日刊ゲンダイが「今こそ戦前の大政翼賛会体制がどんな風に出来上がったのかを復習する必要がある」という趣旨の記事を出しました。極右以外のものではない「維新」を野党の一員と見做した立民党の誤りは、共産党のクレームを受け入れて直ぐに修正はしましたが、政権党に対してどう対峙するのかが問われている野党において あってはならない「誤り」でした。これ以上はないほど深刻な問題で、日刊ゲンダイは「有権者への裏切り行為と断じてもおかしくない愚挙」と述べています。
社会大衆党(社大党)は1932年、全国労農大衆党と社会民衆党が合同して出来ました。当初はファシズムとは一線を画し、民主主義に拠りながら革新を行おうとする新しい政党を標榜し反軍的な姿勢を取っていましたが、軍部の台頭とともに徐々に親軍路線へ傾倒し、近衛文麿首相が1937年に「国家総動員法案」を提出すると、二大政党だった民政党や政友会が反対の立場を取る中で、法案賛成の討論に回ったのでした。
政治評論家の森田実氏は、「当時は政府が治安維持法をフル活用して弾圧を進めていたため右傾化はしたものの、政治家は自分なりの政治信条、主義を持っていた。しかし今はポピュリズム政治家ばかりなので、いったん右傾化の流れができるとどんどん引っ張られる。そういう意味では社大党よりも今の方が酷い状況」と述べています。
立民党が「連合」との関係もあって、この期に及んでも野党の本分に立ち返れないというのであれば、分裂してでも本来の野党に戻るべきでしょう。
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今こそ大政翼賛会の復習が必要 戦前もそれは野党の裏切りから始まった
日刊ゲンダイ 2022/2/17
(記事集約サイト「阿修羅」より転載)
方針撤回は当然として、いよいよ、この国の立憲民主主義の行方に不安を覚えた国民は少なくないだろう。共産党を除く、日本維新の会、国民民主党、旧民進党系の無所属議員による衆院会派「有志の会」との国対委員長代理らによる会合の定例化方針を打ち出した立憲民主党。立憲は昨年の衆院選前までは国民、共産、社民各党の枠組みで国対委員長会談を定期開催していたが、今回、共産を含む形式に国民などが難色を示したため、共産に代わって維新が枠組みに加わることになったという。だが、誰が考えてもこんなバカな枠組みはあり得ない話だ。
立憲の現職議員の中には、昨秋の衆院選で共産の協力があったからこそ当選できた候補者も少なくない。「小異を捨てて大同につく」と、不本意ながら立憲に投票した共産支持者だっていたはずだ。それが選挙後、手のひらを返し、「ごめんね、やっぱり維新と手を組むよ」なんて許されるはずがないだろう。
しかも、維新といえば、自民党が共謀罪や安保法など国民が猛反対する法案を強行採決する際の「先兵」として賛成に回ってきた「ゆ党」だ。国政、地方議員を問わず、差別、侮蔑発言は当たり前。政治権力は憲法によって縛られるべきもの ー と掲げた「リベラル政党」が、自民よりも極右に近いといわれる「ファシズム政党」と手を組んでどうするのか。有権者への「裏切り行為」と断じてもおかしくない愚挙と言っていい。
政治信条も主義もないポピュリズム政治家
「共産も了解いただいていると思っていたが、そうではないという声を報道で知った。丁寧さに欠いた」
共産の反発を受けた立憲の馬淵国対委員長は、方針を撤回し、共産の穀田国対委員長、れいわ新選組の山本代表にそれぞれ謝罪していたが、「了解をいただいていると思っていた」という時点ですでに政治家失格だろう。
衆院選で議席を伸ばせず、代表選で党のイメージ刷新を狙ったものの、党勢は回復せず、支持率は低迷したまま。
夏の参院選を控え、このまま惨敗するなら維新や他党と手を組んだ方がいい。そんな自己保身の打算で権力にすり寄る立憲や野党の動きは、昭和初期の社会大衆党を彷彿させる。
1932年、全国労農大衆党と社会民衆党が合同して結成された社会大衆党(社大党)。歴史学者だった故・河上民雄の著書などによると、社大党はファシズムとは一線を画し、<議会の上に安閑と眠る古い自由主義とも違う、民主主義によりながら革新を行おうとする新しい政党>だったという。満州事変や5.15事件など、当時は軍部が台頭しつつあった時代。社大党はキリスト教社会主義の流れをくむ安部磯雄が党委員長を務めた間は反軍的な姿勢を取っていたが、書記長の麻生久らが党の実権を握ると、徐々に親軍路線へ傾倒。国家主義的な主張を強めていくわけだが、そういった状況も今の立憲と重なる。
