2014年6月3日火曜日

1000人委:首相の「基本的方向性」表明に対し抗議声明

 1日付発行の「1000人委員会ニュースNO.2」に、「【声明】集団的自衛権行使を容認する安保法制懇報告書に依拠した安倍首相の基本的方向性表明に抗議する」が掲載されました。(1000人委員会:「戦争をさせない1000人委員会」の略称)
 
 声明は、憲法第9条;戦争の放棄、自衛戦力を含めてすべての戦力を放棄する趣旨であったが、自衛隊と憲法の適合性を説明するため自衛権は「国家当然の法理」という「論理」を編み出して、かろうじて「合憲性」の体裁を保つことできたとしたうえで、その自衛隊が、自国が攻撃されていないにもかかわらず、自国と密接な関係性を有する他国が攻撃された場合に、他国と共同して武力行使するなどということは、どのように理論構成をしても導き出されるものではないとしています
 
 また、安全保障環境の中軸をなす日米安保条約は、第3条・自衛力の維持発展第5条・日本国の施政権下にある領域への攻撃に対する共同防衛において、いずれも、「憲法上の規定に従うことを条件として」という制約が付されていることを挙げて、集団的自衛権行使の容認は、日米安保条約を、「憲法上の規定に従う」という制約から解放し、憲法を超越した存在となることを意味するものであるとしています
 
 そして安保法制懇が行使容認の根拠に、砂川事件最高裁大法廷判決を持ち出したり、憲法第が禁止している「国際紛争」について、禁止されているのは我が国が当事者となる国際紛争であって、我が国が当事者でない国際紛争はこれに当たらないという「超論理」を持ち出すなどしたことを、およそ「知的誠実さ」に欠けたものと断じ、このような報告書に依拠して、国会での議論も十分になされないままに、時の一政権によって、国の安全保障政策の根幹を変えることは到底許されないとしています
 
 以下に声明の全文を紹介します。
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【声明】「集団的自衛権」行使を容認する安保法制懇報告書に依拠した安倍首相の「基本的方向性」表明に抗議する
2014年5月15日
 戦争をさせない1000人委員会
 事務局長 内田雅敏
 2014年5月15日、安倍首相の私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)は報告書を提出し、「我が国と密接な関係にある外国に対して、武力攻撃が行われ、その事態が我が国の安全に重大な影響を及ぼす可能性があるときには、我が国が直接攻撃されていない場合でも、その国の明示の要請または同意を得て、必要最小限の実力を行使して、この攻撃の排除に参加し、国際の平和及び安全の維持、回復に貢献することが出来るとすべきである」と「集団的自衛権」行使を容認する見解を明らかにした。これを受けて、同日、安倍首相は、歴代政府が積み上げてきた「集団的自衛権」行使は憲法上容認されないという見解を変更し、容認するという「基本的方向性」を発表した
 
 私たちは、アジアで2000万人以上、日本で310万人の死者を生み出した、先のアジア・太平洋戦争の「敗北を抱きしめて」(ジョン・ダワー)、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し」(憲法前文)、「国民主権」「戦争の放棄」「基本的人権の保障」を三大原理とする日本国憲法を制定して戦後の歩みを始めた。戦争の放棄(第9条)が、自衛戦力を含めてすべての戦力を放棄する趣旨であったことは、憲法制定議会における吉田首相(当時)の答弁「これまでの侵略戦争は、すべて自衛の名のもとに行われてきた。この憲法は自衛戦争も放棄している」などからも明らかである。
 
 その後、朝鮮戦争を契機として警察予備隊が創設され、保安隊を経て、現在の自衛隊となるのであるが、自衛隊と憲法の適合性を説明するための「論理」として編み出されたのが、条文上どこにも書かれていない「国家当然の法理」であった。条文上の根拠でなく、「国家当然の法理」と云うきわめて便利な「論理」によってその存在を認められた自衛隊の行動について、①急迫、不正の侵害があること、②武力行使以外の他の方法をもってしては対処できないこと、③その対処は必要最小限度の範囲内で行うこと、という制約が課せられたことは当然であった。このような制約を受けることによってかろうじて「合憲性」の体裁を保つことのできた日本の自衛隊が、自国が攻撃されていないにもかかわらず、自国と密接な関係性を有する他国が攻撃された場合に、他国と共同して武力行使するなどということは、どのように理論構成をしても導き出されるものではない
 
 報告書は、「我が国を取り巻く安全保障環境は…大きく変化した」とし、「日米安保体制の最も効果的な運用を含めて我が国は何をなすべきなのか」と述べる。
 
 日米安保条約は、第3条・自衛力の維持発展、第4条・事前(随時)協議、第5条・日本国の施政権下にある領域への攻撃に対する共同防衛、第6条・極東の平和と安全のため米軍への基地の貸与、などとする軍事同盟であるが、第3条、第5条はいずれも、「憲法上の規定に従うことを条件として」という制約が付されている集団的自衛権行使の容認は、日米安保条約を、「憲法上の規定に従うことを条件として」という制約から解放し、同条約が憲法を超越した存在となることを意味するものである。「集団的自衛権」行使「解禁」の狙いは、自衛隊と米軍の一体行動を可能ならしめるためのものである。その結果について、遠くはベトナム戦争、近くはアフガニスタン、イラクへの米軍の攻撃などがいかなるものであったか、想像力を働かせるべきである。アメリカの行う戦争に自衛隊が動員され、隊員が殺し、殺されるという事態が不可避である。それは、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意」した、戦後の「誓い」の変更、安全保障政策の根幹の変更である。
 
 このような安全保障政策根幹の変更が、憲法論を踏まえて国会で十分論議されることもないままに、時の政権の恣意的な選任による「私的懇談会」の報告書に依拠しなされるのであれば、憲法による統治を定めた立憲主義は崩壊することになる。
 
また報告書は、「そもそも憲法には個別的自衛権や集団的自衛権についての明文規定はなく、個別的自衛権の行使についても、我が国政府は憲法改正ではなく憲法解釈を整理することによって、認められるとした経緯がある」と述べている。「政府解釈」によって、個別的自衛権の行使を認めて来たのだから、同じく「政府解釈」によって「集団的自衛権」行使を認めてもよいという驚くべき論理である。個別自衛権は「国家当然の法理」という一応の「論理」に依拠し、しかも、「必要最小限度」という制約をつけてのものであった。「集団的自衛権」行使容認は、どのような論理に依拠しようとするのか。
 
 そしてこの報告書は、その論拠として、「集団的自衛権」については全く論議になっていなかった、砂川事件最高裁大法廷判決を持ち出したり、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇、または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久に放棄する」と憲法第9条にいう「国際紛争」とは、我が国が当事者となる国際紛争であって、我が国が当事者でない国際紛争はこれに当たらないという「超論理」を持ち出すなど、およそ「知的誠実さ」に欠ける人々によって作成されたものである。このような報告書に依拠して、国会での議論も十分になされないままに、時の一政権によって、国の安全保障政策の根幹を変えることは到底許されない。