2023年8月7日月曜日

定例の敗戦イベントに意味再考/日本への原爆投下によって米英はソ連との戦争を始めた

 植草一秀氏が「定例の敗戦イベントに意味再考」とする記事を出し、日本の敗戦に纏わる当時の状況について考察しました。

 まず米軍による広島、長崎の原爆投下、東京大空襲を含む日本全国での空爆、民間人の大虐殺は明白な戦争犯罪、国際法違反行為であると述べましたそして終戦間際にソ連が「ソ中立条約」を破り対日参戦したのは米国がソ連対日参戦を求めたためで、ソ連の行動を非難するなら同時に米国の行動も非難する必要があるとしています
 ルーズベルト大統領の死を受けて就任したトルーマン大統領はその一方で、ソ連の影響を最小限に抑制するために日本降伏する前に原爆を投下することに必死になり、ギリギリでそれを成功させました。
 トルーマン大統領はまた、日本の降伏を促すため「無条件降伏」の「再定義」を模索し、日本を災厄へ導いた軍事的指導者の影響力除去を求めるが日本国民の絶滅や奴隷化を意味するものでないことを公表しまし。しかしそれが却って戦争推進勢力を自暴自棄の抗戦に走らせたという側面があり、結果的に広島、長崎への原爆投下が実行され、ソ連が対日参戦し、多数の日本兵のシベリア抑留などが生じる原因が創出されたのでした。
 その点で、米国の戦争犯罪を糾弾することが必要ではあるものの、日本政府が無謀な戦争に没入終戦を遅らせた責任も重大であるとし、植草氏は、日本敗戦の季節が到来し、敗戦時の事象が取り上げられるが、戦争責任と戦争犯罪の事実を明らかにして適正な責任処理を行うとともに、戦争の教訓を確立しなければ歴史から学ぶことにはならないと述べています

 併せて櫻井ジャーナルの記事「広島と長崎への原爆投下によって米英はソ連との戦争を始めた」を紹介します。
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定例の敗戦イベントに意味再考
                植草一秀の「知られざる真実」 2023年8月 6日
78年前の1945年8月6日午前8時15分、米国は広島に原子爆弾リトルボーイを投下。
きのこ雲の下に、抱き合う黒焦げの親子、無数の遺体が浮かぶ川、焼け崩れた建物。
幾万という人々が炎に焼かれ、その年の暮れまでに14万人もの命が奪われた。
これだけではない。米国は同年8月9日午前11時2分、長崎にプルトニウム原子爆弾ファットマンを投下。原爆投下により長崎市の人口24万人(推定)のうち約7万4千人が殺害された。負傷者も7万人超に達した

1945年3月以降、米国は日本の主要都市において焼夷弾による空襲を繰り返した。
3月9日から10日にかけての東京大空襲では東京の一般市民8万4000人が殺害された。
東京だけでない。日本全国の主要都市で焼夷弾爆撃が展開された
50万人以上の一般市民が虐殺された。
広島、長崎の原爆投下、東京大空襲を含む日本全国での空爆、民間人の大虐殺は明白な戦争犯罪、国際法違反行為である。

ウクライナ戦争でロシアの戦争犯罪を叫ぶ米国。その米国が重大な戦争犯罪を実行してきている事実が存在する。
日本の敗戦は時間の問題だった。しかし、米国政府は日本を最速で降伏させて戦争を終結させることよりも、二つの目的を達成することを目指して行動したと見られる。
二つの目的とは、ソ連の影響を最小限に抑制すること、日本降伏前に日本に原爆を投下すること、である。
可能な限り早期に原爆を投下し、ソ連の影響力が拡大する前に戦争を終結させる。これが米国の行動基準であったと考えられる。

1945年2月のヤルタ秘密協定で、ドイツ敗戦90日後のソ連の対日参戦および千島列島・樺太・朝鮮半島・台湾などの日本の領土処遇が決定されている。
ヤルタ秘密協定を締結したのは米国とソ連。
日ソ中立条約は1941年に締結され、有効期間は5年間だった。
ソ連が日ソ中立条約を破棄して対日参戦したことを批判する者は多い。
しかし、ソ連の行動は米ソの協議によって決定されていた。ソ連の対日参戦を求めたのは米国である。ソ連の行動を非難するなら、同時に米国の行動も非難する必要がある。

