太平洋戦争で大本営発表をそのまま報道した責任を取るべく敗戦の日に朝日新聞社を辞め、戦後は反戦平和を訴え続けた反骨のジャーナリスト むのたけじさんが21日、老衰のため死去されました。101歳でした。
文字通り生涯現役で、今年5月3日の憲法集会にも弁士として車いすで参加し、憲法9条の大切さを訴えました。
東京新聞は、公の場では最後となったこの演説の要旨を伝えています。
琉球新報は むのたけじさんを追悼する社説を掲げ、その中で「・・・戦争が始まってしまってからでは、新聞も政党も思想団体もまったく無力。・・・抵抗できません。戦争と戦うのであれば、戦争を起こさせないことです」というむのさんの言葉を紹介しています。
そして「平和憲法の下で戦後を歩んできた日本が、再び戦争に向かいかねない事態が進んでいる。今、最も問われているのはジャーナリズムの在り方である」と結んでいます。
むのさんは先の大戦下でも、「統制よりも怖いのは自主規制。権力と問題を起こすまいと自分たちで検閲を加える。検閲よりもはるかに有害だった」と述べています。
戦後、報道機関は、戦時下において政府の戦争協力要請に屈した非については反省の弁を述べましたが、戦争への道を鼓舞する記事を書くたびに新聞の売れ行きが上がるというだけの理由で満州事変や日中戦争で「戦果」を大々的に報じ、外交上の弱腰を非難することで、国民の戦意を高揚させ遂には太平洋戦争になだれ込ませた非については、述べていません。
そうした不徹底さがとりもなおさず目下のメディアの在り方に繋がっています。
いまのメディアの姿勢をみると、ひたすら政権の意向を忖度して見事な自己規制に徹していますが、それこそはむのさんがもっとも忌み嫌ったものです。情けないはなしです。
慎んで むのたけじさんのご冥福をお祈りいたします。
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101歳、反骨のジャーナリスト むのたけじさん死去
東京新聞 2016年8月22日
アジア・太平洋戦争で大本営発表をそのまま報道した責任に向き合って敗戦を機に朝日新聞社を辞め、戦後は反戦平和を訴え続けた反骨のジャーナリストむのたけじ(本名武野武治)さんが二十一日午前零時二十分、老衰のため死去した。百一歳。秋田県出身。葬儀・告別式は近親者のみで営む予定。しのぶ会の開催が検討されている。
一九三六年に東京外国語学校(現・東京外大)卒業後、報知新聞、朝日新聞の社会部記者として活躍。四二年にインドネシア上陸作戦に従軍。終戦日の四五年八月十五日に退社した。
四八年二月、故郷でタブロイド判二ページの週刊新聞「たいまつ」を創刊。同紙は米国占領下の検閲に屈せず、教育や農業問題を中心に社会の矛盾を掘り下げた。七八年一月の七百八十号で休刊した。
近年は安全保障関連法や特定秘密保護法の廃止を訴えていた。
◆戦時報道省み 反戦平和訴え
反戦平和を願うジャーナリストはどんな時も渾身(こんしん)の力を込めて語り続けた。「今が人生のてっぺん」。戦後還暦を迎えた二〇〇五年、社会部の企画取材のために秋田県横手市のご自宅を訪ねた時、むのさんは九十歳を超えて講演に執筆に多忙だった。
米国が始めたイラク戦争に日本が自衛隊を派遣し、改憲の動きも活発になっていた。一九四五年の敗戦の日、「戦争の本当の姿を伝えられなかった新聞人としての戦争責任を取る」と、朝日新聞を退社したむのさんは「再び戦争に向かおうとしている」ことに黙っていられなかったのだ。
むのさんを戦争体験の語り手として二〇〇六年夏、企画の一環としての対談が実現した。お相手はむのさんには孫世代に当たる、作家雨宮処凛(かりん)さん。昼食を挟んで六時間以上語りあった。むのさんは人々が惰性に流されて体制に従い、戦争に巻き込まれていった怖さを語った。
「戦争を始めたのは陸軍でも、それを止められなかった、許した国民にも責任はある」と。社会の公器である新聞は統制対象になり自由な言論が許されなくなっていくが、「統制よりも怖いのは自主規制。家族や周りが怖い」と強調した。
「風化していく戦争体験をどうしたら受け継げるのか」という問いには「戦争は経験したから分かるというものではない。戦争が重大な問題だと思ったら、若い人は自分で勉強してほしい」と励ました。
一九四八年に郷里で「たいまつ」を創刊。一度は捨てたペンを再び握らせた原動力は、その前年の連合国軍総司令部(GHQ)が出した2・1ゼネスト中止命令への怒りだ。「民主主義を掲げた米国の占領政策はうそ」と、創刊号に書き付けたのは中国の作家魯迅の言葉。「沈黙よ! 沈黙よ! 沈黙の中に爆発しなければ、沈黙の中に滅亡するだけである」。憲法の精神が崩されようとしている今、死ぬまで敬愛する文学者の言葉を叫んでいたのではないか。
