日本国憲法に戦争放棄の憲法第9条が盛り込まれたことに関しては、終戦直後に首相を務めた幣原喜重郎がマッカーサーに直接提起したと、幣原自身が1951年に出版された「外交五十年」の中で記述しています。
幣原の側近であった平野三郎は、幣原から聞き出したいわゆる「平野メモ」を残しています(国会図書館蔵)。
一方提案を受けた側のマッカーサーも、1951年5月の米上院軍事外交合同委員会の公聴会に対して、「戦争を禁止する条項を憲法に入れるようにという提案は、幣原総理が行ったのです」と書簡で回答しています。
その後日本の憲法調査会からの問い合わせに対しても、1958年12月15日、同様の趣旨を書簡で回答しています(憲法調査会報告書)。
またホイットニー准将(GHQ民生局長)は後年、1946年1月24日に幣原がGHQを訪ねたとき マッカーサーが対談後にその提案に感動していた様子を著書「マッカーサー」に記述しています。
この度、堀尾輝久・東大名誉教授が、幣原がGHQ側に提案したという学説を補強する新たな史料を見つけました。
それは1958年当時の憲法調査会の高柳賢三会長がマッカーサーに宛てた「幣原首相が戦争と武力の保持を禁止する条文をいれるように提案したのか、それとも貴下が憲法に入れるよう勧告されたのか(趣旨)」という問い合わせの書簡と、それに対するマッカーサーからの「戦争を禁止する条項を憲法に入れるようにという提案は、幣原首相が行った(趣旨)」と明記された返書などです。
東京新聞の記事と同紙による堀尾輝久・東大名誉教授のインタビュー記事を紹介します。
(関係記事)
2月29日 「9条は幣原総理の発案」の可能性が高い 他
追記)
このエピソードは両当事者とそれぞれの側近たちの証言があるので史実であると考えることに不足はないのですが、一方で、事実ではないとする強い主張があります※。
※ 6月3日 ‘16年5月分 コメント 詳報(2)
それは主に、幣原の提案が閣議を経たものではないこと、1946年2月8日にGHQに提出された日本政府の「憲法改正要綱」に全く反映されていないこと、幣原のその前後の言動には「戦争放棄の提案」と矛盾するものがあることなどを根拠にしています。
幣原の提案は、彼がGHQから渡された抗生物質によって肺炎から恢復できたことに対するお礼のためにGHQを訪ねた際に行ったもので、確かにその構想は他の閣僚などには全く知らせてありませんでした。
しかし幣原の提案は「天皇の人間化」と一対で行われたものなので、そうした国体に触れる内容を当時の情勢の中で「口にすること」などは出来ないことでした(平野メモ)。
それらのことを考え合わせると幣原提案説はやはり高い説得力を持っています。
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「9条は幣原首相が提案」マッカーサー、書簡に明記
「押しつけ憲法」否定の新史料
東京新聞 2016年8月12日
日本国憲法の成立過程で、戦争の放棄をうたった九条は、幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)首相(当時、以下同じ)が連合国軍総司令部(GHQ)側に提案したという学説を補強する新たな史料を堀尾輝久・東大名誉教授が見つけた。史料が事実なら、一部の改憲勢力が主張する「今の憲法は戦勝国の押しつけ」との根拠は弱まる。今秋から各党による憲法論議が始まった場合、制定過程が議論される可能性がある。 (安藤美由紀、北條香子)
九条は、一九四六年一月二十四日に幣原首相とマッカーサーGHQ最高司令官が会談した結果生まれたとされるが、どちらが提案したかは両説がある。マッカーサーは米上院などで幣原首相の発案と証言しているが、「信用できない」とする識者もいる。
堀尾氏は五七年に岸内閣の下で議論が始まった憲法調査会の高柳賢三会長が、憲法の成立過程を調査するため五八年に渡米し、マッカーサーと書簡を交わした事実に着目。高柳は「『九条は、幣原首相の先見の明と英知とステーツマンシップ(政治家の資質)を表徴する不朽の記念塔』といったマ元帥の言葉は正しい」と論文に書き残しており、幣原の発案と結論づけたとみられている。だが、書簡に具体的に何が書かれているかは知られていなかった。
