9日、立憲デモクラシーの会が、記者会見を通じて、安保法制懇報告と安倍首相記者会見に関する見解(書)を公表しました。
見解書は4つの節からから成っていて、はじめに各節の「要点」が示され、次に「本文」が示されるという形式で、非常に読みや出来ています。
以下に紹介します。
追記) この見解については、11日付の「弁護士・金原徹雄のブログ」が懇切に紹介しています。下記をクリックすると同記事にジャンプします。
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集団的自衛権行使容認をめぐる会の見解
立憲デモクラシーの会 2014年6月9日
立憲デモクラシーの会は、本日(6月9日)記者会見を通じて、安保法制懇報告と安倍首相記者会見に関する見解を公表しました。
下記の文章です。ぜひご一読くださいますようお願いします。
安保法制懇報告と安倍首相記者会見に関する見解
立憲デモクラシーの会
要点
1 内閣の憲法解釈の変更によって憲法9条の中身を実質的に改変する安倍政権の「方向性」は、憲法に基づく政治という近代国家の立憲主義を否定するものであり、「法の支配」から恣意的な「人の支配」への逆行である。
2 首相が示した集団的自衛権を必要とする事例等は、軍事常識上ありえない「机上の空論」である。また、抑止力論だけを強調し、日本の集団的自衛権行使が他国からの攻撃を誘発し、かえって国民の生命を危険にさらすことへの考慮が全く欠けている点でも、現実的ではない。
3 「必要最小限度」の集団的自衛権の行使という概念は、「正直な嘘つき」と同様の語義矛盾である。他国と共同の軍事行動に参加した後、「必要最小限度」を超えるという理由で日本だけ撤退することなど、ありえない。また、集団的自衛権行使を可能とした後、米国からの行使要請を「必要最小限度」を超えるという理由で日本が拒絶することなど、現実的に期待できない。
4 安全保障政策の立案にあたっては、潜在的な緊張関係を持つ他国の受け止め方を視野に入れ、自国の行動が緊張を高めることのないよう注意する必要がある。歴史認識等をめぐって隣国との緊張が高まっている今、日本政府は対話によって緊張を低減させていく姿勢をより鮮明にすべきである。
本文
1 立憲主義と法の支配の否定
5月15日に安倍首相は、正式の審議会ではなく私的懇談会に過ぎない安保法制懇の報告書を参考に、集団的自衛権の行使容認を含む憲法解釈変更の「方向性」を示したが、これは憲法解釈の枠を逸脱する「憲法破壊」、あるいは「憲法泥棒」ともいうべき暴挙である。
自衛隊が憲法9条の下で自国の防衛に専念し、侵略への反撃以外に、自らの意志によっては他国を攻撃しないという枠組みは、戦後半世紀以上にわたって政府の憲法解釈において定着している。これを一内閣のみの解釈によって変更することは、憲法尊重擁護義務を負う内閣による閣議決定の限界を超える。
安倍首相は、自由主義や基本的人権と並んで「法の支配」を、日本を含む民主主義陣営の基本的価値として称揚し、「人の支配」が残る一部の国を批判する。しかし、今回のような憲法解釈の変更が許されるなら、そこで言う「法の支配」とは、行政府が恣意的に権力を行使する「人の支配」となる。
集団的自衛権の行使は、憲法の授権するところではないと考えられてきた。それが、これまで政治の従ってきた法であり、今般示された「方向性」は、かかる憲法上の大原則の変更を意味する。そのような重大な変更を行うのであれば、国民に対して真摯に訴えかけ、国民的な熟議を経て、正規の手続きで9条を改正することが必須の条件である。
2 国民の生命・安全を守るという強弁
安倍首相は、国民の生命・安全を守るためには、今この時期に集団的自衛権の行使を解禁することが必要だと主張する。安全のためには憲法など「二の次」といわんばかりの態度は、憲法を備えることで近代国家が成立するという、立憲主義の原則を無視するものである。
安倍氏は、具体的な事例として、朝鮮半島有事の際に邦人を日本に運ぶ米国艦船を自衛隊が警護する場合などを挙げた。しかし、万一の際の邦人帰還の手段についてはすでに政府でシミュレーションが行われており、米国艦船がその任にあたるというのは現実的な想定ではない。法制懇の報告書が挙げるその他の事例も、わざわざ集団的自衛権を持ち出さなくても、従来の議論の範囲内で根拠づけできるものがほとんどである。
より大きな問題は、集団的自衛権を行使することが、全面的な戦争への参加につながり、かえって国民を危険にさらしかねない側面を、安倍首相らが無視している点である。特に朝鮮半島有事を想定して集団的自衛権の必要性を説いたことは重大な危険をはらむ。軍事的な備えによって一定の「抑止力」がもたらされることは必ずしも否定できないが、軍事的な対策が新たな危険を生む側面もあるからである。
