝鮮人が殺されたことが「千葉県における関東大震災と朝耕人犠牲者追悼・調査実行委員会」の調査で明らかになっています。
 当時、同市にあった海軍の無線所長が住民に「朝鮮人を殺してもよい」と述べ、住民が従った記録が残っています。一方で地元の農民が朝鮮人2人を地区外の自警団に渡さずに守った例も語り継がれています。
 船橋駅から北西2キロの同市行田地区にあった海軍東京無線電信所船橋送信所は関東大震災の被害を受けず、東京の被害状況を全国に送信していました。同委員会が調べた無線文書には、所長の大森良三大尉が、住民に対し、「送信所襲撃の目的をもって来る朝鮮人は殺しても差し支えなく自分が責任を負う」と述べたとあります。

殺害告白
 消防団と在郷軍人で組織した自警団にいた人が1981年、同委員会の聞き取りに、こう語りました。
「無線(送信所)の海軍所長に『600人の不逞(ふてい)鮮人が来るから今夜警戒たのむ』と銃を渡され、ふた声かけて返事をしなかったら撃ってもいいというわけです。朝鮮人が見えますとね、早鐘打つんですよ。(あちこちで打って)朝鮮人は見たら殺せというんです。すごかったです競馬場の駐車場で2人殺しましたけど手を針金で縛りましてね、狙い撃ちしたんです。うちの方のAとBが日本刀で首を切った(一部中略)」
 北総鉄道敷設現近くいくつかあった飯場には朝鮮人労働者がおり、住民が朝鮮人を捜しに来ていました。現在は丸山地区の自治会館になっている当時の飯場にも、近隣部落から「丸山にいる2人の朝鮮人を生かしておくわけにはいかない」という声が伝わってきていました。追悼・調査実行委員会の平形千恵子さん(82)は自治会館の敷地の境界になっている段差を指し、山地区の住民と近隣の自警団がこ階段をはさみ、朝鮮人の引き渡しを巡ってやりあった」と語ります。

頼関係
 当時を知る住民は「(近隣部落の人が)警察の命令で渡せと言ってきた。丸山の人たちは『非国民だ、殺してしまえ』とわれながらがんばった」と語っていました。
 引き渡すと殺されるとわかっていた丸の住民は「長く土地に住んでいた朝鮮人で、悪いことはしていないとみんが認め」て守り、翌日警察に送り届けました。その後習志野収容所に送られた2人は生還し、お礼に丸山に訪れてリランを踊ったと伝えられています。
 平形さんは「丸谷地区の人たちは、朝鮮人労働者と日ごろの付きあいがあり信頼関係ができていたのでしょう。この数年後に丸山で農民組合が作られ、活動の記録が残っています。
なぜ丸山だけが朝鮮人を守ったのか、明らかにするのも今後の課題です」と話しています。
                            (おわり) (小梶花恵)