2023年8月12日土曜日

平和の旗下ろしません 骨折の痛みおし今も車椅子で国会前に 澤地久枝さん

 岸田政権5年間で43兆円の大軍拡を強行する中で終戦78年を迎えようとしています。「九条の会の呼びかけ人のひとりであるノンフィクション作家の地久枝さんは92歳のいまも、4ヵ所骨折した背骨の痛みをおして「戦争はやめて」のプラカードを掲げ、7月3日国会正門前で意思表示する「3の日行動」に参加し8月も参加するなど、反戦平和を発信し続けています。
 ライフワークの労作『記録 ミッドウェー海戦』文庫化したのを機に、しんぶん赤旗日曜版が 思いを聞きました。
 『記録 ミッドウェー海戦』は1986年に刊行された636の大です。
 最初は戦死者名簿を求めて厚生省へ行ったら『何もありません』と言われこれは自分が調べなけれぱと思い」、戦友会などの国内取材はもちろん、旅費も通訳も自費でアメリカ取材も重ね、取材期間は7年に及びました
 40数年前と言えばまだパソコンやエクセルなどのソフトも普及していない時期だったので、データ処理のため自費でコンピューターを導入し、専属のシステムエンジニアも雇ったということです。
 澤地さんは、「文庫化の話は本当にうれしかったです。地味な仕事はなかなか世に受け入れられないと思っていましたので。毎晩、本を抱えて寝ています(笑)」と語ります。
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平和の旗下ろしません 戦後78年 骨折の痛みおし車椅子で国会前に
ノンフィクション作家 澤地久枝さん
                 しんぶん赤旗日曜版 23年8月1320日合併号
 岸田政権が、敵基地攻撃能力の保有、5年間で43兆円の大軍拡を強行する中で迎える終戦78年。ノンフィクション作家の地久枝さんは92歳のいまも、反戦平和を発信し続けています。ライフワークの労作『記録 ミッドウェー海戦』の文庫化を機に思いを聞きました。
                                  金子徹記者
     さわち・ひさえ=1930年東京生まれ4歳で両親と満州に渡り敗戦後に引き
         揚げ。『妻たちの二・二六事件』『昭和史のおんな』『わたしが生きた
        「昭和」』『14歳くフォーティーン〉満州開拓村からの帰還』ほか多数

 地さんは「九条の会の呼びかけ人のひとり。国会正門前で意思表示する「3の日行動」の呼ぴかけ人でもあります。約130が参加した7月3日は、4ヵ所骨折した背骨の痛みをおして「戦争はやめて」のプラカードを掲げ、8月も参加しました
「6月は入院中で無理でしたが、7月は車椅子で参加しました。国会前には毎月100人くらい、多い時は150人くらい来ていますね。これを始めたのは8年前です。あまりの政治のひどさから、俳人の金子兜太さん(故人)に無理をいって書いてもらった『アベ政治を許さない』の文字を私は国会前で掲げ続けようと思いました」
「仕事は一生懸命やっています。いまは自分の家族のことを書いています。母の弟は軍人で、終戦の4日後に朝鮮で妻子4人で自決しました。仲のいい夫婦だったのに、その意味は何だったのか。できるうちに調べて書いておきたい」

 今回、澤地さんの子どものころの通信簿を見せてくれました。
「私は小学校5年生のころ教師に『猜疑心(さいき)心が強い(疑い深い)』と書かれる子でした。それが2年後には『この戦争に勝たなければ』思う軍国少女になりました。人間はどう変わるか分からないものです。自分が戦争で死ぬのは当たり前。日本が負けるわけはないと思い、戦争にのめり込みました。そんな私の体験も語り継ぎたい」
 周辺国との緊張を口実とした軍拡に-。
「平和のため努力するのではなく、与那国島のような小さな島にまで自衛隊を配備するのは島の住民の暮らしを軽視しています。有事の際は、与那国の人の人生はむちゃくちゃになってしまう。岸田政権は軍事費を5年間で43兆円に増やそうとしています。しかも、国会で十分な議論もせず閣議で決めてしまう。この図式は本当に危ない」

