2016年2月18日木曜日

18- ケネディ大統領とその弟の死、反体制派スターたちの死・・と米情報機関

 アメリカは陰謀・謀略の国家です。「マスコミにのらない海外記事」と「櫻井ジャーナル」がほぼ同じ時期に陰謀国家アメリカを取り上げました。
 
 ケネディ大統領の暗殺には国家の機関が関与していましたが、弟のロバート・ケネディ暗殺も同じように仕組まれた陰謀事件でした。ケネディ大統領暗殺の真相は、それが余りにも国の体面にかかわるものであったために、ジョンソン大統領によって2036年まで封印されました。
 
 9・11事件では3000人の人命が失われましたが、それほど悲劇的な陰謀に国がかかわることはあり得ないと思うのは間違いです。2つのビルともう一つの遥かに離れたビルが、航空燃料で、あれほど劇的に崩壊することはあり得ません。鉄筋を溶かすほどの高温を発する特殊火薬が3棟のビルに予め取り付けられていたのでした。
 
 陰謀・謀略には限度というものがありません。
 アメリカの著名な反体制派スターたちは次々と不審な死を遂げました。それには麻薬が重要な役割を果たしたということです。
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ケネディ大統領と弟のロバート・ケネディは軍産複合体に暗殺された
マスコミにのらない海外記事 2016年2月17日
Paul Craig Roberts 2016年2月13日
イギリスのテレグラフなどの売女マスコミは、政府の陰謀が暴露されたのを覆すのに大変なエネルギーを使っている。例えば、9/11公式説明は、あらゆる証拠と物理学の法則にあわない、でっちあげの作り話であるという膨大な証拠を提供している何千人もの高層建築設計者、構造技術者、物理学者、ナノ化学者、解体専門家、緊急救援隊員、軍や民間のパイロットや元政府高官は、売女マスコミによって“陰謀論者”として片づけられている
 
同様に、ジョン・F・ケネディ大統領は、オズワルドによってではなく、アメリカの偏執的な反共産主義軍産複合体によって暗殺されたことを何の疑いの余地もなく証明したジェームズ・W・ダグラスのような人々は陰謀論者として片づけられる。
 
9/11委員会報告と、ウォーレン委員会報告は隠蔽の代物だ。ディック・チェイニー副大統領と彼が支援するネオコンは、アメリカ/イスラエルの家臣にならずに、独自の外交政策を持った中東の国々に対する軍事攻撃を始めるため、“新たな真珠湾”が必要だった。9/11は、連中が画策した“新たな真珠湾”で、この事実は、9/11被害者の家族が断固捜査を要求し、大金を払っても買収できなかった際に、隠蔽せざを得なかったのだ。
 
同様に、ウォーレン委員会は、人気の高いアメリカ大統領、ジョン・F・ケネディが、偏執的な反共産主義者連中から“共産主義に甘く”、それゆえ、アメリカ合州国の安全保障に対する脅威と見なされていたために、統合参謀本部、CIAとシークレット・サービスによって殺害されたので、隠蔽する以外の選択肢はなかったのだ。冷戦は続行中で、ウォーレン委員会は、アメリカ軍と安全保障機構に対する国民の信頼を破壊することなしには、犯行した連中に責任を負わせることはできなかったのだ。
 
それでも、オズワルドに対してでっちあげられた主張に気がついていた人々全員、一体何が起きたのかを知っていた。そうした人々の一人が、JFKの弟、ロバート・ケネディ司法長官だった。
 
ロバート・ケネディは状況を理解していた。隠蔽した政権 の一員として、それについては何もできないことが分かっていた。ところが、もし大統領に当選すれば、治安組織の犯人連中に責任をとらせることができるのを彼は知っていた。彼の兄は再選された後で、“CIAをバラバラにする”つもりだと彼に語っていた。ベトナム戦争でリンドン・ジョンソン大統領が駄目になると、ロバート・ケネディがアメリカ次期大統領候補として出現した。
 
