しんぶん赤旗に、詩人槇村浩の反戦・植民地解放の活動を紹介する記事が載りました。同紙が断続的に掲載している「創立100年若手記者がたどる ~そのとき日本共産党は~ 」シリーズの「革命詩人」槇村浩編です。
若手記者が、26歳の若さで逝ってしまった槇村の活動の跡をたどる中で受けた感動がそのまま伝わってきます。
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創立100年若手記者がたどる ~そのとき日本共産党は~
「革命詩人」槇村浩編 反戦・植民地解放の訴え 今に
しんぶん赤旗 2022年5月31日
日本共産党はいま、ロシアのウクライナ侵賂に対し、「侵略やめよ」「国運憲章を守れ」の一点で全世界の団結を呼ぴかけています。反戦・平和の伝統は、100年前の党創立当初からのものです。
日本が侵略戦争に突き進む中、苛烈な弾圧に抗して、侵略戦争と植民地支配に反対し、国際的な連帯を訴えてきました。その隊列の中には、26歳の短い生涯に、燃えるような詩で反戦と植民地解放・国際連帯を訴えた若者がいました。槇村浩(まきむらこう)=本名吉田豊道です。
才能を注ぎ、命をかけて詩をつくった理由とはー.彼が残したものとはー。その答えを知るため槇村ゆかりの地へ向かいました。
おゝ3月1日
民族の血潮が胸をうつ おれたちのどのひとりが
無限の憎悪を一瞬にたゝきつけたおれたちのどのひとりが
一九一九年三月一日を忘れようぞ!
その日
「大韓独立萬歳!」の声は全土をゆるがし
踏みにじられた××(日章)旗に代へて
母国の旗は家々の戸ごとに翻った
槇村が1932年に作った長編叙事詩「間島パルチザンの歌」の一節です。1919年3月1日に朝鮮で起こった日本帝国主義の植民地支配からの独立を求めた大闘争 - 「三・一独立運動」を歌ったものです。
独立を求める声は、朝鮮全土に波及し、3ヵ月にわたり200万人を超える人が参加。日本の支配勢力は激しい弾圧を加え、多くの民衆が虐殺されました。
詩は、朝鮮と接する「満州」(中国東北部)にある間島での朝鮮民族の抗日運動をもとに、郷里の村で「三・一運動」に出合った少年が、日本の侵略に抗するパルチザン(非正規軍およびその構成員)にたくましく成長する物語です。
『プロレタリア文学』4月臨時増刊号に掲載されましたが、当局は直ちに発売禁止処分に。しかし、詩は反響を呼び、口づてに広がりました。 (新井水和)
海を越えた 平和求める心
槇村浩は、1912年6月に高知市で生まれました。幼少期に医学書を読むなど秀才ぷりを発揮し、地元の新聞では「神童」と取り上げられ、飛ぴ級で中学に入学しますが、興味があることのみに集中し、歴史書や社会運動史を読みあさる少年でした。
このため、成績不振に陥り、病気もあって長い休学をへて転校。移った先は、軍人養成のためにつくられた学校で、軍国主義的な校風が漂い、肌に合わなかった槇村は反骨精神をむき出しにします。
「軍事教練」の試験では、
白紙答案を出そうと同級生に訴え、4年生全員が白紙で提出し、行動を組織した槇村は学校を追われます。
戦争の加害や被害の調査、反戦活動家の発掘などをしている高知市内にある平和資料館「軍の家」の館長、岡村正弘さん(85)は、
「自由民権運動の発祥の地である高知の気風と、当時盛り上がっていた労働運動などに影響されたのではないか。実際に立ち上がった人々を目の当たりにしたことが大きかったと思います」と言います。
めざましい活躍
1931年、日本プロレタリア作家同盟高知支部の結成に参加。翌32年2月には日本民主青年同盟(民青)の前身である日本共産青年同盟(共青)高知地区委員会を確立して活動します。
