流山市の市民有志でつくる「“明日も平和であるために”を推進する会」が、太平洋戦争当時、少年少女だった流山市民ら91人の戦争体験の証言集「あの時子どもだったわたしたちは…流山からのメッセージ」を出版しました。
会員は、高齢化が進む戦争体験者の証言を残す「最後のチャンス」と考え、昨年9月から友人らを通じて執筆を依頼したところ、70代後半から80代を中心とする91人分が集まりました。
地元の出版社の協力を得て7月1日にできた証言集はA5判 367ページで、問い合わせ先は記事の末尾に書かれています。
地元の出版社の協力を得て7月1日にできた証言集はA5判 367ページで、問い合わせ先は記事の末尾に書かれています。
それとは別に、岐阜市で喫茶店を営む五十里正弘さんは、小学3年生の時に遭遇した米軍による空襲の記憶を、次世代に伝えようと初めて手記にまとめました。
当時父母と姉と4人で暮らしていましたが、45年7月9日夜米軍の空襲を受け、母と一緒に地獄絵の町の中を逃げ回りました。翌朝家のあったところに戻ると全焼して跡形もありませんでしたが、家族4人は無事であると分かりました。
「(現在が)余りに幸せすぎて、戦争が風化してしまうことを危惧している」と結んだ手記はA4判で4ページ。喫茶店で希望者に配る予定にしています。
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若い世代の平和の種に 流山市民有志 戦争体験証言集を出版
東京新聞 2015年7月5日
太平洋戦争当時、少年少女だった流山市民ら九十一人の戦争体験の証言集「あの時子どもだったわたしたちは…流山からのメッセージ」(崙(ろん)書房出版)が出版された。市民有志が悲惨な戦争の実態を、若い世代に知ってもらう「平和の種に」と考え、戦争体験者らに呼び掛けて完成させた。家族の戦死、空襲、疎開、勤労動員など、七十年を経た戦争の記憶を克明に記し、「戦争を繰り返すな」というメッセージが伝わってくる。 (飯田克志)
出版したのは、市民有志でつくる「明日も平和であるためにを推進する会」。メンバーは同市で二〇一三年に戦争で亡くなった画学生らの作品展を開催。今年が戦後七十年の節目で、高齢化が進む戦争体験者の証言を残す「最後のチャンス」と考え、同会を立ち上げて同書を企画した。
昨年九月から友人らを通じて執筆を依頼。予想を超える九十一人分が集まり、地元の同社の協力も得て今月一日に出版した。上谷章夫代表(74)は「自分の体験を伝えたいという気持ちからだと思う」と話す。
「証言」したのは七十代後半から八十代が中心で、出版前に二人が亡くなった。空襲、少年、少女、中国東北部の満州などからの引き揚げ、流山での戦争体験、聞き書きの六章で構成。
同市は東京のベッドタウンとして発展しており、市民の出身地もさまざまなため、被爆した広島、長崎両県や秋田県、愛知県など全国各地での戦争の記憶を網羅している。
伊橋幸生さん(81)は十五人の子どもを産んだ祖母の生涯を振り返った。七人を出征させ、五人が戦死。当時の新聞には「軍国の家」、「家の誉(ほまれ)」と掲載されたことを紹介。つらい思いを胸に秘めて銃後を守り、終戦から五年後に六十七歳で亡くなった祖母をしのんでいる。
現在の柏市に住んでいた横銭忠男さん(78)は家の前を通る、軍需工場に動員された旧制中学生らの疲れ切った姿が強い印象で残り、「国策として、二度とこのような愚かなことを許してはなりません」と指摘する。
同会の勝山徳三郎さん(77)は七歳の時に遭遇した東京大空襲の手記を寄せた。防火用の貯水プールに兄と入って九死に一生を得たことなどをつづっていて、「今も鮮明に覚えている。戦争についてあまり話してこなかったが、年も年なので残すならこれが最後と思って書いた」と明かす。
同会は市内の全小中学校に著書を寄贈する。宮内徹也副代表(73)は「当時の子どもや少年少女の体験や思いは、現在の同年代にも理解しやすいはず」と話す。上谷代表は「戦争の実態を知って、平和について考えてほしい」と呼び掛けている。
A5判。三百七十六ページ。二千百六十円。問い合わせは同書房=電04(7158)0035=へ。
91人の戦争体験証言集を出版した「明日も平和である
ためにを推進する会」の上谷さん(中)ら=流山市で
(写真はコピーできないため割愛します)
岐阜空襲、惨状伝える 消せない記憶、初めて手記
岐阜新聞 2015年07月05日
一夜のうちに岐阜市中心部が焦土と化した1945年7月9日の「岐阜空襲」から、間もなく70年を迎える。同市坂井町で喫茶店を営む五十里(いそり)正弘さん(79)は、小学3年生の時に遭遇した米軍による空襲の記憶を、次世代に伝えようと初めて手記にまとめた。逃げるときに目にした、乳母車に覆いかぶさる母親の黒焦げの遺体や、ひたすら念仏を唱える人々の姿などを生々しく記録し、平和の大切さを訴えている。
国内の各都市で空襲による被害が甚大になってきた当時、五十里さんは岐阜駅近くの坂井町の自宅で父と母、姉の4人で暮らしていた。
7月9日夜、空襲警報が鳴り響いた。「今日も警報だけか」と思っていたが、その夜は違った。突然、「ザザザザザーッ」という音が聞こえ、家の外へ飛び出すと、焼夷(しょうい)弾などが次々に頭上から降ってきた。街は逃げ惑う人であふれ、五十里さんは父と姉からはぐれてしまい、母と一緒に長良川の方へと向かった。
混乱の中どこをどう通ったのかは覚えていないが、「街中はまさに地獄絵だった」と振り返る。着衣に火が燃え移り「熱い熱い」と転げまわる人、焼夷弾が防空壕(ごう)を直撃し即死状態の人-。うめき声が至る所で響く中、岐阜高校裏の長良川の河原で母親に身を寄せ、恐怖で眠れない夜を明かした。
翌朝、生き延びた2人は焼け野原となった街を歩きながら、家のあった方向へと歩いた。家は全焼し跡形もなかったが、幸い、父と姉は無事で家族みんなが生きているのを喜びあった。
自宅の周りには、性別が分からない炭のような真っ黒い遺体がいくつも転がっていた。「悲惨な光景と、鼻につく死臭は今でも忘れられない」と話す。
父と母がバラック小屋を建て、程なくして自宅を再建した。
戦後70年、復興を遂げた岐阜市では戦争の爪痕を探すのは難しい。戦争を知る世代も減る中、手記は「(現在が)余りに幸せすぎて、戦争が風化してしまうことを危惧している」と結んだ。手記はA4判で4ページ。喫茶店で希望者に配る予定だ。「戦争は人殺しであり、きれいな結末などない。一人でも多くの人に岐阜で起きたことを知ってもらい、平和のありがたさを感じるきっかけになれば」と願っている。