枝野前代表は2017年の結党当時、<まっとうな政治><新しい受け皿が必要>と言っていたのに、<新しい受け皿>どころか、今や憲法改正をめぐる党内のスタンスは自民保守系と変わらなくなりつつあるからだ。
政治評論家の森田実氏がこう言う。
「当時(社大党の時代)は政府が治安維持法をフル活用して弾圧を進めていたため、それが右傾化路線を促した面もあります。ただ、それでも政治家は自分なりの政治信条、主義を持っていた。しかし、今は、何もないポピュリズム政治家ばかり。野党側には(与党に)抵抗する気もないのでしょう。その場限りの風まかせですから、いったん右傾化の流れができると、どんどん引っ張られる。そういう意味では社大党よりも今の方が酷い状況です」
翼賛政治が日本を戦争の惨禍へと招いた
社大党の右傾化を背景に戦前の日本が最悪の道をたどることになるのは日中戦争が起きた直後からだ。1937年9月の臨時帝国議会で、近衛文麿首相は貴衆両院で、「できるだけ速やかに支那軍に対して徹底的打撃を加え、戦意を喪失させる以外にない」と表明。続いて12月に召集された通常議会で戦時体制の強化に向けた「国家総動員法案」を提出。すると、二大政党だった民政党や政友会が反対の立場を取る中で、法案賛成の討論に回ったのは社大党だった。
もともと「寄り合い所帯」だった社大党は親軍派で主体性を失い、党内では主流派と反主流派が反目。結局、1940年に斎藤隆夫(民政党)の「反軍演説」に対する懲罰動議の対応をめぐって党は分裂してしまう。
この頃、近衛は先鋭化する軍部によって存在感を発揮できなくなった政党に代わる勢力をつくろうと大政翼賛会の結成(新体制運動)に注力し、この運動に社大党は解党して同調。他の政党も次々と解党して翼賛会に合流し、42年4月の衆院選では、阿部陸軍大将(元首相)を会長とする翼賛政治体制協議会が結成され、選挙後は翼賛政治会が発足。政府、大政翼賛会、翼賛政治会による翼賛政治体制が確立し、以後、日本は戦争の惨禍に巻き込まれていくことになるわけだ。<ファシズムと一線を画す新たな政党>だったはずが、当初の目論見を逸脱。結果として軍部独裁を生み、国を破滅に導く一因となった面は否めないだろう。歴史は繰り返すではないが、まさに歴史的教訓と言っていい。
近衛首相の優柔不断さは岸田首相に通じる
他の野党も立憲と変わらない。社大党は1937年4月の衆院選で、陸軍支持を意味する「広義国防」を掲げ、37人が当選。政友会と民政党の二大政党に次ぐ第三勢力となったが、躍進ぶりは先の衆院選で議席を4倍に増やした今の維新と似ているだろう。
衆院選直後、維新議員の提起で文書通信交通滞在費(文通費)の問題があらためて注目され、有権者の目には「既得権益打破の政党」と映ったかもしれない。
だが、その実態はどうか。繰り返すが、過去の国会審議では自民が次々と繰り出した悪法を支持していたばかりか、国防などに関わるスタンスでは「開戦やむなし」と受け取られかねない論調も見受けられる。共産党排除を強力に主張しているのも維新で、立憲はそんな愚弄政党を国民と一緒に抱き込み、権力の座から離れることを恐れて“エセ野党連合”をつくろうとしているのだからクラクラする。
メディアのトンチンカンな「批判ばかり」報道を気にして野党が健全な批判をやめれば与党・自民党が喜ぶだけ。
その先にあるのは歴史が示す通りで、「右向け右」の世界にいったん足を踏み入れれば、もはや後戻りが出来なくなるのだ。
衆院事務局に30年余り勤めた元参院議員の平野貞夫氏がこう言う。
「近衛首相の優柔不断さは今の岸田首相にも通じるものがあります。近衛内閣ではそれが軍部台頭を招く一因にもなったが、そういう意味では、今の政治情勢は似ているところがあるでしょう。戦前、国権派は日中戦争などを口実に権力を拡大したが、今は台湾有事や対中関係を理由にしている。今は戦争に至っていないだけで、やっていることは変わらない。推測ですが、(立憲の支持団体である)連合が与党に近づき、右傾化しつつあるのも、軍需産業などを背景にしたミリタリー・キャピタリズムの動きと無関係ではないでしょう」
今の野党の動きや腰の定まらない岸田政権を見ていると、ウクライナ情勢の動向によっては一気に派兵なんて事態も絵空事ではない。