2014年7月17日木曜日

安倍首相の発言にはなぜ一貫性・論理性がないのか

 安倍首相の発言には何故ウソ・矛盾が多いのかについて、国際基督教大学の千葉真教授が、学者らしく冷静で丁寧な考察を行っています。
 
 内田樹氏(神戸女学院大学名誉教授)が15日付ブログ「内田樹の研究室」に、「立憲デモクラシーの会の7月4日の記者会見」での千葉真氏を含む全6氏の発言書き起こし記事を掲載しました。 ( http://blog.tatsuru.com/2014/07/15_0953.php 
 
 その記事を、17日付ブログ「晴耕雨読」が、「安倍首相の発言に一貫性と論理性がないのはなぜか、その理由がわかります」というタイトルを付けて転載しました。
 
 以下に、千葉真名誉教授の該当部分を紹介します。
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「安倍首相の発言に一貫性と論理性がないのはなぜか、その理由がわかります
 晴耕雨読 2014年7月17日(転載)
(原記事)内田樹の研究室 2014年7月15日
立憲デモクラシーの会の7月4日の記者会見での全発言が公開されました。
ブログに採録しましたので、ぜひお読みください。    
 
 (前 略
 (千葉眞 国際基督教大学教授 発言)
 国際基督教大学の千葉と申します。政治学を専攻しております。
 立憲デモクラシーの会には憲法に対していろいろな立場の方々が含まれておりますが、私自身は「護憲」とかぶるところがあるのですが、「活憲」(憲法の積極的活用ないし活性化)のスタンスに立とうと試みております。
 本日はそのような立場から、手短かに数点、今回の集団的自衛権に関する閣議決定の動きについて考えていることを申し上げたいと思います。
 
(1) 今回の閣議決定は、戦後、不完全ながらも営々と培ってきた立憲主義を破壊し、デモクラシーを否定する「暴挙」であると思います。
2014年7月1日は、立憲主義やデモクラシーにとって、「暗黒の日」として長く記憶されることになるのであろうと思います。
 
 安倍首相の虚言癖なのかどうか、その辺は分からないのですが、論理的につじつまの合わない言葉、矛盾した言葉を次々に平気で述べていることに気づくことがあります。ご本人が実際に言葉の矛盾に気づいているのかどうかも、分かりません。
とにかく安倍首相は、矛盾した事柄や命題を、何の躊躇もなく同居させ、場面に応じて機会主義的に(しかも確信をもって)発言することのできるタイプの政治家です。場面に応じて耳当たりのよい言葉を駆使することによって、結果的に言葉の矛盾を来してしまうところに特徴があります。
どうしてそのような言説を弄することになるのか。その目的は、おそらく自分の政治的意志をとにもかくにも貫徹するためです。
7月1日の閣議決定後の記者会見における安倍首相の発言は、言葉が悪くて恐縮ですが、ウソっぽいという印象を受けました。実際に閣議決定したことと記者会見で言われたこととの間に多くの矛盾や齟齬がありました。またその発言には、国民の情緒に訴え、心地よい言葉で粉飾する傾向が見られたと思います。
 具体例1。
 「現行の憲法解釈の基本的考え方は変わることはない」という記者会見での発言です。閣議決定された内容を吟味しますと、現行の憲法解釈の基本的考え方は大きく変更されております。
 具体例2。
 「自衛隊がかつての湾岸戦争やイラク戦争での戦闘に参加するようなことは、これからも決してありません」。
この記者会見での言葉は、首相は以前にも発言いたしましたが、集団的自衛権というのは、先ほどの「抗議声明」にありましたように、「他国防衛権」でありますので、いろいろな状況が考えられます。他国の戦闘に巻き込まれる可能性を、当然、想定しないわけにはまいりません。しかも、閣議決定の文書では、「新3要件すら満たせばOKである」ことが、記述されているわけです。
 具体例3。
 「外国を守るために日本が戦争に巻き込まれるという誤解があるが、それはありえません。今回の閣議決定で日本が戦争に巻き込まれる恐れは、一層なくなりました」と、安倍首相は発言しています。なぜこのように断言できるのでしょうか。この発言に対しても大きな疑問符を呈したいと思います。
 具体例4。
6月27日に表明された「集団的自衛権などに関する想定問答」で安倍内閣は、「従来の専守防衛の変更になるのではないか」という問い(問い16)に対して、「専守防衛は不変である。変わらない」と回答しております。山口公明党代表も、7月1日の閣議決定後の記者会見で同様の発言をしております。
つまり、「専守防衛は守る」と。しかし、この見解に誠実さを認めることは困難です。集団的自衛権というのは、前述のように、他国防衛権でありまして、いわば他人の喧嘩に飛び込んでいく類いのものです。ですから定義からして、専守防衛の原則は自ずと否定されていることがそこに含意されています。
 
