憲法記念日に当たり、高知新聞は自民改憲案について1~3日の3回に分けて取り上げ、その問題点を明らかにしました。ここでは緊急事態条項については取り上げていませんが、限られた字数の中なので問題点のすべてを網羅するというわけにはいきません。
新聞などで自民党の改憲案を取り上げるのは珍しいことですが、政府が改憲を叫んでいる以上もはや一政党の改憲案ということには留まりません。
是非各紙で取り上げてその問題点を明らかにして欲しいものです。
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【自民改憲案(上)】基盤の立憲主義が揺らぐ
高知新聞 2016年5月1日
夏の参院選が近づいてきた。衆院選との同日選になるかどうかはまだ分からないが、安倍首相は改憲を争点にする考えを明言している。
選挙結果によっては、改憲への動きが加速していく可能性がある。国会が議論する際には、首相が「全てを示している」とする、自民党が2012年に作成した改憲草案を中心に進むことになるだろう。
草案はどのような「国のかたち」を目指そうとしているのか。3日の憲法記念日に合わせて、近代憲法の本質である立憲主義や、現行憲法の国民主権、基本的人権の尊重、平和主義という三つの基本原則を中心に考えてみたい。
前文に違いがよく出ている。憲法の前文は制定の経緯や目的、基本的な原理を述べるとされ、憲法全体を貫く、土台となるべき考え方が示されているからだ。
現行憲法の前文は四つの段落から成っているが、いずれも「日本国民は」か「われらは」で始まる。主権者が国民であることを明示するとともに、近代立憲主義を徹底するという意志の表れだろう。
国や社会を営むための統治には国家の権力が欠かせないが、権力は常に乱用される恐れがある。国民の権利や自由を保障するため、権力を縛るのが憲法という考え方が近代立憲主義だ。
全面的に書き換えられた自民党草案の前文はどうか。「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって…」で書きだされている。「日本国民は」が主語の段落もあるが、続くのは国の防衛や基本的人権の尊重などの義務だ。
国民主権はうたっていても、主語の変更には国家を国民の上に置くような考え方がにじみ出ている。憲法の「名宛て人」、つまり対象は権力という立憲主義に対する無理解にとどまらず、嫌悪感のようなものがあるのではないか。
憲法の尊重擁護義務を定めた99条の変更にも当てはまる。新たに国民に対し、尊重義務を課した。国民一人一人が憲法を大切にしなければならないとしても、義務として憲法に明記することは全く別の話だ。
その一方で、天皇・摂政に課している尊重擁護義務は削除した。さらに、1条には天皇を「元首」とすることも加えている。
草案Q&Aには「明治憲法には、天皇が元首であるとの規定が存在していました」とある。だが、明治憲法では主権は国民ではなく、天皇にあった。それを忘れたかのような説明には驚くほかない。
近代立憲主義は西欧に生まれたとはいえ、いまや民主主義国共通の基盤となっている。全体主義が横行した時代の反省に立ち、より徹底するために努力を重ねてきた成果といってよい。
自民党の改憲草案はその流れから距離を置こうとしているようにも映る。この国の立憲主義が揺らぎかねない危うさがある。
【自民改憲案(中)】危うい基本的人権の尊重
高知新聞 2016年5月2日
前回みた近代立憲主義の中心となっているのは「個人の尊重」と「法の支配」だ。国家の優先が個人を犠牲にしてきた歴史を踏まえ、確立されたといってよい。
現行憲法は「すべて国民は、個人として尊重される」(13条)と規定し、そのための基本的人権を保障している。さらに97条は基本的人権について「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」「侵すことのできない永久の権利」とうたう。
自民党の改憲草案は「人として尊重される」と書き換えるとともに、97条は削除した。「個人」と「人」は大して違わないようにみえる。だが、「個人の尊重」が個人主義の原理の重視を意味していることを考えれば、個人の人権を軽視しかねない危うさがある。
ここでいう個人主義は「自由な個人」という近代立憲主義にとって極めて重要な価値のことであり、対立するものを挙げるとすれば全体主義だろう。個人主義を批判する際に用いられる利己主義とは全く別だ。
