2014年8月19日火曜日

安倍首相 あいさつ文の間違い箇所もコピー

 8月6日~15日の間に、広島、長崎の原爆忌の式典、そして「全国戦没者追悼式」で行った安倍首相のあいさつの、多く部分が前年のコピーであることが話題になりました。
 ブログ:『毎日ことば』は、それはある程度やむを得ないこととしながらも、「疑問符が付く言葉・文字遣いまで繰り返されるというのがどうしても納得いかない」として次の例を挙げています。
 
 まず広島の原爆が「一面を、業火と爆風に浚わせ(さらわせ)、廃墟と化しました」というくだりで、本来「業火」は「悪業の報いで地獄に落ちた人を焼く火」のことなので、罪のない市民が焼かれたことに「業火」を使うことには違和感がある、「浚う(さらう)」というのも「どぶをさらう」のように「汚いものを無くす」という意味だから不適切な表現だ、としています。
 
 次に「犠牲と言うべくして、あまりに夥しい犠牲でありました」についても、「べくして」には「当然生まれるべき犠牲 ⇒ 犠牲が当然」という意味が含まれるのでこう書くのは疑問である、としています。
 
 更に「倒れる」で済むところを「斃れる」と書くのも、「斃死=のたれ死に」を連想させるもので不適切であるとしています。
 
 また「能うる限り」も間違いで、「能う限り」が正であるとしています。
 
 いずれも鋭い指摘です。全体として、何か気取った表現にしようとして誤った言葉が用いられているという感じが否めません。
 多くの人たちは安部首相のあいさつ文などにはロクに目を通しませんが、公式式典における一国の首相のあいさつ文なので、しかるべき人がキチンとチェックをして、もう二度と間違いを繰り返さないようにすべきです。
 
 同じ総理であっても田中角栄氏は名文家で、自らしたためて日経新聞に連載した「私の履歴書」は、評論家から名文であると高く評価されました。
 その田中氏でも、官邸を去るときのあいさつ文を、歴代首相の指南役の安岡正篤氏にチェックしてもらっています。
 
 そのとき安岡氏は、その文章のただ一箇所、次の箇所に「心」を加えただけだったといわれています。
 
   ・・・私は一夜、沛然として大地を打つ豪雨に、耳を澄ます思いであります。
 
 文学的な高み??を狙いたいというのであれば、せめてこのレベルまで教養で裏打ちされていて欲しいものです。
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浚う、夥しい、斃れる、能う限り、遵守 
毎日ことば 漢字クイズと日本語の話題 2014年8月17日
この週は「首相の戦没者追悼」。過去の「沖縄全戦没者追悼式」、広島「平和記念式典」、終戦の日の「全国戦没者追悼式」で行った安倍晋三首相のあいさつのうち、難しそうな漢字を首相官邸ホームページから拾いました。
 
 今年8月6日、ネタにしてしまった手前、今回はどんなあいさつになるのか、耳をそばだたせました。すると、聞いたことのある文言がぞろぞろ。安倍さん、間違えて去年の原稿を持ってきてしまったんじゃなかろうか、と半ば本気で心配しました。
 
もちろん、毎年行うのであれば内容が前年と似たものになるのは、このあいさつの性格上避けられませんが、ここまでコピペするのは、雨や猛暑の中、参列していただいた方々のことを考えれば普通避けるものでしょう。ただし一校閲者としては、コピペそのものより、疑問符が付く言葉・文字遣いまで繰り返されるというのがどうしても納得いきません。
 
まず広島の原爆が「一面を、業火と爆風に浚わせ、廃墟と化しました」というくだり。「浚う」の正解率をみても決して読みやすい字ではないし、ホームページなどに記録として残るものですから、難読漢字は避けた方がいいと思いますが、それは別としても「さらう」の使い方が気になります。 辞書では「池や沼などの水底の土砂やごみをごっそりととりのぞく。『どぶを-』『なべ底までさらってたいらげる』」(角川必携国語辞典)とあります。つまり「さらう」目的は、きれいにすることであり、「さらう」対象はごみなど、なくなってしかるべきものというイメージがあります。原爆被害の形容としてふさわしいとは思えません。これは「爆風にさらし」とするほうが適切と思いますが、いかがでしょう。
 
また、出題時の解説にも付記しましたが、「業火」は本来「仏教で、悪業の報いで地獄に落ちた人を焼く火」(同)であり、現在は単に「大火」の意味でも用いられているものの、本来の意味しか書いていない辞書もあります。罪のない市民が焼かれたことに「業火」を使うことには違和感があります。
 
 次に「犠牲と言うべくして、あまりに夥しい犠牲でありました」ですが、この「べくして」の使い方、正しいのでしょうか。「①当然の結果として…するはずであって。『起こる-起こった事故』②…することはできても。『言う-おこないがたい』」(同)の①はもちろん②の用法としても苦しい。ここはやはり「犠牲と言うには」と言うべきではないでしょうか。
 
どうも安倍さんは難しい漢字や言い回しがお好きなようで、「倒れる」で済むところを「斃れる」と書くのも、その方が格調高くなると思っているのかもしれません。しかし8月6日に「斃れ」を使ったのと同じ文脈で8月15日には「倒れ」を使っています。こだわりがないのなら「倒れ」で十分でしょう。ちなみに音読みではヘイで「斃死」という熟語があり、辞書には「のたれ死に」のこととあります。
 
 「能う限り」については安倍さんは、何度も「能うる限り」と述べています。この間違いについては以前もブログで指摘しましたので詳しくはそちらをご覧いただくとして、今年の沖縄慰霊の日でも「能うる限り」と言っていたので、もっと目立つところで指摘しようと毎日新聞社会面の「週刊漢字」で取り上げました。しかしこれも読んでいないのか、それとも何がどう違っているかが理解できなかったのか、やはり今年の終戦記念日でもはっきり「能うる限り」と安倍さんは読んでいました。かっこいい言葉でかざりたくて古風な言葉遣いをするのでしょうが、生半可な知識で使うものだから誤ることになります。素直に「できる限り」とすれば突っ込まれなくて済んだのに。
 
 新聞では第1次安倍政権時の「憲法の規定を遵守し」の文言が消えたことや、昨年の「唯一の戦争被爆国民」が「唯一の戦争被爆国」と変わり「民」が消えたことが指摘されています。それも問題でしょうが、いかにも安倍さんらしいともいえます。それより一校閲者としては、一国の首相が奇妙な言葉遣いで日本語を乱し続けていることをどうしてみんな突っ込まないのか、気になってなりません。