堀尾氏は国会図書館収蔵の憲法調査会関係資料を探索。今年一月に見つけた英文の書簡と調査会による和訳によると、高柳は五八年十二月十日付で、マッカーサーに宛てて「幣原首相は、新憲法起草の際に戦争と武力の保持を禁止する条文をいれるように提案しましたか。それとも貴下が憲法に入れるよう勧告されたのか」と手紙を送った。
マッカーサーから十五日付で返信があり、「戦争を禁止する条項を憲法に入れるようにという提案は、幣原首相が行ったのです」と明記。「提案に驚きましたが、わたくしも心から賛成であると言うと、首相は、明らかに安どの表情を示され、わたくしを感動させました」と結んでいる。
九条一項の戦争放棄は諸外国の憲法にもみられる。しかし、二項の戦力不保持と交戦権の否認は世界に類を見ない斬新な規定として評価されてきた。堀尾氏が見つけたマッカーサーから高柳に宛てた別の手紙では「本条は(中略)世界に対して精神的な指導力を与えようと意図したもの」とあり、堀尾氏は二項も含めて幣原の発案と推測する。
改憲を目指す安倍晋三首相は「(今の憲法は)極めて短期間にGHQによって作られた」などと強調してきた。堀尾氏は「この書簡で、幣原発案を否定する理由はなくなった」と話す。
<しではら・きじゅうろう> 1872~1951年。外交官から政界に転じ、大正から昭和初期にかけ外相を4度務めた。国際協調、軍縮路線で知られる。軍部独走を受けて政界を退いたが、終戦後の45年10月から半年余り首相に就き、現憲法の制定にかかわった。
「9条提案は幣原首相」史料発見の東大名誉教授・堀尾輝久さんに聞く
東京新聞 2016年8月12日
憲法9条は幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)首相が提案したという学説を補強する新たな史料を見つけた堀尾輝久・東大名誉教授に、発見の意義などを聞いた。 (北條香子、安藤美由紀)
-なぜ、書簡を探したのか。
「安倍政権は、戦争放棄の条文化を発意したのはマッカーサーという見解をベースに改憲を訴えている。マッカーサー連合国軍総司令部(GHQ)最高司令官が高柳賢三・憲法調査会長の質問に文書で回答したのは知っていたが、何月何日に回答が来て、どういう文脈だったのか分かっておらず、往復書簡そのものを探し出そうと思った」
-書簡発見の意義は。
「マッカーサーは同じような証言を米上院や回想録でもしているが、質問に文書で明確に回答したこの書簡は、重みがある」
-二項も、幣原の発案と考えていいのか。
「一項だけでは(一九二八年に締結され戦争放棄を宣言した)パリ不戦条約そのもの。往復書簡の『九条は幣原首相の先見の明と英知』、幣原の帝国議会での『夢と考える人があるかもしれぬが、世界は早晩、戦争の惨禍に目を覚まし、後方から付いてくる』などの発言を考えると、二項も含めて幣原提案とみるのが正しいのではないか」
-幣原がそうした提案をした社会的背景は。
「日本にはもともと中江兆民、田中正造、内村鑑三らの平和思想があり、戦争中は治安維持法で押しつぶされていたが、終戦を機に表に出た。民衆も『もう戦争は嫌だ』と平和への願いを共有するようになっていた。国際的にも、パリ不戦条約に結実したように、戦争を違法なものと認識する思想運動が起きていた。そうした平和への大きなうねりが、先駆的な九条に結実したと考えていい」
-今秋から国会の憲法審査会が動きだしそうだ。
「『憲法は押しつけられた』という言い方もされてきたが、もはやそういう雰囲気で議論がなされるべきではない。世界に九条を広げる方向でこそ、検討しなければならない」
<ほりお・てるひさ> 1933年生まれ。東大名誉教授、総合人間学会長。教育学、教育思想。東大教育学部長、日本教育学会長、日本教育法学会長などを歴任した。著書に「現代教育の思想と構造」「教育を拓く」など。
<たかやなぎ・けんぞう> 1887~1967年。法学者。成蹊大学初代学長。専攻は英米法。22年に東大教授となり、東京裁判で日本側弁護団のリーダー格を務めたとされる。帝国議会貴族院議員として46年、憲法審議に関わった。57年に憲法調査会長に選ばれ、憲法の再検討に当たった。