2024年3月23日土曜日

成田悠輔を広告起用したキリン幹部は責任をとれ - キリンのコンプライアンス違反を検証する

 世に倦む日々氏が掲題の記事を出しました。
 キリンは、缶チューハイ「氷結無糖」のWEB広告に、2年前にインターネット番組「ABEMA Prime」に出演して、「高齢者は老害化する前に集団自決、集団切腹みたいなことをすればいい」と発言した経済学者・成田悠輔氏を登場させたところ、SNS上で「#キリン不買運動」が巻き起こったため、12日にこの広告を削除しました。

 成田氏の発言は、まさに年寄りは山に遺棄すればいいという姥捨山思想」そのものであり、これほど人権を無視した話もありません(数百年前から一歩も進んでいないということには呆れるし悲しいことです)。
 世に倦む日々氏によれば、「日本民間放送連盟の放送基準の第1章第1項に「人命を軽視するような取り扱いはしない」や、13章第91項に「広告は、健全な社会生活や良い習慣を害するものであってはならない」禁止事項があり、
 「日本広告業協会・広告倫理綱領」にも「広告は、人権に配慮し、不当な差別的表現をしてはならない」と規定され、「広告人 行動指針」では、「人権の尊重」が三度にわたって強調されているとし、また
 「日本広告主協会・倫理綱領」の行動指針には、「社会一般の倫理観・道徳観に則った、広く信頼を得る広告を行う」「人権を尊重するとともに、名誉や信用を傷つけたり、不快感を与えることのない広告を行う」とされているということで、
いずれにしてもこうした人物をCMの登場させるのは全ての規定・規範に反しています

 世に倦む日々氏は、成田悠輔の主張は正面からの人権否定で、~ 単純に、高齢者は社会のコストであり、長く生存させることは国家にとって有害だから絶滅させよという考え方である。新自由主義の自己責任論のシンプルで暴力的な政策表現であり、ネオリベ発狂者のストレートな欲望の吐露だ」だと厳しく批判し、安易にそうした人物を採用したキリンがすぐに広告を取り下げたからといって、不買運動の提唱者らが直ちに「もう不買運動は止めよう」と呼びかけたことについても、成田悠輔とキリンの問題をマウントゲームのネタにして遊興しているようで不快だ」と述べていて、本人は「二度とキリン製品を買わないと心に決めた」と述べています(マウントゲーム=「自己優越性を誇示するゲーム」)。
 広告が及ぼす影響を知らない筈がないキリンのこうした害悪に満ちた軽挙妄動は、確かにもっと批判に晒されるべきでしょう。

追記)15日の参議院予算委員会でれいわ新選組の山本太郎代表が、財務省と農水省が広報誌や広報番組に成田氏を登場させている理由を問いました。キリンと同様に非難を浴びるべき事案ですが、国の機関が関与したという意味ではるかに重大です。
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成田悠輔を広告起用したキリン幹部は責任をとれ - キリンのコンプライアンス違反を検証する
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キリンが「氷結」のCMに成田悠輔を起用し、批判と抗議を受けて降板を決めた騒動が起きた。3/4 にキリンが成田悠輔の出演を発表、そこからX上で不買運動が盛り上がり、3/12 にキリンが広告の取り下げを表明してウェブから削除した。「(成田氏の発言は)過度な表現があると判断しました」と撤回の理由を釈明している。「過度な表現」とは、言うまでもなく、高齢者に対して集団切腹・集団自決を求めた2年前の凶悪で冷酷な暴言を意味する。本人は、冗談ではなく、社会保障や少子高齢化の根本的解決策として、経済学者の立場から高齢者の強制抹殺を政策提言していた。現在でも取り消さずに持論として保っていて、その主張を自己正当化したままの状態にある。その成田悠輔をキリンが商品宣伝のイメージキャラクターとして抜擢しようとしていた。

