2024年3月16日土曜日

バイデン政権は状況を逆転するギャンブルをするか(その1,2)

 櫻井ジャーナルに掲題の記事が2日に渡って連載されました。
 バイデンは一般教書でイスラエルのガザにおける虐殺を擁護し、昨年10月7日のハマスの奇襲=「テロ行為」にすべての根源があると述べました。
 ガザの犠牲者数は現在3万人超と発表されていますが、それはハマスの保健省が抑制的に発表しているのであって実際の犠牲者数はそれを遥かに超えているといわれます。
   ⇒ No. 2088 世界はガザの本当の死者数を計算しなければならない
 いずれにしてもこの期に及んで10月7日の犠牲を口実にするのは余りにバランスを失し過ぎていて、本気でそんなことを口にすることに呆れざるを得ません。
 かつてのナチスドイツの「世紀の蛮行」に匹敵する大悲劇をイスラエル自身が行っているのを米国は容認するだけでなく、積極的に資金を援助し、武器・爆弾を供給しているのですから、「共同正犯」以外のものではありません。
 記事は米国とイスラエルの腐れ縁や、米国がベトナム侵略戦争の口実に「トンキン湾事件」をデッチ上げるなどの代表的な例を紹介した上で、10月7日の攻撃の前にバイデン政権とネタニヤフ政権が事前に打ち合わせをしていたことが否定できないとし、新たな偽旗作戦が用意されている可能性があるとも述べています。
 米国は落ちるところまで堕ちたというよりも、いまやその本性が増々明白になったと見るべきでしょう。
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追い詰められたバイデン政権は状況を逆転するギャンブルをするか(その1)
                         櫻井ジャーナル 2024.03.15
 ジョー・バイデンを含むネオコン、つまりアメリカの好戦的なシオニストはウクライナでロシアに敗北、イスラエル軍によるガザでのパレスチナ人虐殺の共謀者として批判されている。この状況を逆転させるためには衝撃的な、ネオコンの表現を借りるならば「新たな真珠湾攻撃のような壊滅的な」出来事が必要だと考える人もいる。「偽旗作戦」だ。
 ベトナムに対する本格的な軍事介入を実現するためにでっち上げられた1964年8月の「トンキン湾事件」も有名である。アメリカの駆逐艦が北ベトナムの魚雷艇に砲撃されたとリンドン・ジョンソン大統領は宣伝して好戦的な雰囲気を高め、1965年2月には「報復」と称して本格的な北爆を始めている。
 ベトナムはフランスの植民地だったが、1954年5月にディエンビエンフーでフランス軍はベトミン軍に降伏しているが、その直前の1月にアメリカの国務長官だったジョン・フォスター・ダレスはNSC(国家安全保障会議)でベトナムにおけるゲリラ戦の準備を提案、国務長官の弟であるアレン・ダレスが率いるCIAはSMM(サイゴン軍事派遣団)を編成した。
 ところが、ケネディ大統領はアメリカの軍隊をインドシナから撤退させると決断、1963年10月にNSAM(国家安全保障行動覚書)263を出した。1963年末にアメリカの軍事要員1000名を撤退させ、65年12月までに1万1300名を完全撤退させるとされていた。アメリカ軍の準機関紙と言われるパシフィック・スターズ・アンド・ストライプス紙は「米軍、65年末までにベトナムから撤退か」という記事を掲載している。
 言うまでもなく、このNSAM263は実行されていない。ジョンソンは1963年11月26日、つまり前任者(⇒ケネディ)が殺されて4日後にNSAM273を、また翌年3月26日にはNSAM288を出して取り消してしまったのだ。(L. Fletcher Prouty, "JFK," Carol Publishing Group, 1996)
 ベトナム駐在のヘンリー・ロッジ大使と「大統領」は11月20日にホノルルで話し合い、「南ベトナムに関する討議」の内容を再検討してNSAM273を作成したとされている。この「大統領」がケネディだということはありえない。

