2022年3月13日日曜日

米国の侵略戦争だけが正義で、米国の戦争犯罪だけが不問で免責なのか(世に倦む日々)

 世に倦む日々氏が、「なぜ米国の侵略戦争だけが正義で、米国の戦争犯罪だけが不問で免責なのか」とする記事を出しました。

 同氏は、子どもと妊婦のいる病院が爆撃された。死傷者が出た。何の罪もない民間人が殺されている。大量殺戮だ。戦争犯罪だ。そうだ、そのとおりだ。プーチンの責任を問うて弾劾しないといけない。
 だが、同じことをアメリカはどれだけやってきただろう。どれだけ子どもや民間人を残虐に大量に殺戮し、知らん顔をして責任逃れしてきただろう。アフガンで病院を空爆して犠牲者を出したとき、そこにテロリストが潜んでいるという情報を得ていたからだと、恥ずべき言い訳をして無差別攻撃を正当化したのは米軍ではなかったか」と述べています
 今はそれを言っている場合ではないという指摘があるかも知れませんが、それは問題を先送りすることであって、第二次大戦後75年以上に渡って「米国の戦争犯罪は免責」という実態を世界が放置してきたことの非を容認するものです。
 米国の権力の前に、世界は戦争犯罪の免責を強いられてきたと言うこともできます。
 この記事に反論できる人はいないのではないでしょうか。
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なぜ米国の侵略戦争だけが正義で、米国の戦争犯罪だけが不問で免責なのか
                          世に倦む日々 2022-03-12
紹介したオリバー・ストーン作の『ウクライナ・オン・ファイヤー』は、Youtube もニコ動も、アップロードした動画が次々と消されている。削除され制限をかけられつつ、新規にアップロードが続き、それをまたアドミニが封殺するといういたちごっこが続いている。作品が世間の目に触れ評判が広まると、ウクライナの真実が透視され、この戦争の意味の理解と洞察が進んでしまう。そうなると具合が悪いため、西側当局は必死になって検閲をかけ、視聴されないよう権力的物理的に遮断・妨害しているのだ。

まさに言論・表現の自由の規制である。このことは、逆に、オリバー・ストーンの分析と解説が当を得ていて、正確で秀逸で説得力があることを証明するものだ。弾圧に怒ったオリバー・ストーンは著作権を放棄し、Rumble から自由にダウンロードできるようにしたらしい。プーチンを悪魔視してロシアを全否定し、世論の全体をゼレンスキー支持とウクライナ応援の一色に塗り潰すためには、この作品の存在は都合が悪いのだ。閲覧禁止にしないと、西側の戦争遂行の空気作りの上で邪魔になるのである。

われわれは、欧州から遠く離れた東アジアの市民なのだけれど、この戦争に参加させられていて、ウクライナ陣営に属する国家の国民として援護することを半ば義務づけられている環境に気づく。テレビは毎日欧米側のプロパガンダを流し、鬼畜ロシアを叩いて視聴者にプーチンへの憎悪を増幅させ、打倒ロシアの感情を燃えたぎらせている。まさにオーウェルの『1984年』の世界だ。オリバー・ストーンの動画をネットで細々と案内・推奨し、理性と知性のバランスに拘る者は、陰謀論者のレッテルを貼られて袋叩きされ排除される。

日本は憲法9条の国で、非武装中立を原則とする国ではなかったのか、と、か細く孤独な心境で想う。国際社会で紛争が起きたとき、どちらの側にも与せず、中立の立場で間に入り、戦争で血を流すのはよくないから話し合いで解決しようと促し、お金で解決できるのならウチが少し出すからと言い、善意の第三者として平和の方向に周旋し努力するのが、日本の国是と方針ではなかったのか。それが平和国家日本の哲学ではなかったのか。なぜ一方の当事者に加勢して一緒に戦争しているのか

ずっと昔、中学生の頃、ウィングスの『アイルランドに平和を』をラジオでよく聴いた。ポールの名曲で、ヒットチャートでも1位になり、今でもカラオケで歌える。北アイルランド紛争が激化する折、この曲は、北アイルランドをアイルランド共和国に返還せよという過激で直截なメッセージを発していて、英国では放送禁止処分となっていた。日本では大ヒット。子どもながら、これが憲法9条の中立だなあと思い、日本を誇らしく感じたものだ。半世紀前の思い出だが、私の信念の中で理想とする日本はそのまま変わらない。
    Great Britain and all the people
    Say the people must be free
    Meanwhile back in Ireland
    There's man who looks like me
ポールは歌詞の一節でこう言っていて、英国と英国政府に追随する一般の欺瞞と二重基準を告発している。meanwhileの単語はここで覚えた。ポールらしい純朴な訴えが胸に響く。

子どもと妊婦のいる病院が爆撃された。死傷者が出た。何の罪もない民間人が殺されている。大量殺戮だ。戦争犯罪だ。そうだ、そのとおりだ。プーチンの責任を問うて弾劾しないといけない。だが、同じことをアメリカはどれだけやってきただろう。どれだけ子どもや民間人を残虐に大量に殺戮し、知らん顔をして責任逃れしてきただろう。アフガンで病院を空爆して犠牲者を出したとき、そこにテロリストが潜んでいるという情報を得ていたからだと、恥ずべき言い訳をして無差別攻撃を正当化したのは米軍ではなかったか