ロバート・ケネディは、カリフォルニア州での民主党予備選に勝利した夜に暗殺された。サーハン・サーハンが犯人にされた。彼はケネディの前に立っていた。彼は8連発の小口径ピストルを持っていて、それを発砲した。彼は、ケネディの隣に立っていたポール・シュレードを撃った。だが彼はケネディを撃ってはいなかった。ケネディは、医学的証拠と目撃者たちによれば、彼の背中と、後頭部への銃撃で殺害されたのだ。
 
ロバート・ケネディが撃たれた際、すぐうしろに立っていた著名なジャーナリスト兼ドキュメンタリー映画制作者が何年も前に確認してくれた。ケネディに命中した銃弾が自分の耳の脇を通るのを感じ、それが命中するところを見たと彼は言った。彼はFBIに詳細な報告書を書いたが、立派な資格にもかかわらず、捜査関係者からは接触はなかった。
 
48年後、先週水曜日、ポール・シュレードが、現在71歳のサーハン・サーハンの仮釈放聴聞で、ロバート・ケネディは、サーハン・サーハンが立っていた前からではなく後ろから誰かに撃たれたという決定的な証拠を提示した。
ポール・シュレードの声明はここで読める。
 
もちろん、売女マスコミは、ケネディが暗殺された際、彼自身も銃撃されたポール・シュレードを“陰謀論者”だと言うだろう。陰謀論者というのは、動かぬ証拠を基にして、無辜の第三者に政府の犯罪をなすりつける政府に対して異議を申し立てる人々のことであるのを想起願いたい。
 
ロバート・ケネディ暗殺時、CIAはマインド・コントロールの実験を行っていた。専門家たちは、サーハン・サーハンはCIAの支配下にあった一人ではないかと考えている。それによって、一体なぜサーハン・サーハンに出来事の記憶がなかったのかを説明できる。
 
ジョン・F・ケネディ大統領は、ライマン・レムニッツァー議長指揮下の統合参謀本部で、高水準の不服従を味わっていたのだ。レムニッツァーは、ホワイト・ハウス会議で、大統領を軽蔑していた。アメリカがキューバを侵略し、ジョージ・W・ブッシュ政権御用達の言葉“政権転覆”を実現できるようにすべく、アメリカの街頭でアメリカ国民を撃ち殺し、アメリカ旅客機を撃墜して、カストロのせいにする、ノースウッズ作戦をレムニッツァーが、ケネディに持ち出すと、ケネディ大統領は、レムニッツァーを議長の座から下ろし、NATOのトップとして、ヨーロッパに追いやった。
 
NATOとCIAが行っていたヨーロッパでの暗殺計画、グラディオ作戦について、ケネディは知らなかったのだ。特にイタリアで、共産主義者の政治的影響力を削ぐため、グラディオ作戦による鉄道駅での一般市民に対する爆破攻撃は共産主義者のせいにされた。かくして、ケネディによるレムニッツァー放逐が、レムニッツァーをこの計画の責任者につけ、レムニッツァーに、ジョン・ケネディを駆逐する手だてをあたえてしまったのだ。
 
民主的政府が自国民を殺すことなどないと考える人は信じがたいほど無知だ。万一、読者の中に、そうした騙されやすい方がおられるのであれば、インターネットで、例えば、ノースウッズ作戦と、グラディオ作戦を調べて、よく理解願いたい。
 
Paul Craig Robertsは元経済政策担当の財務次官補で、ウオール・ストリート・ジャーナルの元共同編集者。ビジネス・ウィーク、スクリプス・ハワード・ニュー ズ・サービスと、クリエーターズ・シンジケートの元コラムニスト。彼は多数の大学で教えた。彼のインターネット・コラムは世界中の支持者が読んでいる。彼 の新刊、The Failure of Laissez Faire Capitalism and Economic Dissolution of the West、HOW AMERICA WAS LOSTが購入可能。 
記事原文のurl:
 
 
麻薬を社会に蔓延させてきたのは米英の支配層であり、麻薬漬けになるスターの背後には情報機関    
櫻井ジャーナル 2016年2月16日
 かつてスポーツ界でスターと言われた人物が覚醒剤を所持、使用していたとして逮捕されたという。麻薬類の使用は勿論良くないが、ある種の世界では蔓延しているようだ。使用していることが知られていても摘発されない人たちがいるともいう。今回のケースも、なぜ今なのかは考えてみる必要がある。
 