 トンキン湾事件の前にもアメリカ軍は偽旗作戦を計画している。ソ連に対する先制攻撃を国民に容認させる雰囲気を作るために秘密工作を実行しようとしたのだ。
 その計画の中には、キューバのグアンタナモ湾に浮かぶアメリカの艦船を爆破、その責任をキューバに押しつけて非難するほか、マイアミを含むフロリダの都市やワシントンで「爆弾テロ工作」を展開してキューバのエージェントを逮捕、事前に用意していた書類を公表、さらに民間旅客機の撃墜も演出しようとしていた。「ノースウッズ作戦」だ。その先にはソ連に対する先制核攻撃計画が存在している。
 この撃墜作戦で拠点になるのはフロリダ州にあるエグリン空軍基地。CIAが管理している民間機のコピー機をこの基地で作り、本物の航空機は自動操縦できるようにする。その上でコピー機にはCIAの管理下にある人びとをのせて離陸、途中で本物と入れ替え、コピー機はエグリン基地へ降りる。無人機はフライト・プランに従って飛行、キューバ上空で救助信号を出し、キューバのミグ戦闘機に攻撃されていると報告、その途中で自爆するというシナリオになっていた。そのほか、数機のF101戦闘機をキューバに向かって発進させ、そのうち1機が撃墜されたように見せかける計画もあった。(Memorandum for the Secretary of Defense, 13 March 1962)
 この計画をライマン・レムニッツァー統合参謀本部議長は1962年3月に国防長官のオフィスで説明するが、ロバート・マクナマラ長官は拒否(Thierry Meyssan, “9/11 The big lie”, Carnot Publishing, 2002)、その数カ月後にレムニッツァーは大統領を説得するため、キューバにアメリカ軍が軍事侵攻してもソ連は動けないと説明するが、これは無視された。
 そして1962年10月にケネディ大統領はレムニッツァー議長の再任を拒否する。その時、レムニッツァーへ欧州連合軍最高司令官にならないかと声をかけてきたのがシチリア島上陸作戦以降、彼を出世街道へ乗せたハロルド・アレグザンダーだ。イギリスの貴族階級に属する軍人で、イギリス女王エリザベス2世の側近として知られている。
 ケネディ大統領だけでなく議会の中にもこうした好戦的な軍人を懸念する人物がいて、上院外交委員会では軍内部の極右グループを調べはじめる。その中心になっていたのがアルバート・ゴア上院議員(アル・ゴアの父親)だ。調査の結果、そのグループにはレムニッツァーのほかエドワード・ウォーカー少将、ウィリアム・クレイグ准将が含まれていることが判明する。
 ケネディ大統領はイスラエルの核兵器開発には厳しい姿勢で臨んでいたことが知られている。イスラエルのダビッド・ベングリオン首相と後任のレビ・エシュコル首相に対し、半年ごとの査察を要求する手紙をケネディ大統領は送付、核兵器開発疑惑が解消されない場合、アメリカ政府のイスラエル支援は危機的な状況になると警告している。(John J. Mearsheimer & Stephen M. Walt, “The Israel Lobby”, Farrar, Straus And Giroux, 2007)
 言うまでもなく、イスラエルはその後も核兵器の開発を進め、1986年10月5日付けのサンデー・タイムズ紙に掲載された内部告発者のモルデカイ・バヌヌの話よると、イスラエルが保有する核弾頭の数は生産のペースから推計して150から200発。水爆の製造に必要なリチウム6やトリチウム(三重水素)の製造を担当していたバヌヌは水爆の写真を撮影している。また中性子爆弾の製造も始めていたとしている。(The Sunday Times, 5 October 1986)
 ケネディ大統領が1963年11月22日に暗殺された後、副大統領から昇格したジョンソンのスポンサーはアブラハム・ファインバーグ。アメリカン・バンク&トラストの頭取を務める親イスラエルの富豪だ。ジョンソンの中東政策はこの人物のアドバイスに従っていたという。この大統領交代でアメリカ政府のイスラエルに対する姿勢は大きく変わった

