2022年1月2日日曜日

02- 25条が消えた年 - コロナ禍棄民策犠牲者の無念に手を合わせ(世に倦む日々)

 年末の30日、世に倦む日々氏が、「(憲法)25条が消えた2021年 - コロナ禍棄民策犠牲者の無念に手を合わせ」とするブログを出しました。

 コロナ第5波がピークにさしかかった8月2日、突然、菅首相が会見を開き、リスクの高い患者以外は自宅療養を基本とするという政府方針を発表しました
 テレビ「東京五輪の熱狂」を囃すなか、警察発表では8月中に全国で250人が「自宅療養中に死亡」しました。死ぬ前日に死亡前提で一日だけその種の「事務処理」をする病院に搬送された人は含まれていないことでしょう。そ時期、尾身茂が理事長を務める地域医療機能推進機構系の病院でコロナ患者用の病床が30~50%空いていました。いわゆる上級人種のために確保していたのでしょうか。
「憲法 25 第1項 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」は、いまや空文に帰しました。国から正当な扱いを受けられるのは上級に限定される、というのが8月2日発表の政策の意味するところです。世に倦む日々氏は、そうであれば憲法第25第1項は下記のように書き改められなければならないと述べています。
国民は、それぞれ地位と能力に応じて、必要な水準の健康で文化的な生活を営む権利を有する」と現にそうした政治が進められているわけです。
 同氏は、21年は憲法25条が地上から消えた年であり、憲法学者と政治学者はそれを問題提起すべき立場であるのに誰もそうしていないとして、8月から9月にかけて棄民政策で亡くなった多くの人たちの無念に手を合わせて1年を終わりたいと結んでいます

 LITERAが年末に、シリーズ「2021年、彼らのやったことを忘れるな!」のなかで、「生活保護攻撃と弱者排除はDaiGoだけではない! 片山さつき、世耕弘成、麻生太郎、石原伸晃  」を出していますので併せて紹介します。
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25条が消えた2021年 - コロナ禍棄民策犠牲者の無念に手を合わせ
                          世に倦む日々 2021-12-30
今年1年を振り返って締めくくる言葉を考えると、やはり、憲法25条が消えたという諦観に行き当たる。日本で今年起きた決定的な事件、歴史に刻まなければいけない重大事件は何かといえば、やはり、コロナ禍に襲われた2年目の夏、重症患者が次々と自宅で棄民死させられた事件だろう。ひなたクリニックが動画を投じた事件である。この問題について8月下旬から5本の記事を書いている。8/25、8/27、8/30、9/13、9/15。今年の記事を代表する1本を選べとなると、8/27か9/15の稿になりそうだ。魔の第5波がピークにさしかかった8月2日、突然、総理大臣が会見を開き、リスクの高い患者以外は自宅療養を基本とするという政府方針を発表した。事実上、カネとコネのない弱者市民、社会的地位のない庶民は入院治療させないという趣旨の決定であり、冷酷な線引きの通達である。病床など医療資源には限りがあるから、石原伸晃や著名俳優の命は救うが、そうではない虫けらの国民は我慢してもらうという大胆な新方針の提示だった。

選別されて切り捨てられた庶民には、ひなたクリニックのような訪問ドクターがあてがわれた。訪問ドクターと言っても、設備器具を持っているわけではないので見廻り以上はできず、必要な治療や手当などできない。その仕事は、家族を前に患者の自宅死を宣告して納得させることと、せいぜい、死ぬ前日に死亡前提で一日だけその種の「事務処理」をする病院に搬送することだった。テレビ報道では50代の男性と80代の男性が登場した。住居や生活の雰囲気からして2人とも低所得者層に位置する部類だ。これまで汗水垂らして働いて、給料の中から社会保険料を払ってきて、国民皆保険の制度を支えてきた日本国民である。だが、線引きされて入院治療を拒絶された。柏の妊婦に至っては訪問ドクターのサポートもなく、保健所が電話を繋いだり切ったりするだけで、赤ちゃんの命が酷薄に切り捨てられた。こうした悲劇が各地で頻発し、警察発表では8月中に全国で250人が「自宅療養中に死亡」している。その間、テレビでは「東京五輪の熱狂」ばかり放送して騒いでいた。