 日本では覚醒剤が蔓延しているようだが、世界を見渡すとケシ系のヘロイン、コカ系のコカイン、合成麻薬のLSDやMDMAが広く使われ、こうした麻薬に溺れたスターも少なくない。1960年代、麻薬を持て囃す風潮もあったが、ベトナム戦争との関係を指摘する人もいる。若者たちからすれば悲惨な現実からの逃避だが、支配層は別の思惑があったと見られている。麻薬を使うと思考力や記憶力が低下し、支配者に抵抗する意思が弱まる傾向があるのだ。コンピュータ・ゲームの類いにもそうした効果があるかもしれない。
 
 例えば、1950年代に登場、黒人音楽を白人の若者へ広めたエルビス・プレスリーは徴兵で入隊、1958年から60年にかけて西ドイツで過ごしているが、退役後は麻薬漬け。ジョン・レノンに言わせると、退役後のプレスリーは生きる屍だった。その当時、CIAは秘密裏に心理操作プロジェクトMKULTRAを進めていたのだが、西ドイツは拠点のひとつ。このプロジェクトでは幻覚剤のLSDが使われていた。
 1970年代にアメリカ議会ではCIAの秘密工作が問題になる。フランク・チャーチ上院議員を委員長とする議会の委員会で1975年にMKULTRAの問題が浮上、プレスリーも証言を求められる可能性があったのだが、77年にバスルームで急死してしまった。
 
 ローリング・ストーンズも麻薬を使っていたことで知られ、日本への入国が拒否されていた時期がある。1967年から69年にかけて警察は頻繁にローリング・ストーンズのメンバーを家宅捜索しているが、そうした際、警官が麻薬を持ち込み、それを「発見」するという形で逮捕したことが明らかになっている。
 このバンドのメンバーが始めてLSDを使ったのは1967年2月にキース・リチャードが開いたパーティでのことだとされている。その際、LSDを持ち込んだデイビッド・シュナイダーマンがイギリスの情報機関やFBIの仕事をしていたこと後に判明する。
 
 このバンドが情報機関や治安機関から狙われた大きな理由はミック・ジャガーやブライアン・ジョーンズが戦争に反対する意思を明確に示していたからだ。1968年にミック・ジャガーはベトナム戦争反対のデモに参加している。後に当局が最も警戒するようになったメンバーはブライアン・ジョーンズ。彼は同じように平和を訴えいてたジョン・レノンやジミー・ヘンドリックスにグループ結成を持ちかけていたという。
 
 ブライアンは1969年7月3日にプールで死亡した。ギネス・ビールの一族で、彼の親友だったニコラス・フィッツジェラルドによると、プールの中にいる誰かの頭が押さえつけられ、別の人物が頭を押さえつけられた人物の背中に飛び乗っていたという。その飛び乗った人物は別の男に水の中へ沈めるのを助けるように命じ、その様子を男と女が見ていたという。頭を押さえつけられていたのはジョーンズだった。
 フィッツジェラルドは友人とある人物を自動車で迎えに行っていたのだが、相手を見つけられずに戻ったところだった。そうした光景を目撃した直後、藪の中から見知らぬ男が現れ、「ここから立ち去れ、フィッツジェラルド、さもないと次はおまえだぞ。」と言われたという。フィッツジェラルドによると、一緒に目撃した友人は行方不明になったという。
 
 ジミー・ヘンドリックスが「反体制派」と呼ばれる人びとに接近する切っ掛けは1968年4月4日のマーティン・ルーサー・キング牧師暗殺。その後、ブラックパンサーなどを支援するようになり、FBIからの監視が強化されることになった。
 このロック・スターも麻薬との関係が有名だが、彼を麻薬漬けにしたのはマネージャーだったマイク・ジェフリー。この人物は「元MI6(イギリスの対外情報機関)」で、CIAとも緊密な関係にあった。ジミーはジェフリーを解雇しようとしていたが、そうした最中にマフィアがジミーを誘拐するという事件が起こった。この事件はジェフリーが彼のマフィア人脈を使って救出したことになっている。
 