基本的人権の制約を巡っても、大きな違いがある。現行憲法が「公共の福祉に反しない限り」とするのに対し、草案は「公益及び公の秩序に反しない限り」と変更した。
草案のQ&Aは「公共の福祉」は曖昧で分かりにくいとする。それは否定しないが、公共の福祉には人権を制限できるのは他者の人権だけだという制約にとどまらず、財産権などでは公共の利益による制約も含めるようになっている。
公益・公の秩序と書き換えても曖昧さが消えるわけではない。これまで以上に国益や公共の目的を前面に出して、人権を制約できるようになるだろう。制約するための法律制定が容易になれば、人権保障は非常に危うくなる。
とりわけ問題なのは、集会や言論などの表現の自由にも公益・公の秩序による制約を加えたことだ。Q&Aは公の秩序について「『反国家的な行動を取り締まる』ことを意図したものではない」と釈明するが、それ自体が危うさの証しといえる。
安倍首相は「価値観を共有する国々との連携」をよく口にする。民主主義や法の支配、人権尊重などの普遍的価値観のことであり、その基盤である近代立憲主義も当然含まれるだろう。
「価値観外交」が中国をにらみ、対中包囲網の形成を狙っていることはいうまでもない。確かに、習近平指導部は普遍的価値を拒絶し、秩序維持を理由に言論・情報統制などを一段と強化している。
では、改憲草案はどうなのか。Q&Aには「西欧の天賦人権説に基づく」規定を改めたとあり、「普遍」の文字を削除した一方、「日本らしさ」が強調されている。
近代立憲主義を転換し、基本的人権の尊重も軽視しかねない内容といってよい。欧米などの民主主義国から、普遍的価値観からずれた「異質な国」と受け止められる恐れはないのだろうか。
【自民改憲案(下)】平和国家が崩れていく
高知新聞 2016年5月3日
現行憲法の三大原則の一つである平和主義をめぐる改憲論議は9条が中心になってきた。それは当然ではあるが、9条を導き出す前文の存在を忘れるわけにはいかない。
現行憲法は「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し」とする。破局に至った戦争の歴史への反省を踏まえた平和主義の宣言だ。戦後の初心といってよい。
これに対し、自民党の改憲草案は「先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、…平和主義の下、…世界の平和と繁栄に貢献する」。戦前の歴史を省みる意思はないようだ。
また、現行憲法の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という部分は、「ユートピア的発想」だとして跡形もない。9条の変更を念頭に置いていることは間違いない。
理想論といえば、その通りかもしれない。だが、戦後の再出発に当たって掲げた平和への志を簡単に捨て去ってよいものだろうか。
9条について自民草案は、国際法を踏まえて「戦争の放棄」は受け継いでいるものの、現行憲法を特徴づける「戦力の不保持」と「交戦権の否認」を削除。「自衛権」を明記して集団的自衛権を行使できるようにするとともに、「国防軍の保持」をうたっている。
「違憲論」もある中、歴代の自民党政権は憲法解釈に基づき、自衛隊を「専守防衛のための必要最小限度の実力組織」としてきた。いまや世界有数の実力を保有し、災害時などに活躍する自衛隊を憲法でどう位置付けるかは、あらためて論議してよいだろう。
だが、国防軍とし、集団的自衛権行使も問題ないとなれば、自衛隊は様変わりする。安倍政権は解釈改憲によって集団的自衛権行使を容認したが、憲法の制約には配慮せざるを得なかった。
その制約が外れると、海外での軍事活動に歯止めがかからなくなる恐れがある。専守防衛に徹することによって築いてきた平和国家が崩れていくのは避けられないだろう。
草案が削除した、現行憲法の前文にある「これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」にも触れておきたい。「これ」とは民主や自由、平和の「人類普遍の原理」を指している。
近代立憲主義からの逸脱のほか、国民主権や基本的人権の尊重、平和主義の変質をもたらしかねない自民草案はどう捉えるべきなのか。個々の条文にとどまらず、草案全体を貫く方向性をきちんと見定めることが不可欠となる。
私たちは憲法を「不磨の大典」とは考えていない。私たちや子、孫らのためにどうしても必要であるなら改正してもよいが、改悪は絶対に避けなければならない。国民一人一人が主権者として熟慮を重ねた上で結論を出す必要がある。