後から出た報道では、このときJCHO系の病院でコロナ患者用の病床が30-50%空いていたと批判されている。JCHOとは尾身茂が理事長を務める「独立行政法人 地域医療機能推進機構」のことだ。上級のためにコロナ病床を確保していたのだろうか。年末のテレビが今年を振り返る特集をやっていて、コロナ2年目という平板な総括は語られるけれど、第5波の凄絶な刻一刻に焦点を当てた報道がない。ひなたの田代和馬が登場する場面がない。「自宅療養が基本」の政府方針によって命の選別が行われた深刻な事実に触れられず、誰もが命の危険を感じながら生活していた日々に連れ戻そうとしない。もし、久米宏や古館伊知郎の番組が生きていたら、年末の回でこの問題を集中的に検証し、田代和馬に証言させ、その回想を視聴者と共有して今年を締めくくっていただろうと思われる。8月、政府はろくに説明せず、命の選別をする方針を宣告して国民に押しつけた。弱々しく抵抗したマスコミ論者は若干あったが(堤伸輔)、ほとんどは無批判に追随し、菅義偉の代弁者として示達を流すだけだった。

政府はこのときの方針を未だ正式に撤回していない。オミクロン株による感染爆発で同じ医療逼迫の事態になったら、またぞろ「自宅療養が基本」を言い出し、「訪問ドクターによる診療」をエクスキューズで言い、下級の重症患者はひなたの出動となって「自宅療養中死亡」で始末をつけられるのだろう。同じことを繰り返すに違いない。選挙で野党が勝っていれば、おそらく、長妻昭や山井和則が動いてこの方針は完全撤回となり、内部検証も加えられ、年末のNHKの報道番組で厳しく糾弾告発されていたはずだ。残念ながら野党が負けたため、そして「改革」を掲げた維新が勝利したため、コロナの治療対象を線引きする棄民政策は正当化される結果となった。すなわち継続して再び発動する態勢となった。来年、75歳以上の後期高齢者は医療費負担が2割に引き上げられる。75歳以上の下級国民がコロナに感染して重症化しても、逼迫時、まず確実に入院は断られ「自宅療養」を余儀なくされる。つまり、この人たちは、入院治療できる上級国民のために医療費負担を2倍支払わされるのだ。自分は犠牲となって。

日本国憲法 第25条

第1項 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。


憲法25条の原理原則がこの国の行政と政策から消えている。いわゆる「プログラム規定」ですらなくなっている。その前提および基礎として、この理念を支える倫理観が国民の内面から消えている。これとは逆の価値観が国民の中で支配的になっていて、それは自己責任の価値観であり、だから維新が選挙で勝つのである。その価値観に従って維新に投票するのだ。具体的に言えば、その論理はこういう中身だ。コロナに感染して重症化したのは自分の責任だ。稼いで大金を蓄えていれば、あるいは仕事で出世して人脈を築いていれば、病床の一つぐらい何とかありつけただろう。それができないのは自己責任である。貧乏人は税金も僅かしか払ってないのだから国の社会保障の制度に頼りすぎてはいけないし、むしろ多額の納税をしている富裕層こそ医療の恩恵に授かるべきだ。それが当然で公平というものだ。こういう思想と意識が主流になっていて、その信者であり権力者の菅義偉は堂々と政策決定に反映させた。私は、ここまで来たら、憲法25条の改訂を行ったらどうだろうと提案を出したい。25条を時代に適合するように変えよう。

日本国憲法 第25条

第1項 国民は、それぞれ地位と能力に応じて、必要な水準の健康で文化的な生活を営む権利を有する


この条文規定なら、上級を優先して入院治療させ、下級を棄民する政策も合憲である。何も問題ない。9条改訂論者の主張も、時代に合わないという理由からだった。憲法は時代に合わせて変えないといけないものらしい。時代に合わせてということは、国民の意識や価値観の変化に合わせてという意味だろう。それにしても、かくばかりにして、今年は憲法25条のルールとシステムが破壊され粉々にされた年だった。今年はどんな年だったかと言えば、憲法25条が地上から消えた年なのだと、その意義を言い、その悲劇と遺恨を言わなければならないはずである。それを言挙げしなければならないのは、憲法学者と政治学者のはずである。が、誰もそれを言わない。9条と並んで国の宝であった25条が無残に蹂躙されたのに、憲法学者と政治学者が一言も総括と批判を述べないのは、彼らがリベラリズムの徒になり果て、平等主義の思想の片鱗もないからだ。憲法学者と政治学者は、師走も正月も、ジェンダーとマイノリティの多様性運動に夢中で、それに飽きたら右翼と声を合わせて中国叩きの熱唱に興じている。25条など眼中にない。