 しかし、それでもジミーは1971年9月16日にジェフリーを解雇するのだが、その翌日にジミーはロンドンのアパートで昏睡状態になっているところを恋人に発見された。すぐに救急車で病院へ運ばれ、病院へ到着したのは午前11時45分、死亡が発表されたのは12時45分。ロンドン警視庁は診断したジョン・バニスター医師の証言として、ジミーは病院へ到着した段階で死亡していたと主張しているが、救急隊はそれを否定している。彼女によると、発見時にジミーはまだ生きていた。
 
 ブライアン・ジョーンズが新しいバンドのメンバーとして考えていたひとり、ジョン・レノンは1980年12月8日、ニューヨークで射殺された。レノンが反戦平和を訴えていたことは有名だが、その彼は1968年にマリファナの不法所持で逮捕されている。実は、この時、事前に警告を受けていたので友人たちと家中を調べ、麻薬類が何もないことを確認していた。この時も家宅捜索に入った警官が薬物を持ち込み、それを理由に摘発している。
 1975年から80年にかけてレノンは育児を理由にして活動を休止するが、80年10月にシングル曲「スターティング・オーバー」を発表して表舞台に復帰する。それと同時に政治活動も再開しようとしていた。殺されなければ、人種による賃金差別に抗議する日系アメリカ人のストライキに参加、集会で歌っていたはずだ。
 1979年12月にNATO理事会は83年にパーシング2ミサイルを配備することを決定、核戦争を懸念する声が世界的に高まり、反戦/反核運動が盛り上がった。そうした動きにレノンが参加する可能性は高かった。本ブログでは何度も書いたことだが、1980年代にはアメリカ憲法の機能を停止させるCOGプロジェクトが始まる。好戦派にとってレノンが目障りだったことは間違いない。
 
 ジョン・レノンも不可解な形で麻薬の洗礼を受けた。1965年2月、ジョージ・ハリソンの歯医者がハリソンとレノンを自宅に招待、ハリソンの恋人とレノンの妻と一緒に食事をしたのだが、その際、歯医者のジョン・ライリーはコーヒーにLSDを入れて4人に飲ませたのだ。その時、ハリソンはLSDのことを知らなかったという。
 
 このほかにも変死したスターは少なくないが、中でも奇怪なのは1994年4月8日に死亡したニルバーナのカート・コバーン。ショットガンで自殺したことになっているのだが、致死量の70倍以上のモルヒネが検出されている。即死していたはずで、ショットガンの引き金を引くことはできなかっただろう。ちなみに、コバーンを含むニルバーナのメンバーはWTO(世界貿易機関)を強く批判していた。つまり、新自由主義に反対していた。
 
 麻薬の歴史は米英の支配層と深く結びついている。19世紀にイギリスは深刻な貿易赤字に苦しんでいたのだが、その解決策としてイギリスの支配層が目をつけた商品がケシ系の麻薬であるアヘン。それを中国(清)へ売りつけるために始めたのがアヘン戦争アロー戦争。現在、イギリスやアメリカに君臨している富豪の少なからぬ人たちはアヘン貿易で富を築いている。
 麻薬取引で大儲けした富豪の中にはラッセル家やキャボット家も含まれているが、ラッセル家はエール大学でスカル・アンド・ボーンズを、またキャボット家はハーバード大学でポーセリアン・クラブを組織し、政治、官僚、経済、情報などの分野にネットワークを張り巡らす拠点にした。
 
 その後、ベトナム戦争では黄金の三角地帯で栽培されたケシで製造したヘロイン、ニカラグアの革命政権を倒す秘密工作ではコカイン、アフガン戦争ではヘロインがCIAの資金源になっている可能性が高い。LSDは不安定な物質で、街のチンピラが扱える麻薬ではない。MDMAはアパルトヘイト時代の南アフリカで大量に製造されていたが、最近はオランダが拠点になっているようで、流通量の約7割はイスラエル人が押さえているとも言われている。タリバン政権が倒されて以降、アフガニスタンのケシ畑の周辺をアメリカ兵がパトロールしている光景が撮影されている。