「どんな悪い平和でもいい戦争に勝る。平和は意識的な戦いの中でしかつかめない」と説いたむのさん。原点は、戦争中に三歳のまな娘を病気で亡くした経験にある。二度と子どもが犠牲になる世の中にしない。一人一人が変われば大きな力になる。
数々の名文句を残したむのさんが語った言葉がある。平和を願うなら、そのための記事を毎日書き続けることで、願いは「主義(イズム)」となり、「ジャーナル(日記)」は「ジャーナリズムになる」。書き続けなくてはならない。私たちはむのさんの思いを受け継ぐ。 (編集委員・佐藤直子)
◆「憲法9条こそが人類に希望をもたらす」
<むのたけじさん最後の演説要旨>
むのたけじさんは今年五月三日、東京臨海広域防災公園(東京都江東区)で開かれた憲法集会に参加し、車いすに乗って拳を振り上げながら憲法九条の大切さを訴えた。これが公の場での最後の姿となった。当日の演説要旨は以下の通り。
私はジャーナリストとして、戦争を国内でも海外でも経験した。相手を殺さなければ、こちらが死んでしまう。本能に導かれるように道徳観が崩れる。だから戦争があると、女性に乱暴したり物を盗んだり、証拠を消すために火を付けたりする。これが戦場で戦う兵士の姿だ。こういう戦争によって社会の正義が実現できるか。人間の幸福は実現できるか。戦争は決して許されない。それを私たち古い世代は許してしまった。新聞の仕事に携わって真実を国民に伝えて、道を正すべき人間が何百人いても何もできなかった。戦争を始めてしまったら止めようがない。
ぶざまな戦争をやって残ったのが憲法九条。九条こそが人類に希望をもたらすと受け止めた。そして七十年間、国民の誰も戦死させず、他国民の誰も戦死させなかった。これが古い世代にできた精いっぱいのことだ。道は間違っていない。
国連に加盟しているどこの国の憲法にも憲法九条と同じ条文はない。日本だけが故事のようにあの文章を掲げている。必ず実現する。この会場の光景をご覧なさい。若いエネルギーが燃え上がっている。至る所に女性たちが立ち上がっている。新しい歴史が大地から動き始めた。戦争を殺さなければ、現代の人類は死ぬ資格がない。この覚悟を持ってとことん頑張りましょう。
<社説> むのさん死去 戦争起こさせない遺志継ぐ
琉球新報 2016年8月22日
反戦を訴え続けたジャーナリストむのたけじ(本名武野武治)さんが亡くなった。
生前こう語っていた。
「私の知っている範囲で、軍部と一緒になって旗を振った記者はほとんど見当たらなかった。しかし、戦争が始まってしまってからでは、新聞も政党も思想団体もまったく無力。国家は自分に反対するものは全部吹っ飛ばしてしまいます。抵抗できません。戦争と戦うのであれば、戦争を起こさせないことです」
むのさんの遺志を、しっかり胸に刻み、戦争への道を許さず、国民の知る権利に応える報道を貫かなければならない。
「負け戦を勝ち戦と報じ続けてきたけじめをつける」として、1945年8月の敗戦を受け朝日新聞社を退社した。故郷の秋田県横手市で週刊新聞「たいまつ」を発刊し、反戦記事を書き続けた。
むのさんは、従軍記者としてインドネシアに派遣された。「本当に戦争をたくらんだのは昭和13、14、15年に日本社会に巣くった連中だ。われわれは新聞社にいて何も知らなかった」と語り、新聞が本来の役割を果たせなかったことを悔やんだ。戦争が始まると、新聞は萎縮して自縄自縛に陥ってしまった。
沖縄も例外ではない。国家による「一県一紙」の言論統制によって「沖縄新報」が創刊された。「沖縄新報」は、国家の戦争遂行に協力し、県民の戦意を高揚させる役割を果たした。
沖縄戦で日本軍の組織的戦争が事実上集結した後、安倍源基内務大臣は「沖縄の戦訓」を発表した。「ことに沖縄新聞社が敵の砲弾下にありながら一日も休刊せず友軍の士気を鼓舞していることなども特記すべきである」と語った。言論統制がうまくいったことが、国家にとって沖縄戦の教訓なのである。
安倍政権下で特定秘密保護法が施行された。秘密指定の基準が曖昧で市民がそれと知らずに「特定秘密」に接近し、処罰されることもあり得る。報道機関も同様だ。萎縮効果を狙う手法は戦前の言論統制と酷似している。集団的自衛権の行使を可能にした安全保障関連法も施行された。
平和憲法の下で戦後を歩んできた日本が、再び戦争に向かいかねない事態が進んでいる。今、最も問われているのはジャーナリズムの在り方である。