日本が紛争当事国に加われば、日本は攻撃対象となり、敵対国から原発に数発のミサイルを撃ち込まれただけで、壊滅的な被害を受ける。日本海側に多数の原発を置く日本にとって、通常兵器による攻撃は直ちに核戦争を意味するのである。そのような可能性にまったく考えが及ばないとすれば安倍首相はこの問題を論じる能力がないし、あえてその可能性を隠蔽しているなら、彼には民主政治の指導者としての資格がない。
もっぱら軍事的な手段の強化で国民の生命・安全を守るという安倍首相の言葉は、あまりに一面的である。
3 必要最小限(いわゆる限定容認論)という詭弁
安倍首相らは、「必要最小限度」の集団的自衛権行使は憲法上許されると主張するが、国際政治や軍事の常識を無視した空論である。集団的自衛権という概念は、さまざまな意味内容を含むあいまいなものであり、現実の歴史では、米ソなどが自らの覇権的な行動を正当化する際の口実となってきた。
安倍氏らは、個別的自衛権と集団的自衛権が、切れ目のない連続的な概念であるかのように主張する。しかし、これまで政府は、個別的自衛権行使の要件として、
(1)我が国に対する急迫不正の侵害があること
(2)これを排除するために他に適当な手段がないこと
(3)必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと
を挙げてきた。そして、集団的自衛権が行使しえない理由を、一つ目の要件を充たしていないことに求めてきた。「わが国に対する急迫不正の侵害」というのはその意味内容がある程度明確であるのに対して、集団的自衛権の行使とは、日本が攻撃されていないのに、世界中で起こる紛争のすべてに参加することになりかねない、「歯止め」のない概念である。より具体的には、
(1)直接武力攻撃を受けていないのに、「放置すると我が国の安全に重大な影響を及ぼす可能性がある」かないかという不明確な基準によって、時の政府が実力行使の判断をすること
(2)「自国の安全への危害の可能性を未然に防ぐこと」と「緊密な関係を有する他国を防衛すること」という二つの異なる集団的自衛権行使の目的が存在するなかで、自衛隊の任務が何で、その達成のための必要最小限度の実力行使とは何かを政府がどのように判断するのか、明確な基準が存在しないこと
(3)さらには、攻撃を受けた密接な関係を有する他国からの要請を受けて集団的自衛権を行使し、自衛隊が他国軍と協力して敵国に対して実力行使をしている事態になって、必要最小限度を超えたという理由で日本政府が単独で戦争から「早期退出」を判断できると考えるのは、同盟国との関係と敵国との関係のいずれを考慮しても現実的ではないこと
などから、その運用は無制限なものとなりかねない。政府が判断基準を規定したところで、ひとたび憲法の制約さえ外れれば、その後いくらでも拡大的に運用することができる。安倍首相が言うような「武力行使を目的として他国との戦闘に参加するようなことはない」根拠などないのである。また、「密接な関係を有する国」である米国等から協力を依頼された際に、日本が自らの主体的な判断で断ることができるとは、これまでの日本政府の行動様式からして、とうてい信じることができない。合憲なのに断るとすれば、安倍首相らが最も憂慮する日米同盟の崩壊にもつながりうるからである。
以上の理由から、必要最小限度の集団的自衛権の行使という言葉そのものが、「慈悲深い圧政」や「正直な嘘つき」のごとき語義矛盾と言わなければならない。
4 国際協調のあるべき方向性
国際関係においては、いわゆる「安全保障のジレンマ」が存在する。こちらが攻撃する意思を持っていなくても、防衛力を強化すれば仮想敵国は攻撃を受ける危険が高まったと判断して防衛力の強化に走る。それに反応してこちら側も防衛力強化を進め、悪循環が続く。安全保障政策を考える際には、このような悪循環を考慮し、自国の行動が周辺国にどのように受け取られるかに注意を払う必要がある。
安倍首相はアジア近隣諸国のみならず、アメリカの警告さえ無視して靖国神社への参拝を行い、各国の批判を招いた。また、首相や閣僚、政権幹部は戦争中の日本の行動を正当化する言動を繰り返し、日本が不戦の決意を本当にもっているのか疑われるような状況を自ら作り出している。無謀な戦争によって自国民とアジアの人びとの多大な犠牲を招いた歴史を否定することは許されない。
このような状況で、新たに集団的自衛権の行使を可能にするという安全保障政策の変更は、東アジアにおける緊張を一層高める結果をもたらす。 平和を維持するためには、国際協調が不可欠である。安倍政権は、力の行使に関する協調の意義だけを強調する。しかし、何より共有すべきは、外交交渉や「人間の安全保障」によって紛争の原因を除去し、戦争を極力回避するという努力である。いたずらに近隣諸国を挑発するのではなく、対話の窓を開き、東アジアにおける緊張緩和を率先して進めることこそが、政権の責務である。自由と基本的人権を守り、政治権力を「法の支配」の下に置く立憲主義の価値観を共有するつもりが本当にあるのなら、国際協調の努力を通じてこそ、平和を着実に実現していくべきであろう。