この問題でまず批判したいのは、キリン不買運動を提起し扇動しながら、キリンが広告撤回を決めた途端、踵を返すように、キリンを不問にして不買運動の収束を再び衆に呼びかけた左翼インフルエンサーの態度である。政治目的を達成したから満足で愉快とばかり、撃ち方やめを仲間の左翼陣営に号令した。その筆頭は町山智浩の 3/13 のXポストであり、キリンの行動を評価して追撃を控えるように説諭している。山崎雅弘も同じで、3/14 のポストで、広告中止を受けて 3/8  に自身が書いたキリン決別宣言を削除すると投稿した。違和感を覚える。何やら、左翼が敵のネオリベ相手にネット政治ゲームを演じ、一つのバトルで勝ち星を挙げた戦果を誇示しているようで気分が悪い。しばき隊的だ。成田悠輔とキリンの問題をマウントゲーム(⇒自己優越性の誇示)のネタにして遊興しているようで不快だ。

キリンは何も説明していないなぜ成田悠輔を起用したのか、なぜ降板させたのか、理由を正しく説明していない。逃げている。消費者に対して企業として説明責任を果たしていない。キリンは説明する義務があるはずだ。そしてわれわれは、社会に大きな影響力のある大企業のキリンに対して、今回の経緯と顛末について正面から説明を求め、回答を聴かなければいけないはずだ。そうでなければ、再び同じ問題が起きるし、火種が燻ったままの状態が続く。キリンは説明もせず、反省もしていない。過誤の責任を認めていない。ネットの左翼の一般論調を聞くと、悪いのは成田悠輔でキリンは悪くないという陳腐な総括で納得し、町山智弘に従ってキリンを許してやれという空気が充満している。私の見方は逆で、成田悠輔の持論も問題だが、キリンの広告採用こそがさらに問題だという認識だ。

成田悠輔の悪魔的持論は、断固容認できない思想であり政策論だけれど、その意見を個人が持つのは内心の自由の問題である。例えば、安倍晋三を殺したいとか、そういう欲求や怨念を心の中で持つことまで禁止はできない。公的な場でそれを表明すれば、本人も媒体も責任を問われる。ルールや公序良俗に違反した言論は、市民社会から咎められ罰を受ける。その限りの問題と言える。今回の事件は、成田悠輔よりもキリンの問題であり、キリンこそが誰よりも責任を問われる立場だろう。なぜなら、今回の失態はキリンのルール違反が明確で、典型的なコンプライアンス違反の事例だからだ。キリンが成田悠輔のWEB広告を削除した理由について、キリンは「過度な表現があるから」と言葉を濁して逃げているけれど、本当は、重大なルール違反とコンプライアンス違反の自覚が社内にあるからだろう。左翼はキリンのルール違反に目を瞑れと言っているが、看過してよいとは思えない

まず第一に、成田悠輔を企業の広告に起用することは、日本民間放送連盟の放送基準に違反する行為である。BPO(放送倫理・番組向上機構)のサイトには放送基準の内容が掲載されている。その冒頭に置かれた第1章「人権」第1項に「人命を軽視するような取り扱いはしない」という規定がある。また第13章「広告の責任」には、第91項に「広告は、健全な社会生活や良い習慣を害するものであってはならない」という禁止事項が明記されている。高齢者は社会のコストだから集団自決させろと唱える政策論者を広告に出すことは、これらの規則に違反する行為だ。キリン幹部はこの放送基準を知っていたから、いきなり成田悠輔のCMをテレビに使わず、WEBに出して様子見するステップを踏んだのだろう。狡猾なリスクヘッジを試みたと推察される。WEBで非難がなければテレビに出す思惑だったのに違いない。では、WEB広告であればOKだったのだろうか。実はそうではない。

第二として、日本広告業協会・広告倫理綱領を確認しよう。日本広告業協会(JAAA)は日本の広告会社150社が参加する団体だが、この団体が業界の憲法とも言うべき基本法規の倫理綱領を定めている。そこには「広告は、関係法令や倫理規範を遵守するとともに、人権を尊重し、公正な表現を行うものでなければならない」と宣言されている。また「広告は、人権に配慮し、不当な差別的表現をしてはならない」というコード(規定)もある。このコードに照らしたとき、成田悠輔を起用したキリンの広告は明らかに violation of code⇒規約違反の事案であり、 決定的なコンプライアンス⇒法令順守違反だろう。同じページに掲載されている 広告人行動指針 では、「人権の尊重」が三度にわたって強調されている。この規則は、一義的には電通などの広告企業を拘束するものだが、電通に発注して一緒にCM制作するキリン(宣伝部)には無関係だとは言えない。そんな弁解は通用しない。

