先週に引き続き魚住昭氏の「日本会議」に関するレポートを紹介します。
今回は戦後50年「村山談話」の参院決議拒否に関するものです。
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「戦後50年決議」をめぐる右派団体「日本会議」の暗躍
そして戦後70年の今、彼らは何をしようとしているか?
魚住 昭 現代ビジネス 2015年07月26日
(『週刊現代』2015年8月1日号より)
■「侵略戦争と認めるなど断じてできない」
かつて「参院の法王」と呼ばれた村上正邦さん(82歳)は面白い人である。幼いころから筑豊の炭鉱で苦労してきたせいか、人情味があって懐が深い。政治信条は筋金入りの右派なのだが、主義主張の違いを超えて人を惹きつける何かがある。
前に少し触れたが、私は8年前、彼のライフヒストリーを1年がかりで聞き取り取材した。彼の人生は波乱とペーソスに満ちていて、話を聞くたび私は泣いたり笑ったりしたものだが、ここでは中でも一番驚かされたエピソードをご紹介したい。
1995年、自社さ連立内閣時代のことである。村山首相は戦後50年決議の採択を目指していた。が、連立相手の自民党は決議推進派と慎重派に分かれていた。
慎重派を後押ししたのが、椛島(かばしま)有三氏が率いる「日本を守る会」と「日本を守る国民会議」('97年に両組織が合併して「日本会議」になる)である。
「守る会」と「国民会議」は前年4月「終戦50周年国民委員会」を立ち上げ、戦争謝罪決議の反対署名をはじめていた。その年秋には「国民委員会」の呼びかけで各地の県議会などで戦没者追悼の決議が相次いで行われ、翌年3月、「国民委員会」が謝罪決議反対署名506万名分を集めて国会に請願した。
そんな状況下で森喜朗幹事長や加藤紘一政調会長らが何とか与党間の合意を取りつけようと奔走した。村上さんの回想。
「焦点となったのは、決議で先の戦争が侵略戦争だったことを認めるかどうか、そしてアジア諸国に対する植民地支配に言及するかどうかでした。自民党五役は、私を除いて皆決議をやるべしと主張していた。私は侵略戦争だと認めるなんて断じてできないと突っぱねていた」
■参院幹事長室を占拠した日本青年協議会が激怒
交渉が大詰めを迎えたのは'95年6月6日夜だった。
どんな内容なら慎重派が了承できるかと加藤政調会長らが文案作りを繰り返した。その文案を衆院役員室で「これならどうです」と村上さんに提示する。彼はそれを参院幹事長室に持ち帰る。
幹事長室は、椛島氏をはじめ日本青年協議会(=後の日本会議の事務局)の関係者らに占拠されていた。彼らは文案を見て「いや、これじゃ駄目だ」「この文言はああだ、こうだ」と言う。村上さんは加藤政調会長のもとに引き返し「この文案じゃ受け入れられない」と伝える。その繰り返しで夜が更けていった。
最終的に加藤政調会長らが提示してきた文案はこうだった。
〈(前略)世界の近代史上における数々の植民地支配や侵略的行為に思いをいたし、我が国が過去に行った【こうした】行為や他国民とくにアジアの諸国民に与えた苦痛を認識し、深い反省の念を表明する(後略)〉
村上さんが口頭で伝えられた文案には【こうした】が入っていなかった。
であれば、日本が「植民地支配や侵略的行為」を認めたことにはならない。その辺が極めて曖昧になるから参院幹事長室を占拠する連中も納得できる。村上さんはそう思ってOKサインを出した。じゃ、これでいこうと、その場でシャンシャンシャンと話がついた。
■再び村上さんの回想。
「散会後に決議を成文化したペーパーをもらいました。その場で中身を確認しておけばよかったんですが、そうせず幹事長室に戻った。それで皆(日本青年協議会の面々)に『だいたいこっちの要望通りになったから、これで決めたよ』とペーパーを見せたら、皆が『何だ、これは! 村上先生おかしいじゃないか』と言い出したんです」
村上さんが改めてペーパーを見ると、加藤政調会長らから口頭で伝えられた文案と明らかに違う。【こうした】がいつのまにか挿入されていた。これだと日本が侵略戦争をしたことを認めてしまうことになる。
しかし、村上さんはついさっき役員会で了承し、その役員会は「村上からOKが取れた」と言って散会してしまった。今さら取り返しがつかない。
村上さんがつづけて当時を振り返る。
「椛島さんらはものすごい勢いで怒った。私が彼らをペテンにかけたと言うんです。なかには私のネクタイをひっつかまえて怒鳴る者もいて、参院幹事長室は大騒ぎになった。とにかく目の血走った連中が『絶対阻止』を叫んで大勢押しかけて来ているわけですからね」
■日本会議はいま何をしようとしているか
村上さんにしてみればペテンにかけられたのはむしろ彼だった。役員会で聞いた文案には確かに【こうした】はなかった。
進退窮まった村上さんはそこで決断した。「衆院が決議するのはもうやむを得ない。しかし参院では自分が責任をもって決議させない。だから了承してくれ」と椛島氏らに言った。それでどうにかその場は収まった。
村上さんは約束通り、参院での戦後50年決議をさせなかった。参院の主導権は村上さんの手にあったから議院運営委員会の段階で封じ込めたのである。
これは極めて異例の事態だった。決議は衆参両院の全会一致で行うのが国会の通例だ。言ってみればそれが日本青年協議会の介入で覆されたのである。
日本青年協議会の母体だった「生長の家」は既に代替わりして政治と絶縁し、創始者・谷口雅春の「明治憲法復元論」を封印しリベラル路線へ舵を切っていた。
本来なら谷口思想を奉じる日本青年協議会は解体されるところだろうが、椛島氏らは教団を離れた後も協議会をつづけ、「参院のドン」のネクタイを締めあげるまでの力を蓄えていた。そのバックになったのが、彼らが事務局をつとめる「守る会」と「国民会議」の組織力であることはいうまでもないだろう。
いま日本会議(+日本青年協議会)は、来年夏の参院選後を見据えて憲法改正を求める地方議会決議(ことし4月時点で27府県議会・36市区町村議会にのぼる)や1000万人署名運動などを大々的に進めている。
私の見るところでは、彼らにとって憲法改正は戦前の大日本帝国の“栄光”を取り戻すための一里塚にすぎない。その先にどんな未来があるか。想像しただけで背筋が寒くなる。
*参考:ハーバー・ビジネス・オンライン連載『草の根保守の蠢動』(菅野完著)、週刊金曜日2015年4月3日号