8月から9月にかけて多くの者がコロナ禍の棄民で死んだ。一歩間違えば同じ運命に遭っていた。彼らの無念に手を合わせて1年を終わりたい。オミクロン株の脅威が迫る中、不気味に思い出すのは、田村憲久が報道1930でさりげに残した一言である。コロナ終息まで5年かかると言った。冗談なのか、現職大臣が小耳に挟んだ厚労医系技官による専門的予測なのかは不明だが。


【2021年、彼らのやったことを忘れるな!】 
生活保護攻撃と弱者排除はDaiGoだけではない! 片山さつき、世耕弘成、麻生太郎、石原伸晃ら自民党政治家も同罪だ
                             LITERA 2021.12.31
2021年も、残すところあとわずか。本サイトで今年報じた記事のなかで、反響の多かった記事をあらためてお届けしたい。(編集部)
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【初出 2021.08.15】
 メンタリストのDaiGoが、生活保護受給者やホームレスについて「必要のない命」などと発言したことが大きな問題になっている。
 当然だろう。「僕は生活保護の人たちに、お金を払うために税金を納めてるんじゃない」「生活保護の人に食わせる金があるんだったら猫を救ってほしい」と生活保護受給者を完全否定した上、「ホームレスの命はどうでもいい」「どちらかというといないほうがよくない、ホームレスって?」「正直。邪魔だしさ、プラスになんないしさ、臭いしさ、治安悪くなるしさ、いないほうがいいじゃん」などと、ホームレスに対する排除までを肯定したDaiGo。
 人の命に優劣をつけ、自分にとって“価値のない”者の命は殺されてもかまわないというその発言は優生思想そのものだ。しかも現実にホームレスが襲撃されたり殺人される事件は多数起きているなか、DaiGoの発言はこうしたホームレスや生活困窮者に対するヘイトクライムを誘発しかねない非常に危険なもので、断じて許されるものではない。
 DaiGoはその後、2度にわたる謝罪動画をアップしたが、自身の発言の問題が何なのか理解し反省しているとは到底思えない。動画のプラットフォームであるYou Tubeや、DaiGoを起用しているメディアも、差別発言に対して明確に否定するメッセージを発信する責任があるだろう。
 しかし、DaiGoの一件であらためて指摘しておかなくてはならないのが、生活保護受給者やホームレス攻撃が、DaiGoだけの思想ではなく、現在の日本社会で広くはびこっているものであるということだ。
 しかも、自民党の政治家たちこそが近年、生活保護バッシング・弱者バッシングを扇動してきたことを見逃してはならない。
 その筆頭格が片山さつき・元総務相だろう。現在も続く生活保護バッシングの嚆矢となったのが、2012年にもちあがった次長課長の河本準一の親族による生活保護問題だった。このケースは不正受給など違法にあたるものではなかったが(後の法改正で扶養義務が強化されることになる)、この河本の問題を利用して、生活保護バッシングを仕掛けた急先鋒が参院議員の片山さつき氏だった。

生活保護バッシングの仕掛人・片山さつきは「生活保護を恥だと思え」という趣旨の発言まで
 片山さつきはこの河本の母親の生活保護問題で連日のようにテレビ、雑誌に出演。不正受給だけでなく、「生活保護は、親族扶養や血縁者による支え合いなど日本の伝統的モラルを破壊している」「生活保護は、権利ばかり主張して義務を果たさない人々を生み出す」「生活保護は働けるのに働かない人々を生み出す」などと生活保護制度を全面否定し、さらには「生活保護って他人が払った税金で食べさせてもらっているってこと」「ずっと誰かに養われ続ける人をそんなに作りたい理由はなに?」「生活保護を恥と思わないのが問題」と、生活保護受給者の人格まで否定するような差別発言を行っていた。
 また、片山議員は2016年の『NHKニュース7』に端を発した“貧困女子高生”バッシングのときも騒動に乗っかり、ツイッターで“貧乏人は贅沢するな!“と言わんばかりの批判を公然とおこなっている。
 しかし、こうした発言は片山議員だけではない。この時期、安倍前首相の側近である世耕弘成参院幹事長も生活保護バッシングに加担。雑誌で「税金で生活を見てもらっている以上、生活保護受給者の権利が一定程度制限されるのは仕方ない」というどう考えても憲法違反としか思えない主張をしている。
 また、自民党の国会議員ではないが、橋下徹氏も大阪府知事・大阪市長時代に徹底した生活保護バッシングを展開している。不正受給でもなんでもない生活保護の申請者に違法な圧力を加えるなどして、生活保護費を圧縮。2014年には「生活保護受給者にも一定の負担はお願いする」「働ける人に働いてもらうのは当たり前」「日本のルールは甘すぎる。憲法25条の改正も必要」などという発言までしている。
 いまさら言うまでもないが、生活保護は憲法25条で保障された当然の権利だ。ところが、こうした政治家の言動により、「生活保護は税金泥棒」「生活保護は恥」という空気が社会に広がっていった。
 そして、2012年12月の衆院選で自民党・安倍晋三総裁は「生活保護の給付水準を10%引き下げる」という公約を掲げて政権に復帰。生活保護費の削減を断行し、13年には生活保護の申請厳格化という「水際作戦」の強化ともいえる生活保護法改正と生活困窮者自立支援法を成立させてしまったのである。