日本人は、なぜその事実を対置しないのだろう。ファルージャの市街戦では2080人の死者が出ていて、市内の人口の3分の1が米軍の総攻撃で殺害された。あのとき、米軍はファルージャを包囲し、市内から脱出しようとする民間人を封鎖線から市内へと追い返した。無差別に、誰一人容赦なく攻撃と殺害の対象にした。ファルージャ市民全てを「テロリスト」にして砲弾と銃撃を浴びせた。そのことを、御用専門家は日本のテレビで悪びれず堂々と語っていた。ABCニュースのジョージ・ステファノプロスは、現地から(だったと記憶するが)、ファルージャを「悪魔の巣」と呼んでいた。

ロシアは安保理常任理事国で、その拒否権を使って何でも国際法違反を押し通せる。これでは国連は機能せず、国連は大国による「力による現状変更」を阻止できない。そのとおりだ。異論はない。だが、それは、アフガン戦争とイラク戦争がまさに同じだったではないかイスラエルのガザ侵攻と虐殺を擁護し免責したアメリカの国連外交がそうではないか。なぜ、それは問題視されず、無視され正当化されたままなのか。「力による現状変更」をこれまで数限りなく行ってきたのは誰なのか。アメリカではないか。侵略戦争しても民間人虐殺しても、アメリカは常に不問にされる道理は何なのか。

国連発表の数字によると、この侵攻でのウクライナの民間人死者は8日までの2週間で516人である。1日平均37人。イラク戦争のとき、3月20日の侵攻から4月19日の1か月間で、多国籍軍は1652人の民間人を犠牲にした(最大1939人)。1日平均55人。イラク戦争のときの方が数が多く、アメリカの方が多く民間人を殺している。米軍は高性能の誘導ミサイルを多く持っていて、ピンポイント爆撃を自慢するが、イラク侵攻時の米軍攻撃による1日当たりの民間人犠牲者の方が、今回のロシア軍によるそれよりも多いのである。今回、ロシアはキエフ空爆を手控えた。

侵略戦争の定石であり、米軍は必ず作戦の工程表として実行するところの、初期大規模空爆の波状攻撃をキエフに対して行わなかった。理由はさまざま言われていて、小泉悠は、ロシア軍にとって精密誘導弾の装備は高価で、米軍のように大量に無造作に使用消費できない台所事情によると説明している。私は、プーチンがキエフ市民の流血に躊躇し、国内外の世論を配慮したからだろうと推測する。空爆をすれば民間人の死傷者は大量に出る。いずれにせよ、イラク戦争のときのアメリカの方が民間人を大量に殺している。だが、われわれのマスコミ報道は、19年前、空爆の下で殺される無名の民間人には全く無頓着だった

ファルージャの身の毛もよだつ大虐殺についても、何の責任追及もされず、まともに事件検証されていない。ブッシュとラムズフェルトの戦争責任は沙汰なしで済まされた。米軍は最初からイラクでクラスター爆弾を使った。劣化ウラン弾も使用した。アフガンの作戦ではMOAB(大規模爆風爆弾)も投下した。イスラエルのガザ侵攻では白リン弾が民間人に向けて発射されている。これらの非道について、日本のマスコミではベタ記事以下の扱いで、何の非難も憤慨も発せられなかった。どうしてこれほど今回と違うのだろう。なぜアメリカの非人道兵器使用は素通りされ、ロシアのそれには怒りが沸騰するのか

世界各地でロシアを糾弾する市民のデモが続いている。あのときも、19年前も空前のデモが世界中で発生して怒濤の渦となった。日本でも久しぶりに大型の市民の反戦集会が開かれ、日比谷公園だったと思うが私も参加したことを覚えている。世界で起きたデモは今回よりもずっと規模が大きく、反対のエネルギーも強く激しかった。ロンドンでは100万人が集結した。NYでも50万人の巨大デモが実現した。ベトナム戦争以来の盛り上がりだった。私は毎日世界のデモの様子をネットで追跡し、気分を高揚させていた。

が、あれほど多くの市民が声を上げたのに、アメリカの侵略戦争を止めることはできなかった。アメリカ政府とブッシュ政権は微動だにせず、平然とイラクで無辜の民を虐殺しまくり、8年間に及んだ戦争の犠牲者数は50万人と推計されている。ブッシュとラムズフェルドを国際司法裁判所に、などという動きは寸毫も起きなかった。アメリカはイラクを制圧し、図に乗ってリビアとシリアを攻撃し、CIAの手でカダフィを惨殺した。アラブの春に便乗してアメリカがリビアとシリアに手を出した頃は、もう誰もその侵略に反対する者はおらず、西側のマスコミはCIA報道部に変わっていた。

自由と民主主義と法の支配の普遍的価値がどうのと、金科玉条のフレーズが振り回され喧しく連呼される時代に入り、力による現状変更がどうのと、中国とロシアを悪罵し排斥するナラティブ⇒物語が定着し、刷り込みの連続でセメント化し、言語と思考が薄くなる『1984年』の世界になった。今はまさに戦前から戦中に移行する局面だ。私は年をとって亀の甲羅がぶ厚くなり、人生も終盤に近づいた所為か、ウクライナの戦禍の映像を見てもあまり心を動かさない。間もなく日本も同じ戦場になると予想しているからだ。

ずっとそう言ってきたからだ。荒れ野のヨハネのように。陰謀論者と侮辱され、終末論者と罵倒されながら、審判の日が来ると言ってきたからだ。丸山真男は「戦争は一人(略)の人間がボタン一つ押すことで一瞬にし て起せる。平和は無数の人間の辛抱強い努力なしには建設できない。このことにこそ、平和の道徳的優越性がある」と言った。倫理が崩壊して、誰も平和の努力をしなくなったとき、戦争は起こる