第三として、日本広告主協会・倫理綱領の存在がある。これはキリンが直接的に拘束され適用されるルールであり、遵守の義務を免れない。日本アドバタイザーズ⇒広告主協会(JAA)とも呼ぶこの団体は、JAAAの広告主版の集合だ。その憲法たる倫理綱領の行動指針にはこう謳われている。「社会一般の倫理観・道徳観に則った、広く信頼を得る広告を行う」「人権を尊重するとともに、名誉や信用を傷つけたり、不快感を与えることのない広告を行う」。JAAAの倫理綱領も、JAAの倫理綱領も、人権の尊重を第一に掲げている。それは、民間放送連盟の放送基準の第一に人権の尊重が置かれているからで、放送基準が中核で、それが業界事業者に展延されている法的構造だからに他ならない。いずれにせよ、この規範根拠によって、キリンの成田悠輔起用はアウトの結論になる。正当化できない。テレビだけでなくWEBもコンプライアンス違反だ。成田悠輔の主張は正面からの人権否定だからであり、ナチスのユダヤ人抹殺の論理と同じだからだ。

理屈を細かに分析する必要はあるまい。単純に、高齢者は社会のコストであり、長く生存させることは国家にとって有害だから絶滅させよという考え方である。新自由主義の自己責任論のシンプルで暴力的な政策表現であり、ネオリベ発狂者のストレートな欲望の吐露だ。永田町がネオリベばかりになり、マスコミとアカデミーがネオリベ論者で溢れ、新自由主義の考え方が「常識」になった結果、こうした極論が歯止めなく飛び出す状況となった。ラディカル(⇒革新的・急進的)でフレッシュな発想として脚光を浴び、論壇で持て囃される環境となった。成田悠輔の持論は極端だが、現在の地点と成田悠輔の目標との間をグラデーションの地平として想定すれば、政府の政策はどんどん成田悠輔の方向に接近していて、ベクトル⇒方向はそちらに向いている。維新の政策は、現状と成田悠輔の中間にある。老人の医療や福祉を削ったり、高齢者の負担を増やしたりする政策は、成田悠輔の極論をマイルドに薄めた人権軽視の政策である

私自身は、二度とキリン製品を買わないと心に決めた。この決意を死ぬまで保持して消費者人生を全うしようと思う。残り10年とか20年の食生活の小さな問題にすぎず、容易で些末な生活課題である。キリン製品を購入しないと生存できないという条件はない。他の競合メーカーの飲料製品で代替できる。キリンが特に魅力的な商品を市場提供しているとも思えない。技術開発に優れて評価できる企業というわけでもない。イメージとしては、民間企業としての個性や特徴のない、電通べったり("慶応フリーメーソン"の表象が怪しく漂う)で、自民党・経団連べったりのネオリベ志向の企業だ。コーポレート・コミュニケーションの中身も貧相で、横並び的かつ内向き的で、日本のそこら中にある「技術者の顔が見えない大手メーカー」の範疇である。日本の、普通の、無個性ゆえに無毒無害で安心という企業だったが、徐々に新自由主義の毒性体質を濃くし、新自由主義の闘士に変身していたのだった

キリン製品の消費者は、日本市場では消費者一般であり、大多数の庶民が該当する。所得分布のグラフを使って概念定義すれば、中央値(438万円)の左横に位置する平均所得以下のボリュームゾーンこそが、まさしくキリンのお得意さまの科学的実体だろう。富裕層の購買でキリンの収益が維持されているわけではない。いわゆる庶民層がキリンの経営を支えているお客様だ。すなわち、ここには大量の低所得層の高齢者がいて、病院代や薬代に悩みながら脆弱な年金生活を送っている。そうした人々がスーパーでキリン製品を買っている。今回の事件がキリンの今後の売上にどう影響するのかは分からない。だが、成田悠輔を広告に起用し、成田悠輔のメッセージをキリンがオーソライズする姿勢を見せたことは、庶民の心を無神経に傷つけたという意味になるだろう。若年層の消費需要だけでキリンの売上をカバーできる道理もなく、今回の騒動はマーケティング的にも失敗と言わざるを得ない。

マーケティング幹部の責任が問われるのは当然だ。電通の担当者も同罪である。