 現在のアメリカ大統領、ジョー・バイデンは自らがシオニストだと言うことを公言、世界ユダヤ人会議から政治的シオニズムの創始者にちなんだ賞を授与されている。昨年10月にはイスラエルでベンヤミン・ネタニヤフ首相らと会談した際、バイデンは「シオニストであるためにユダヤ人でなければならないとは思わないし、私はシオニストだ」と発言していた。また2007年には「シャロームTV」のインタビューでも自分はシオニストだと主張、息子のボー・バイデンがユダヤ系のハリー・バーガーと結婚したとも語っている。このジョー・バイデンがイスラエル、そしてベンヤミン・ネタニヤフ政権に厳しい姿勢で臨むことは考えにくい。(つづく)


追い詰められたバイデン政権は状況を逆転するギャンブルをするか(その2)
                         櫻井ジャーナル 2024.03.16
 アメリカが中東で侵略戦争を本格化させる切っ掛けは2001年9月11日に引き起こされたニューヨークの世界貿易センターとバージニア州アーリントンの国防総省本部庁舎(ペンタゴン)に対する攻撃だが、その直前、ジョージ・W・ブッシュを担いでいた勢力は厳しい状況に陥っていた。その状況を9/11が逆転させたのである。
 この攻撃では世界貿易センターの南北ツインタワーだけでなく、攻撃を受けていない7号館(ソロモン・ブラザース・ビル)も爆破解体のように崩壊している。
 このビルで最大のテナントは金融機関のソロモン・スミス・バーニー(1988年にソロモン・ブラザースとスミス・バーニーが合併してこの名称になった)で、47階のうち37階を占めていた。それ以外には国防総省、ニューヨーク市のOEM(緊急事態管理事務所)、シークレット・サービス、CIA、SEC(証券取引委員会)、IRS(内国歳入庁)、FEMA(連邦緊急事態管理局)が入っていた。
 タワーに航空機が激突した直後、7号館の23階に入っていたOEMに人がいないことをニューヨーク市住宅局に勤めるバリー・ジェニングスと弁護士のマイケル・ヘスは確認しているが、その際、ビルの中で正体不明の人物からすぐ立ち去るよう言われたと話している。当日、OEMにいたルドルフ・ジュリアーニ市長によると、南北両タワーが崩壊するという警告が午前8時46分から9時59分の間にあったとABCニュースのインタビューの中で答えている。調査委員会によるとOEMの職員が避難したのは9時30分、NISTによると9時44分頃。ジェニングとヘスの証言が正しいなら、サウス・タワーに旅客機が突入する前にいなくなっていたことになる。
 ジェニングスとヘスのふたりは階段で降り始め、8階にたどり着いたときに大きな爆発があったという。そのとき南北タワーは崩壊していない。その後、ヘスは爆発があったとする当初の証言を取り消し、ジェニングスは2008年9月に直線道路で自損事故を起こして死亡した。
 10時45分にCNNは世界貿易センターで「50階建てビル」が崩壊すると伝え、16時54分になるとBBCのジェーン・スタンドレーは肩越しに7号館が見える状態でそのビルが崩壊したとレポートしている。これは有名な映像で、見たことのある人は少なくないだろう。実際の崩壊は17時20分だ。

 当時、ブッシュ陣営の「財布」的な存在だったエンロンの破綻は不可避の状態で、シティ・グループとワールドコム倒産も表面化していた。そうした問題に関連した文書が7号館で保管されていたのだが、ビルの崩壊で無くなってしまった。金塊も消えたと言われている
 2001年9月10日にドナルド・ラムズフェルド国防長官は2兆3000億ドルの行方がわからなくなっていると発表しているが、その関連文書はペンタゴンに保管されていた。ラムズフェルドがその発表をした翌日、世界貿易センターとペンタゴンは攻撃されてビルが崩壊、重要資料はなくなっている
 この頃アメリカでは少なからぬ「イスラエル人美術学生」が逮捕されている。イギリスのテレグラフ紙によると「9/11」の前に140名のイスラエル人が逮捕され(Telegraph, March 7, 2002)、ワシントン・ポスト紙によると事件後にも60名以上が逮捕されている。(Washington Post, November 23, 2001 )合計すると逮捕者は200名に達する
 捜査が始まる切っ掛けは、2001年1月にDEA(麻薬捜査局)へ送られてきた報告で、イスラエルの「美術学生」がDEAのオフィスへの潜入を試みているとする内容だった。遅くとも2000年にはそうした動きが始まっているとされている。別の報告では、多くのDEA職員の自宅をイスラエル人学生が訪問している事実も指摘されていた。どこかでDEAに関する機密情報がイスラエル側に漏れている疑いが出てきたわけだが、この「美術学生」の正体は不明だ。
 拘束されたイスラエル人の中にはモサドのメンバーも含まれ、ポラード事件以来の重要なスパイ摘発だと言われたが、こうした出来事も9/11によって吹き飛ばされた