米国は対日戦争を終結させるためにソ連の力を必要としたが、ソ連の権益が拡大することを恐れた。同時に原爆を実戦使用してソ連に対する優位を確立しようとした。
そのために、原爆投下と原爆投下後の早期戦争終結を目指したのである
7月26日に「ポツダム宣言=日本への降伏要求の最終宣言」が発出された。
米国のフランクリン・ルーズベルト大統領は枢軸国のドイツ、イタリア、日本に対して無条件降伏を求めるスタンスを貫いた。しかし、1945年4月にルーズベルト大統領は死去。
無条件降伏の内容にはあいまいな部分が存在していた。
5月7日にナチス・ドイツが無条件降伏して対ドイツ戦が終結。

米国大統領に就任したトルーマン大統領は日本の降伏を促すため「無条件降伏」の「再定義」を模索。
米国が求めるのは軍事的な無条件降伏であり、日本を災厄へ導いた軍事的指導者の影響力除去を意味するもので日本国民の絶滅や奴隷化を意味するものでないことを公表した。
しかし、日本政府はポツダム宣言を黙殺した。その結果として広島、長崎への原爆投下が実行され、ソ連が対日参戦。多数の日本兵のシベリア抑留などが生じる原因が創出された。

日本政府が早期に戦争を終結させていれば日本国民の犠牲ははるかに小さく済まされた。
米国の戦争犯罪を糾弾することが必要であるが、日本政府が無謀な戦争に入し、終戦を遅らせた責任も重大である。
日本敗戦の季節が到来し、敗戦時の事象が取り上げられるが、戦争責任と戦争犯罪の事実を明らかにして適正な責任処理を行うとともに、戦争の教訓を確立しなければ歴史から学ぶことにはならない。

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広島と長崎への原爆投下によって米英はソ連との戦争を始めた
                         櫻井ジャーナル 2023.08.05
 今から78年前の8月6日、アメリカ軍はウラン型原子爆弾「リトル・ボーイ」を広島へ投下、その3日後にプルトニウム型原爆「ファット・マン」を長崎へ落とした。
 ハリー・トルーマン大統領が原爆投下を許可したのはアメリカ、イギリス、中国が「ポツダム宣言」を発表する2日前、7月24日のことだ。日本が「ポツダム宣言」にどう反応するかを見ずにトルーマンは原爆投下による市民虐殺を決めたわけである
 投下決定の8日前、7月16日にニューメキシコ州のトリニティ実験場でプルトニウム原爆の爆発実験が行われ、成功している。その翌日から始まるポツダム会談を意識しての実験だった。当初の実験予定日は7月18日と21日の間だったが、トルーマンの意向で会談の前日に早めたのである。
 核兵器の開発プロジェクトは「マンハッタン計画」と名付けられていたが、最も積極的だった国はイギリス。1940年2月にバーミンガム大学のオットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスのアイデアに基づいてプロジェクトが始まり、MAUD委員会なるものが設立された。
 この委員会のマーク・オリファントがアメリカへ派遣されてアーネスト・ローレンスと会ったのは1941年8月。そしてアメリカの学者も原子爆弾の可能性に興味を持つようになったと言われている。この年の10月にルーズベルト大統領は原子爆弾の開発を許可、イギリスとの共同開発が始まった。日本軍が真珠湾を奇襲攻撃する2カ月前のことだ。
 1943年には核兵器用のウランとプルトニウムを製造するため、テネシー州オーク・リッジに4施設が建設され、そのひとつはオーク・リッジ国立研究所へと発展した。ワシントン州に建設されたハンフォード・サイトではプルトニウムを製造するため、1944年9月にB原子炉が作られている。
 この「マンハッタン計画」を統括していたアメリカ陸軍のレスニー・グルーブス少将(当時)は1944年、同計画に参加していたポーランドの物理学者ジョセフ・ロートブラットに対し、その計画は最初からソ連との対決が意図されていると語ったという。(Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury, 2017)

