8時半に湯沢公民館を出発し、帰路は交通制限区間で30分ほど待機したため18時過ぎの帰着になりましたが、道中2箇所の道の駅での 季節の野菜や果物の買い物も楽しみました。
「無言館」は、第二次世界大戦で没した画学生の慰霊のために作られた美術館で、展示されている絵画は何も語らず「無言」ではあるが、見る側に多くを語りかけるという意味で命名されたと言われていますが、それらの絵画や彫刻、遺品を見る人たちもまた圧倒されて「無言」になる、という意味をも含んでいるといわれます。
“ 口をつぐめ、眸(め)をあけよ
見えぬものを見、きこえぬ声をきくために ” 窪島誠一郎 (館主)
(「『無言館』の坂道」よりの抜粋ということです)
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何どもいうようだが、戦没画学生慰霊美徽館「無言館」は反戦、平和祈念といった戦争記念館的な役割を果たすためにだけつくられたものではない。戦時下における画学生たちの、直情一途ともいえる絵へののめりこみおと、それゆえにあまりに時代に従順だった哀れ。私の場合はそんな画学生の絵を収集する旅に挑むことによって、これまで戦争の“セ”の字も考えずに生きてきた己れの半生の底浅を、もういちどふりかえる手だてにしたかったというのが本音なのである。
忘れてならないのは、画学生たちの絵がけっして戦争によって描かされたものでもなく、戦争のために描いた絵でもないということだ。昨年の開館時にも書かせていただいたけれど、信州の館に集まったどの絵にも、かれらがどれだけ絵を愛し絵を描きたかったかという原初の魂があふれていて心がふるえた。そこには、技術描法の巧拙など問題ではない、人間がなぜ絵を描かなけれぱならないか、何のために絵を描くのかといった命題をつきつけてくる鮮烈な自我の輝きがあるのだった。
強調したいのは、画学生たちの絵のどれもがおどろくほどの静寂につつまれていることだ。それはあの戦時下にあって、画学生たちがいかにひたむきに真剣に画布にむかっていたかという証左でもあるだろう。ここにある画学生の絵は、けっして世の中の注目をあびたいとか、評論家に誉められたいとか、展覧会に入賞したいとかいった動機で描かれたものではない。ただただ一途に、自らにあたえられた「のこりの時間」を画布にきざみこんだ絵なのだ。そして、その絵に描かれたかれらの「日常」の何と平穏で健やかなことか。ある者は愛する妻を描き、恋人を描き、妻や恋人のいない者は日頃から敬愛する父や母、可愛がっていた妹や弟の姿を画市にきざんで戦地に発っていった。それはまぎれもなく、かれらが今生にのこした青春の記憶の1ページであると同時に、かれらがたしかにそこに生きていたという「生命の証」でもあるのである。
(窪島誠一郎氏は小説家水上勉氏の息子さんです)