 アメリカのFOXニュースが2001年12月に放送した番組によると、1997年にロサンゼルスで麻薬取引やクレジット・カード詐欺などの捜査が行われた際、捜査官のポケットベル、携帯電話、あるいは自宅の電話が監視されていることが発覚、イスラエル系の電子通信会社アムドクスが疑われた。9/11の後に逮捕されたイスラエル人の1割はアムドクスの社員だったという。
 会社側は情報の漏洩を否定しているものの、1997年にベル・アトランティックがホワイト・ハウスに新しい電話回線を設置した際、アムドクスも協力している。そこで、米政府高官の電話がイスラエルに監視されている可能性がある。
 現在、ガザで繰り広げられている虐殺の序章は昨年4月に始まっている。イスラエルの警察官が4月1日にモスクの入口でパレスチナ人男性を射殺、4月5日には警官隊がそのモスクに突入したのだ。
 ユダヤ教の祭りであるヨム・キプール(贖罪の日/昨年は9月24日から25日)の前夜にはイスラエル軍に守られた約400人のユダヤ人が同じモスクを襲撃し、ユダヤ教の「仮庵の祭り」(昨年は9月29日から10月6日)に合わせ、10月3日にはイスラエル軍に保護されながら832人のイスラエル人が同じモスクへ侵入している。
 そして10月7日にハマスを中心とする武装勢力がイスラエルへ攻め込んだのだが、このハマスはイスラエルがPLOのヤセル・アラファト対策で創設した組織だ。
 ムスリム同胞団のメンバーだったシーク・アーメド・ヤシンは1973年にイスラエルの治安機関であるシン・ベトの監視下、ムジャマ・アル・イスラミヤ(イスラム・センター)を、そして76年にはイスラム協会を設立し、1987年にイスラム協会の軍事部門としてハマスは作られた。
 2004年にヤシンとアラファトは暗殺されているが、シーモア・ハーシュによると、09年に首相へ返り咲いたネタニヤフはPLOでなくハマスにパレスチナを支配させようとした。そのため、ネヤニヤフはカタールと協定を結び、カタールはハマスの指導部へ数億ドルを送り始めたという。
 その後、ハマスの内部に反イスラエル色の濃いグループも誕生し、昨年10月7日の攻撃の数カ月前、ハマスはヒズボラやイスラム聖戦と会議を開いていたと言われている。こうした組織は戦闘情報を交換していたようだ。

 こうした状況の変化はあるが、ハマスの攻撃をアメリカやイスラエルは事前に知っていたことをうかがわせる動きが見られた。
 例えば武装グループが突入した数時間後に2隻の空母、ジェラルド・R・フォードとドワイト・D・アイゼンハワーを含む空母打撃群を地中海東部へ移動しているのだが、事前に情報を持っていなければ、こうした迅速な動きはできなかっただろう。
 また、ガザはイスラエルが建設した事実上の強制収容所。巨大な壁に取り囲まれ、電子的な監視システムが張り巡らされている。人が近づけば警報がなり、地上部隊だけでなく戦闘ヘリも駆けつけることになっている。

 バイデンのシオニスト発言やこうした状況を考えると、10月7日の攻撃の前にバイデン政権とネタニヤフ政権が事前に打ち合わせをしていた可能性も否定できない。彼らには西側の有力メディアという強力なプロパガンダ機関が存在していることもあり、新たな偽旗作戦が用意されているのではないかと推測する人もいるのだ。(了)