麻生太郎は高齢者に「いつまで生きてるつもりか」、石原伸晃は胃ろう患者を「エイリアン」
 政治家が攻撃を仕掛けてきたのは生活保護受給者だけではない。障がい者、高齢者など社会福祉の当然の対象である弱者に対しても、こうした露骨な差別や排除発言が向けられてきた。
 石原伸晃・元幹事長は、2012年2月に胃ろう患者が入院する病室を視察した際に、「エイリアンが人間を食べて生きている」と発言。また、2012年12年9月に出演した『報道ステーション』(テレビ朝日)では、社会保障費削減について問われると、生活保護をネット上の蔑称である「ナマポ」という言葉で表現した上、「私は尊厳死協会に入ろうと思っている」と発言、延命治療をやめて尊厳死を認めることで医療費がカットできるといった考えを露呈させた。
 きわめつきは麻生太郎副総理だ。老後を心配する高齢者について「いつまで生きているつもりだよ」と発言したり、「たらたら飲んで、食べて、何もしない人(患者)の分の金(医療費)を何で私が払うんだ」「飲み倒して運動も全然しない(で病気になった)人の医療費を、健康に努力している俺が払うのはあほらしくてやってられんと言っていた先輩がいた。良いことを言うなと思った」などと国民皆保険制度を否定するようなことを繰り返し発言してきた。
 そして、自民党の政治家やその支持者であるネトウヨたちによるこうした弱者バッシング・弱者排除の空気をエスカレートしていくなかで起きたのが、2016年の相模原障害者殺傷事件だった。
 そういう意味では、生活保護バッシングやヘイトクライムはたまたま起きたものではない。
 小泉首相から安倍首相へと引き継がれてきた新自由主義政策は、公的な責任を個人の責任へと転嫁する「自己責任論」を振りかざし、人の価値をコストで推し量るものだ。
 政治家たちが責任転嫁のために行った扇動が優生思想まがいの弱者排除を社会に浸透させ、弱者である国民がより弱者の国民を攻撃するというグロテスクな状況を生み出した。
 
DaiGoの生活保護・ホームレス差別・排除発言も新自由主義台頭の延長線上に出てきた可能性
 そして、この状況は今も変わっていない。日本政府は国連の社会権規約委員会から〈生活保護につきまとうスティグマを解消〉するようにという勧告さえ受けているが、菅政権にもこれを是正する動きはない。
 それどころか、コロナ禍で生活に困窮している人が増えているのに、菅首相は「自助」を掲げ、自己責任を押し付け続けている。
 実際、コロナ以降も、生活保護受給者がほとんど増えておらず、昨年、10万円の一律給付がおこなわれた際は、橋下徹・元大阪市長や百田尚樹らが生活保護受給者への給付は必要ないと大合唱した。
 そういう意味では、今回、DaiGoの生活保護、ホームレス差別・排除発言がこうした政治の動きの延長線上に出てきたと考えるべきだろう。この数年、政治家の弱者排除と自己責任論がエスカレートする一方で、それに呼応するように、堀江貴文らのネオリベ自己啓発ビジネス本がブームになっていった。その多くは社会全体の構造的な問題を個人の責任に矮小化し、弱者切り捨ての自己責任論をぶつものだが、DaiGoはまさに、そうした自己啓発ビジネス本の著者の一人である。
 もちろん、こうした政治的背景によってDaiGo自身の発言の危険性や罪がいささかも減じられるわけではないことは言うまでもないが、同時に10年近くに渡って生活保護バッシング・困窮者バッシングを扇動してきた自民党政治家たちの責任も、あらためて問う必要があるだろう。(本田コッペ)