 入院を機に購読紙を半減。それでも「しんぶん赤旗」は継続しています。
「長年読んでいる『赤旗』は、他のメディアが取り上げないことをよく拾っています。『赤旗』を読まなければ時代遅れになります。共産党にはがんばってほしいです。いまのひどい政治に、あきらめたり絶望するのは簡単です。でも、そんな感情に自分をゆだねたらそこで終わりなのです。私は信ずるままを飽くことなく言い続ける。この信念が、私の掲げる小さな旗″です。小さい旗″だけど、絶対に下ろしません。だから国会正門前にも行きます。戦争をやめさせたいのです。世界の人と仲良くするには手掛かりが必要です。憲法9条は、そのための有力な提言だと思います」

『記録 ミッドウェー海戦』文庫化 無名の戦没者たちに光あてる
ほとんどが農家出身や階級の低い兵
     さわち・ひさえ=1930年東京生まれ4歳で両親と満州に渡り敗戦後に引き
         揚げ。『妻たちの二・二六事件』『昭和史のおんな』『わたしが生きた
        「昭和」』『14歳くフォーティーン〉満州開拓村からの帰還』ほか多数

『記録 ミッドウェー海戦』は、1986年に刊行。636の大著です。
「文庫化の話は本当にうれしかったです。地味な仕事はなかなか世に受け入れられないと思っていましたので。毎晩、本を抱えて寝ています(笑)」
 日本車が大敗し、太平洋戦争の分岐点となったミッドウェー海戦(42年)。丹念な取材で日本側3065人、米側362人という戦死者数を初めて突き止め、彼らの生年、家族構成などを明らかにしました。
最初は、戦死者名簿を求めて厚生省(当時)へ行ったら『何もありません』と言われました。これは自分が調べなけれぱと思いました
 戦友会などの国内取材はもちろん、旅費も通訳も自費でアメリカ取材も重ね、取材期間は7年に。データ処理のため自費でコンピューターを導入し、専属のシステムエンジニアも雇いました
 「ミッドウェー海戦の生と死」を描いたルポは週刊誌連載を経て『滄海(うみ)よ眠れ』全6巻にまとめました。『記録 ミッドウェー海戦』は、その補巻にあたります。
 本書には、戦闘経過や戦死者名簿をはじめ、戦死者の学歴や年齢、出身地や家業をデータ化したグラフや表を収録しています。

    【写真説明】ミッドウェー海戦の記録を書き上げ、現場に花束をささげる潭地さん
        =1986年6月(本人提供) (写真は省略)
「私の知る戦死者は、ほとんどが階級の低い兵隊さんで農家が多く、それまでの人生でもあまり良い思いをしてこなかった人ぱかりでした。数値化することでそのイメージが客観的に裏付けられました。戦争を数字で示せたことに、この仕事の意味があると思います」

捕虜を海に投げ
 地さんの問いあわせに答え、日米双方の遺族から寄せられた手紙やインタビューで得た声も胸を打ちます。
「戦争でみんな苦労していることが伝わります。良い夫や兄弟、子どもだった戦死者たちが、どこで死んだかも分からないままでいるんです」
 アメリカでは、日本捕虜となり尋問の末に殺された兵士の遺族にも会いました。
「よく会ってくれたと思います。ミッドウェー海戦では、同じ捕虜でもアメリカの捕虜になった日本兵は多くが生還しています。でも、日本の捕虜になり生還した米兵はいません。3人とも海に投げ込まれて死んだことが分かりました。実際は、もっと殺されていると思います。あの戦争で、あってはならないことがあった。遺族はそれをどう思っているか、知りたかった」
 アメリカ取材の詳細は『滄海よ眠れ』第4巻に記しました。

いまは戦争前夜

「80年近く前の海戦で誰が何人死んだかなんて、いまの世の中には関係ないと思う人もいるでしょう。でも、いまの社会は戦争前夜です。政治家は徴兵制をどうするかも考えていると思う。一歩間違えば戦争への道です。中国や北朝鮮などとも、悪い方向へ進むことだけを考えるのではなく、どうやって仲良くするかを考える。少なくとも私はあきらめない。あきらめない人がひとりでも増えることを願っています」