市民ら約10万人が犠牲になった東京大空襲から10日で69年となるのを前に、8日、「語り継ぐつどい」が都内で開かれて約400人が参加しました。
作家の早乙女勝元さん(81)(主催団体:東京大空襲・戦災資料センター館長)は、「戦後の平和と民主主義に重大な危機が訪れている。戦争になったら民間人はどうなるかを伝えることがブレーキになる」と強調しました。
また同じ日、東京都墨田区のすみだ郷土文化資料館では「空襲画ギャラリートーク」が行われました。
19歳で被災した坂本邦男さん(88)は、大空襲翌日に召集され、終戦後約3年3カ月のシベリア抑留を強いられました。
坂本さんは空襲の夜のことを忘れることはありませんでしたが、ほとんど語らずにいました。しかし「家族には決して戦災の被害者にも、加害者にもなってほしくない」との思いが湧き、2003年に一枚の絵を描いて同資料館に寄贈しました。それは消火用の水槽にまるで風呂に入るようにつかったまま亡くなった既に白骨の状態の人、その忘れられない状況を描いた絵でした。
坂本さんは8日の集会で、東京空襲の悲劇を「風化させてはならない」と、米寿を迎えて語り部になることを決意し、約40人が集まったギャラリートークで約1時間にわたり当時の様子を「人々が逃げ込んだ市電がそのまま燃え上がった。この世の地獄でした」などと切々と語りました。
そして「多くの方の犠牲の上に、今の平和があることを忘れてはいけない」と呼び掛けました。
東京大空襲では、三百機を超える米軍の爆撃機が大量の焼夷弾を無差別に投下し、下町を中心に焦土と化しました。
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「戦争の惨事 ないこと願う」 東京大空襲69年語り継ぐつどい
東京新聞 2014年3月9日
市民ら約10万人が犠牲になったとされる1945年の東京大空襲から10日で69年となるのを前に、「語り継ぐつどい」が8日、都内で開かれ、約400人が参加した。家族を失った女性らが証言し「戦争の惨事がないことを願ってやまない」と、平和の大切さを訴えた。
たまたま母親の疎開先の千葉市にいて無事だった中村俊子さん(84)=千葉県勝浦市=は、四十五歳の父と十三歳の弟を亡くした経験を、自作の紙芝居を見せながら証言。空襲直後に入った東京は、建物が焼け続けていて熱気に包まれ、やけどをした遺体が路上にあふれていたと振り返った。
四十九日目に、公園に埋められた千体以上の中から二人の遺体を発見した様子も、時折声を詰まらせながら語った。
その上で「国と国の戦いは悲しい惨事をもたらす。二度と戦争が起きないよう祈る」と訴えた。
主催団体の一つ、東京大空襲・戦災資料センターの館長で作家の早乙女勝元さん(81)は、憲法解釈変更を掲げる安倍政権を念頭に「戦後の平和と民主主義に重大な危機が訪れている。戦争になったら民間人はどうなるかを伝えることがブレーキになる」と強調した。
集会では、別の被災者の証言映像が流されたほか、教育評論家の三上満さん(81)も講演した。
東京大空襲では、三百機を超える米軍の爆撃機が大量の焼夷(しょうい)弾を無差別に投下し、下町を中心に焦土と化した。
東京大空襲 88歳で語り部になる決意 「地獄でした」
毎日新聞 2014年03月08日
一夜にして10万人が亡くなったといわれる1945(昭和20)年3月の「東京大空襲」から10日で69年。19歳で被災した坂本邦男さん(88)は、大空襲翌日に召集され、終戦後約3年3カ月のシベリア抑留を強いられた。まぶたに焼き付いた大空襲の状況は、あまりに悲惨すぎて口にしづらかったが、「風化させてはならない」と、米寿を迎えて語り部になることを決意。8日、東京都墨田区のすみだ郷土文化資料館で行われた空襲画ギャラリートークで自身の体験を語った。
大空襲当時、坂本さんは現在の亀戸中央公園(江東区亀戸)の敷地内にあった工場で働いていた。あの夜、家族と共に近くの自宅で寝ていた時、轟音(ごうおん)で跳び起きた。「外は焼夷(しょうい)弾の炎で昼間みたいに明るくて、B29がその炎で真っ赤に光っていた。本当に不気味だった」
熱で道路のアスファルトは溶け、木製の電柱は燃え盛る。真っ赤になったトタン板が爆風で飛び交う中、必死に自宅近くの北十間(きたじっけん)川まで逃げ、父と川の水をかけ合って熱をしのいだ。奇跡的に家族全員が無事だったが、母や妹が避難した学校でコンクリート造りだったため熱がこもり、多くの人が蒸されるようにして亡くなったと聞かされた。
朝日が昇った時には見渡す限り焼け野原。銀座のデパートまで見通せたという。それだけ悲惨な状況なのに、戦時下の市民にはさらに過酷な運命が突き付けられる。避難した葛飾区内の伯父宅に翌11日、召集通知が届き、約1カ月後、中国大陸へ。そして終戦。凍えるようなシベリアでの抑留生活が待っていた。入隊時に約60キロだった体重は約40キロに。出征時に「空襲犠牲者の敵討ち」と意気込んでいたという坂本さんだが、京都・舞鶴港の土を48年秋に踏んだ時、「生きて戻れた」と万感胸に迫り、涙が止まらなかったという。
空襲の夜のことを忘れることはなかったが、ほとんど語らずにいたという坂本さん。家族にめぐまれ4人の子どもが成長する中、「家族には決して戦災の被害者にも、加害者にもなってほしくない」との思いが湧き、2003年、一枚の絵を描いて同資料館に寄贈した。
消火用の水槽にまるで風呂に入るようにつかったまま亡くなった人。既に白骨の状態だった。その忘れられない状況を描いた絵だ。
今は8人の孫と2人のひ孫もいる。みんなに伝えるため、人前で話すことにも挑戦することにした。約40人が集まったギャラリートークでは、約1時間にわたり当時の様子を説明。「人々が逃げ込んだ市電がそのまま燃え上がった。この世の地獄でした」などと切々と語り、そして呼び掛けた。「多くの方の犠牲の上に、今の平和があることを忘れてはいけない」【木村敦彦】