櫻井ジャーナルが、新都知事に選ばれた小池百合子氏が 2003年のVOICE誌での座談会(鼎談?)で「軍事上、外交上の判断において、核武装の選択肢は十分ありうる。・・・このあたりで、現実的議論ができるような国会にしないといけない」旨 語っていることを紹介し、それからの連想として日本の戦後における核武装志向の経過とでもいえるものを載せました。
1965年に訪米した佐藤首相がリンドン・ジョンソン米大統領に対して「個人的には中国が核兵器を持つならば、日本も核兵器を持つべきだと考える」と伝えたのが、日本のトップが核武装に触れた最初のケースで、その時ジョンソン政権は日本に対して核武装を思いとどまるよう伝えたということです。
それに満足しなかった日本政府は、1969年に西ドイツ政府に秘密協議を申し入れ、日独両国はアメリカから自立し、核武装によって超大国への道を歩もうと主張したということです。原爆用のプルトニウムは日本原電の東海発電所で高純度プルトニウムを年間100キログラム余りを作れると見積られました。
ジミー・カーター大統領は日本の核武装に反対し、常陽からブランケット(=高純度プルトニウム捕集装置)を外させましたが、既に運転初期の段階で、常陽ブランケットは純度は99.4%、もんじゅブランケットでは97.5%の兵器級プルトニウムが得られていました。
日本は1977年に東海再処理工場の付属設備として、プルトニウムを分離/抽出することを目的とする特殊再処理工場(RETF)の試運転を開始しました。
日本は核弾頭の運搬手段も持っているし、地中に打ち込むバンカーバスターの基礎研究(ペネトレーターの開発)もすでに始めています。
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新都知事の小池百合子は安倍政権を支える日本会議と関係が深く、
その同志と日本の核武装を語る
櫻井ジャーナル 2016年7月31日
日本会議国会議員懇談会で副会長を務める小池百合子が次の東京都知事に選ばれたという。言うまでもなく、この懇談会は日本会議と一心同体の関係にあり、安倍晋三首相を支える一派が東京を押さえたということになる。
VOICE誌の2003年3月号に小池の対談記事が掲載されている。対談の相手は東京基督教大学の西岡力教授(記事での肩書きは現代コリア研究所主任研究員)や杏林大学の田久保忠衛教授。
その中で小池は「軍事上、外交上の判断において、核武装の選択肢は十分ありうるのですが、それを明言した国会議員は、西村真吾氏だけです。わずかでも核武装のニュアンスが漂うような発言をしただけで、安部晋三官房副長官も言論封殺に遭ってしまった。このあたりで、現実的議論ができるような国会にしないといけません。」と語っている。
それに対し、田久保は「日本がアメリカの核の傘に入ることを望むのであれば、核ミサイルを東京に持ってきてもらうのがベストです。北朝鮮が戦術核のある東京を撃てば、同じ戦略核が平壌に飛ぶことになる。」という意味不明の主張をする。もし、東京が核攻撃されたなら、そこに配備された核兵器も破壊されてしまう可能性があり、別の場所に置くのが当然だろう。「北朝鮮」と限定していることも滑稽だ。朝鮮が本当に日本を攻撃したいのなら、核ミサイルなど使わず、特殊部隊を潜入させて原発を破壊する方が簡単だ。福島第1原発の事故でも、使用済み燃料プールが倒壊していれば東京は全滅だった。
恐らく、この対談が行われたのはアメリカ軍がイギリス軍などを引き連れてイラクを先制攻撃する直前のこと。日本のマスコミが好戦的な雰囲気を強めようとしていたころだ。
その8年後、東電福島第一原発が事故を引き起こす3日前にあたる2011年3月8日付けのインディペンデント紙は石原慎太郎のインタビュー記事を掲載、その中で石原は核兵器の話をしている。急成長している中国に対抗するため、日本は核兵器を製造すべきだとしたうえで、日本は1年以内に核兵器を作り、世界へ強いメッセージを送ることができると主張している。彼は中国、ロシア、朝鮮を敵だと表現、外交の交渉力は核兵器であり、核兵器の保有は世界に対して強いメッセージを送ることになるともしている。
石原は佐藤栄作政権時代の話もしている。NHKが2010年10月に放送した「“核”を求めた日本」によると、1965年に訪米した佐藤首相はリンドン・ジョンソン米大統領に対して「個人的には中国が核兵器を持つならば、日本も核兵器を持つべきだと考える」と伝えたという。この時、ジョンソン政権は日本に対して核武装を思いとどまるよう伝えたというが、佐藤は1967に訪米した際、「わが国に対するあらゆる攻撃、核攻撃に対しても日本を守ると言うことを期待したい」と求め、ジョンソン大統領は「私が大統領である限り、我々の約束は守る」と答えたという。ちなみに、この年、動力炉・核燃料開発事業団(動燃)が設立されている。
しかし、ジョンソンの約束で日本は満足しない。日本政府の内部で核武装が議論され、西ドイツ政府に秘密協議を申し入れ、1969年2月に両国の代表が会って協議している。日本側から出席したのは国際資料部長だった鈴木孝、分析課長だった岡崎久彦、そして調査課長だった村田良平だ。日独両国はアメリカから自立し、核武装によって超大国への道を歩もうと日本側は主張したのだという。