 本ブログでは繰り返し書いてきたが、ウィンストン・チャーチルたちの目的はソ連(ロシア)を破壊し、占領すること。ナチスがドイツで実権を握る際、シティとウォール街、つまり米英金融資本が資金援助していたのはソ連を倒させるためだ。
 ナチスへの資金援助で特に重要な役割を果たしたのはディロン・リード、ブラウン・ブラザース・ハリマン、ユニオン・バンキングなど。その経営陣にはジョージ・ハーバート・ウォーカー、その義理の息子であるプレスコット・ブッシュ、ブッシュと同じエール大学のスカル・アンド・ボーンズに入っていたW・アベレル・ハリマンも含まれている。そのほかスイスで設立されたBIS(国際決済銀行)や第2次世界大戦が勃発する半年ほど前にドイツへ約2000トンの金塊を渡したと言われているイングランド銀行も仲間だと言えるだろう。
 アメリカでは1932年の大統領選挙でウォール街の傀儡で現役のハーバート・フーバーが敗れ、ニューディール派のフランクリン・ルーズベルトが勝利した。ルーズベルトは巨大資本の活動を規制し、労働者の権利を拡大する政策を推進しようと計画、国際問題では植民地やファシズムに反対していた。これはウォール街にとって容認できないことだ。
 そこで金融資本は在郷軍人会を利用したクーデターを計画する。計画の中心的な存在は巨大金融機関のJPモルガン。司令官としてダグラス・マッカーサーを考えたが、人望があり、軍の内部への影響力が大きいスメドリー・バトラーを取り込まないとクーデターは無理だという意見が通り、バトラーに働きかけることになる。

 ウォール街のクーデター派はドイツのナチスやイタリアのファシスト党、中でもフランスのクロワ・ド・フ(火の十字軍)の戦術を参考にしていた。彼らのシナリオによると、新聞を利用して大統領への信頼感を失わせるようなプロパガンダを展開、50万名規模の組織を編成して恫喝して大統領をすげ替えることにしていたという。
 話を聞いたバトラーは信頼していたフィラデルフィア・レコードの編集者トム・オニールに相談、オニールはポール・コムリー・フレンチを確認のために派遣する。フレンチは1934年9月にウォール街のメンバーを取材、コミュニストから国を守るためにファシスト政権をアメリカに樹立させる必要があるという話を引き出した。バトラー少将は1935年にJ・エドガー・フーバーに接触してウォール街の計画を説明するのだが、捜査を拒否している。
 ドイツ軍は1941年6月、ソ連に対する軍事侵攻を始めた。「バルバロッサ作戦」だ。1942年8月にスターリングラード市内へ突入するが、ここでもソ連軍に敗北、1943年1月に降伏。この段階でドイツの敗北は決定的になった。この展開にチャーチルは慌てる。
 1943年1月にフランクリン・ルーズベルト米大統領とウィンストン・チャーチル英首相はフランスのシャルル・ド・ゴールらとカサブランカで会談、「無条件降伏」という話が出てくる。この条件はドイツの降伏を遅らせる一因になり、米英にはソ連対策を講じるための時間的な余裕ができたわけだ。
 その年の7月に両国軍は犯罪組織の協力を得てシチリア島へ上陸、ナチスの幹部はアレン・ダレスたちと接触し始める。「サンライズ作戦」だ。その後、アメリカの軍や情報機関はナチスの幹部や協力者を逃走させ、保護、そして雇用する。「ラットライン」、「ブラッドストーン作戦」、「ペーパークリップ作戦」などだ。
 大戦の終盤からウォール街人脈がファシストの大物を救出、保護、逃走を助け、のちに雇い入れている。その時に助けられた東ヨーロッパのファシストもウォール街人脈は助け、後継者を育成した。その中には2013年11月から14年2月にかけてウクライナでクーデターを実行したネオ・ナチも含まれている。

 ソ連の対日戦争への参加は1945年2月、クリミアのヤルタ近くで開かれたアメリカ、イギリス、ソ連の首脳による話し合いで決まっていた。ドイツが降伏し、ヨーロッパでの戦争が終結してから2カ月から3カ月後にソ連が日本に宣戦布告する条件を取り決めている。ドイツはルーズベルトが急死した翌月の5月に降伏した。8月上旬にソ連は参戦する。それに合わせ、トルーマン政権は原爆を日本へ投下した。

 ドイツが降伏した直後にチャーチルはソ連への奇襲攻撃を目論む。そこでJPS(合同作戦本部)に対して作戦を立案を命令、5月22日には「アンシンカブル作戦」が提出された。
 その作戦によると、攻撃を始めるのは1945年7月1日。アメリカ軍64師団、イギリス連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そしてドイツ軍10師団で「第3次世界大戦」を始める想定になっていた。この作戦が発動しなかったのは、参謀本部が5月31日に計画を拒否したからである。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000)
 アメリカ、イギリス、ポーランド、ドイツ。現在、この4カ国はウクライナでロシアと世界大戦を始めようとしている。