槇村は「革命詩人」としてめざましい活躍を見せます。「間島」や「明日はメーデー」、反戦叙事詩「生ける銃架」などを発表。32年には、旧陸軍歩兵第44連隊の上海出兵の際には、「兵士諸君!敵と味方を間違えるな」「上海出兵に反対せよ」などと書いたピラをまくなど、行動し続けました。
槇村らのこうした活動を受けて、32年には高知県に日本共産党の組織が結成されました。
槇村は同年、治安維持法違反で検挙されますが、「マルクス主義の間違いを証明しようと、研究を始めたが、かえって同主義は正当で、無産階級解放の唯一の道だと認めるに至った」と非転向を貫きます。3年の実刑判決を受け、35年に出獄したものの、再び検挙され特高警察による拷問がもとで病気になり、38年9月に26歳で亡くなりました。
火を付け続ける
死後も、槇村の詩は、海と時代を超え、平和を追い求める人々の心に火を付け続けました。
「間島」が発表された同じ32年、「赤旗(せっき)」(3月2日付)は、「今年の三・一デー!!朝鮮民族解放記念日を如何に闘うべきか」の見出しで「朝鮮独立運動三・一記念日万才!」「朝鮮農民に朝鮮の土地を返せ!」「朝鮮、台湾、中国の植民地民族及び半植民地民族の完全なる解放!」と訴えるなど、植民地解放闘争の旗を掲げ続けました。
横村の活躍は今も、「朝鮮民族の不屈の革命精神をうたいあげる」(舘野哲『韓国・朝鮮と向き合った36入の日本人』)と評価されています。
「発禁」とされた槇村の詩は遠く海を越え、植民地支配に苦しむ現地の人々を励ましました。発表からわずか2年後の1935年ごろ、詩の舞台となった地で、小学校で教師が授業中におこなった朝鮮語での朗読を「聞いた覚えがある」という証言も伝えられています(戸田郁子『中国朝鮮族を生きる』)。
「草の家」の岡村さんは、「韓国のメディアが槇村のことを取材しに、ここに来ました」とうれしそうに語りました。
遺志を継ぐ若者
槇村をはじめとする活動家や党員が命がけでたたかったことで、声を上げても命が奪われない社会が築かれてきました。
高知県の日本共産党で、その遺志を継ぐ若者の一人、松本けんじ参院徳島・高知選挙区候補(38)は「情報統制をされた時代、『戦争を仕掛けたのは誰なのか』と真実を見通した詩を読んだとき、すごいなあと鳥肌が立った。でも、槇村は一人ではなく、いろいろな仲間が彼を支えていたのだと思う。私たちはどうするのかー。声を上げれば社会が変わるということを示していきたい。参院選比例5議席と自分も議席をかちとり、格差や貧困がなく平和な社会をつくる」と意気込みます。
歴史振り返り 行動を変える
高知市内を歩くと、植村が投獄されていた高知刑務所の跡地の城西公園には「間島」の詩碑が、高知駅近くの高知橋には生誕地の案内板が、平和町には墓碑がそれぞれ立っています。整備されており、「槇村が生き、たたかった歴史を残そう」とする人が数多くいるのだなと感じます。
戦後77年。植民地支配のさいの徴用工や日本車「慰安婦」問題、佐渡金山の強制労働など、いまだに解決されていない問題があります。解決しようとするどころか、韓国政府が強制労働の被害などを主張していることに対して、安倍晋三元首相は、「歴史戦」だと称し、侵略戦争や植民地支配といった歴史を改ざんしようとしています。
高知に行き、わかったことは、「平和な社会をつくるためには歴史を残し、振り返らなければいけないこと。一人の行動が、だれかの行動を変えること」です。
埋もれてしまいそうだった歴史を掘り起こし、伝えてくれた高知の人たちの姿を忘れず、私も仲間と支え合いながら、一歩ずつ進んでいきたいです。