(2) 安倍内閣の用語法の問題は、イメージのよい言葉の羅列によって、事態を粉飾する傾向にあることにも見てとれます。
 例えば、タカ派的な軍事強調路線を、軍事による抑止力を高めると称して、安倍政権は「積極的平和主義」と呼んでいます。これは、よいイメージにするために言葉をもてあそぶ「言葉の操作」でしかないだろうと思います。
ジョージ・オーウェルの小説『1984年』に出てくる、「戦争は平和である」式のダブル・シンク(二重思考)、あるいはダブル・トーク(二重語法)の用語法です。そしてこの「国際協調主義に基づく『積極的平和主義』」という表現は、7月1日の閣議決定文書に3度も出てきます。
 閣僚たちがこの心地よい言葉で集団的な自己催眠にかかり、自分たちの軍事強調路線を正当化しているようにしか読めません。
この閣議決定文書自体、矛盾と言葉の操作に満ちあふれた文書、ちょっと言葉は悪いのですけれども、「デマゴーグ」(煽動的民衆指導者)の文書に近いのではないかと思うところがあります。矛盾や虚偽を美辞麗句で糊塗(こと)する傾向、また日本を取り巻く安全保障関係の著しい悪化という仕方で過度に着色する傾向が見られます。
 
 現安倍政権のデマゴーグ的傾向ないし体質、これは憂慮すべき事態です。古代ギリシアのアテナイを紀元前404年に滅亡に導いた政治家=煽動的民衆指導者として、クレオンやアルキビアデスらのデマゴーグがいました。クレオンは、独特のレトリックと楽観的な見通しと宣伝によってペロポネソス戦争の続行を唱え、スパルタとの和平を拒否することでアテナイの敗北を決定づけました。他方、アルキビアデスは、民衆を煽動して無謀ともいえるシケリア派兵を決め、アテナイの滅亡を決定づけました。
 古代ギリシアのアテナイのデマゴーグらと安倍首相との異同の精査ないし比較研究、これは政治思想史研究に課せられた、ひとつの重要課題となってきたのではないかと思われます。
 
(3) 安倍政権の軍事強調路線は、第二次世界大戦前夜を彷彿とさせる、「友」と「敵」との敵対関係を重視する手法を採用します。
 「仮想敵国」を想定して軍事的抑止力を高めようとする路線です。中国と北朝鮮を「仮想敵国」と決めつける。
これは外交として大変リスクが大きく、危険極まりないことなのですけれども、そうしたとんでもない手法を採用しています。しばしば指摘されることですが、地理的に朝鮮半島や中国大陸から日本列島を見渡しますと、米軍基地が網羅的に配備されており、匕首が突きつけられているようにみえると言われます。この地域にはいまだにアジア太平洋戦争と朝鮮戦争のトラウマが残存していることを忘れてはなりません。
 日本側からの軍事的抑止力はすでに過剰なほど効いている状況です。そうした中で平和外交をまったくしないで、「仮想敵国」を想定して軍事的抑止力をさらに強化していくというのは、時代遅れの軍事的安全保障でありまして、冷戦の最盛期の米ソ関係に戻るようなものです。
こうした安倍政権の手法は、東アジアにおける緊張をさらに高め、不信感と敵愾心を煽るだけの結果になり、この地域の和解と平和にとって逆効果であることは明らかです。
こうした状況において、平和憲法の「非戦」の信用力、そのソフトパワー、これこそが、紛争防止の最大の抑止力ではないでしょうか。過去69年あまりの戦後史において、平和憲法が最大の紛争抑止力であったと考えることも可能だと思います。
 
(4) 安倍首相は国外ではデモクラシーと法の支配を強調し、中国にもそれを強く求めております。しかしながら、国内では今回の暴挙にみられますように、デモクラシーと法の支配を蹂躙している。こうした矛盾と真摯に向き合っていただきたいと思います。
これは極端な見方かもしれないので、私もこれについては100%の確信を持って言っているわけではないのですが、2012年12月に安倍政権が誕生して以来、上からのファシズムの傾向が、出始めているのではないか、という憂慮を持っております。イタリアのファシズムにおいても、ドイツのナチズムにおいても、ファシズムはもともと下から起こって来ました。指導者たちがそうした民衆運動に迎合し、それを利用する形で、上からの統制を敷くという支配形態でありました。
けれども、今日の日本の状況では、社会内部に民衆の側にそうした動きはありません。むしろ、社会の真空状態につけ込んで、軍事・外交・経済・貿易・教育に渡る、広範な事柄や政策をトップダウンで決めようとし、また民衆と社会全体をそれに巻き込もうとしている。こうした兆候が見え始めているように思います。
そしてこうした動きを推進しているイデオロギーは、軍事強調路線とネオ・リベラルな金融資本主義という2つの巨大なエンジンを擁する靖国ナショナリズムです。
 私たちは、これが定着して戦後ファシズムの初期段階にならないように注視する必要があり、批判と抵抗を今後とも続けていく必要があるだろうと考えております。
  (後 略