この頃、リチャード・ニクソン大統領の補佐官だったヘンリー・キッシンジャーは彼のスタッフに対し、日本もイスラエルと同じように核武装をすべきだと語っていたという。(Seymour M. Hersh, “The Samson Option,” Random House, 1991)その意思が何らかの形で日本側へ伝わっていた可能性もあるだろう。
核武装に関する調査は内閣調査室の主幹だった志垣民郎を中心にして行われ、原爆の原料として考えられていたプルトニウムは日本原子力発電所の東海発電所で生産することになっていた。志垣らの調査では、この発電所で高純度のプルトニウムを年間100キログラム余りを作れると見積もっていた。
核武装について、自衛隊も研究していたことが明らかになっている。1969年から71年にかけて海上自衛隊幕僚長を務めた内田一臣は、「個人的に」としているが、核兵器の研究をしていたことを告白しているのだ。実際のところ、個人の意思を超えた動きも自衛隊の内部にあったとされている。(毎日新聞、1994年8月2日)
1972年2月にリチャード・ニクソン大統領は中国を訪問しているが、それまでの交渉過程でキッシンジャーは日本の核武装をカードとして使っている。ジャーナリストのシーモア・ハーシュによると、アメリカと中国が友好関係を結ぶことに同意しないならば、アメリカは日本に核武装を許すと脅したというのだ。キッシンジャーは佐藤栄作に対して日本の核武装をアメリカは「理解する」と示唆したともいう。(Seymour M. Hersh, “The Price of Power”, Summit Books, 1983)
ジミー・カーター大統領は日本の核武装に反対、常陽からブランケットを外させているのだが、運転初期の段階で兵器級のプルトニウムは生産されていた。常陽ブランケットのプルトニウム239純度は99.4%、もんじゅブランケットでは97.5%。兵器級プロトニウムの純度は90から95%以上だとされているので、明らかに水準を超えている。ちなみに、常陽の燃料を供給していたのが臨界事故を起こしたJCOだった。
日本が核武装を目指していると疑われている一因はRETF(リサイクル機器試験施設)の建設を計画したことにある。RETFとはプルトニウムを分離/抽出することを目的とする特殊再処理工場で、東海再処理工場に付属する形で作られることになった。
「第2処理工場」を建設する際の条件だった「平和利用」が東海村の処理工場についていなかったこともアメリカ政府を刺激した。この再処理工場はカーター政権がスタートした1977年に試運転を始めている。プルトニウム生産量の1%は誤差として認められているので、それだけは「合法的」に隠し持つことができる計算だ。
こうした日本の動きをアメリカは警戒していると最初に指摘したのが山川暁夫。1978年6月に開かれた「科学技術振興対策特別委員会」で再処理工場の建設について、「核兵器への転化の可能性の問題が当然出てまいるわけであります」と発言している。アメリカ政府は見過ごさないと指摘したわけだ。
このRETFを日本が建設できたのはアメリカ側の協力があったからだ。建設に必要な技術の中に「機微な核技術」、例えば小型遠心抽出機などの軍事技術が含まれているのだ。(Greenpeace International, "The Unlawful Plutonium Alliance", Greenpeace International, 1994)アメリカ側に日本の核武装を支援している勢力が存在していることを疑わせる。
かつてアメリカの電子情報機関NSAの分析官をしていた筆者の友人から1990年代に聞いた話によると、その当時、アメリカの情報機関は現在でも日本の核武装計画は生きていると考えているようだ。ジャーナリストのジョセフ・トレントによると、ロナルド・レーガン政権の内部には日本の核兵器開発を後押しする勢力が存在し、2011年の段階で日本は約70トンの核兵器級プルトニウムを蓄積しているのだという。
しかし、日本の核武装計画は順調に進んでいるとは言い難い。例えば、1995年12月にもんじゅで冷却剤の金属ナトリウムが漏れ出るという事故が発生し、それから約15年にわたって停止、2010年5月に再開するのだが、8月には直径46センチメートルのパイプ状装置を原子炉の内部に落としてしまい、再び運転は休止している。ただ、自前で生産できなくても国外から持ち込むことは可能だ。
核弾頭の運搬手段も開発してきた。例えば、LUNAR-Aもそうした目的で開発されたと疑われている。M-Vを使って探査機を打ち上げ、月を周回する軌道に入った段階で母船から観測器を搭載した2機の「ペネトレーター」を発射することになっていたが、これは「MARV(機動式弾頭)」の技術そのもの。
1991年にソ連が消滅した直後、日本は秘密裏にSS-20の設計図とミサイルの第3段目の部品を入手し、ミサイルに搭載された複数の弾頭を別々の位置に誘導する技術、つまりMARVを学んだと言われているが、これを使ったのだろう。
LUNAR-Aの計画では、地震計と熱流量計が搭載されたペネトレーターを地面に突き刺し、2メートル前後の深さまで潜り込ませることになっていた。その際にかかる大きな圧力に耐えられる機器を作るために必要な技術があれば、小型のバンカー・バスターを製造できる。なお、この計画は2007年に中止されたが、ペネトレーターの開発は進められているようだ。