2019年2月14日木曜日

官僚採用権まで手に入れようと画策する安倍政権

 自民党の萩生田光一幹事長代行は8日の衆院予算委で、厚労省のゴタゴタに乗じて悪名高き「内閣人事局」の権力を増大させるべく、各省で役人を採用すると、官僚は自分を選んでくれたとずっと役所とつながるから歪んだ縦の関係が生じている」として、「私最終決定権は人事院や内閣人事局という“外の目”で最終決定したらいいと思う(要旨)と述べました。
 なるほど日本の官僚には公僕という意識は殆どなく、ひたすら「省益のために励む」といわれてきました。しかし役人の採用を内閣人事局が行えば解決するのかといえば、そんな単純な問題ではありません。
 
 安倍政権は2014年に官邸直轄の内閣人事局を設置し、それまで各省庁に委ねられていた審議官級以上の幹部職員600人の人事を握りましたが、その結果は幹部職員に「すべて官邸が気に入る様に振る舞えばわが身は安泰」という風潮を生み出し、今日の堕落と腐敗を生み出しました。それをさらに拡大させても何かいいことがあるとはとても考えられません。
 久しぶりに「くろねこの短語」を紹介します。
 
 併せて浜矩子教授の投稿記事「公僕でなければ、日本の官僚たちは一体何僕なのだろう」を紹介します。
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官僚採用権まで手に入れようと画策するペテン政権。
そうなったら、霞ヶ関は官邸の犬だらけ!!
くろねこの短語 2019年2月12日
 統計偽装のドサクサにまぎれて加計学園とズブズブの萩生田君がよからぬことを口走っている。なんでも、統計偽装を厚労省の役人にすべておっかぶせることで、あたかも霞ヶ関改革のように見せかけて内閣人事局の権力をさらに強化しようとているんだとか。曰く、
「(採用の)最終決定権は人事院や、せっかく内閣人事局をつくったんですから、“外の目”で最終決定したらいいと思う」
 つまり、幹部人事だけでなくすべての官僚の採用までも牛耳ろうというわけだ。そうなったら、採用された官僚は官邸が雇い主みたいなもんなんだから、そりゃ忖度しまくるのは目に見えている。ていうか、そうしなければ出世も覚束ない。統計偽装なんてのはお茶の子さいさい、官邸の言いなりに公文書改竄なんてのは当たり前になっちまうだろうことは容易に想像がつこうというものだ。
 
 内閣人事局に官僚の採用権なんか許したら、公僕なんて言葉はもうなくなりますね。権力の犬だらけの霞ヶ関となって、この国はひたすら滅亡への道を歩み続けることになるでしょう。
 
 それにしても、こういう声が初老の小学生・ペテン総理の周辺から上がっていることに、なんで新聞・TVは鈍感なのかねえ。それとも鈍感の振りをしているのか。報道番組からは、政権への怒りはまったく感じられず、どいつもこいつも他人事のように評論家面しておざなりなこと言うばかり。そして、最後はお決まりの「野党がだらしないから」で終わるんだよね。
 
 ジャーナリストとしての矜持も誇りもないくせに、一般サラリーマンの平均給与をはるかに上回る高給を手にするんだからお気楽なことだ。きっと、戦前もこんなんだったんだろうなあ。「我々が歴史から学ぶことは、人間は決して歴史から学ばないということだ」・・・ヘーゲルの言葉が身に沁みる寒さもピークの冬の朝であった。
 
 
浜矩子「公僕でなければ、日本の官僚たちは一体何僕なのだろう」
「eyes 浜矩子」 AERAドット 2019年2月7日
 AERA 2019年2月11日号
 経済学者で同志社大学大学院教授の浜矩子さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、経済学的視点で切り込みます。
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 日本の統計は細かくて網羅的で精緻だ。筆者はずっとそう信じてきた。商売柄、実際に他の国々や国際機関の統計を多々扱ってきた。だから、日本の統計が細かくて網羅的だというのは実感だ。だが、だから精緻だというのは思い込みだったようだ。
 
 考えてみれば、逆にあの細かさと網羅性がずさんさの証明だったのかもしれない。まともにやっていれば、とてもあんなに詳細な統計は作れない。適当にごまかしていたからこそ、あの精緻さの権化のような体裁を整えられた。きっとそうなのだろうと納得出来てしまう。
 
 実は、日本に比べればはるかに大ざっぱな他の国々の統計の方が、正直に作られているのかもしれない。無理なものは無理。出来ないことは出来ない。そのスタンスでやっているから、粗っぽい数字しか出て来ない。だが、信頼性は結構高い。それが真相だったか。
 
 なぜ、こういうことになるのか。どうも、それは何時のころからか、公僕が公僕でなくなってしまったからではないかと思う。公すなわち国民・市民に尽くすために存在する。それがお役人さんたちだ。まともな近代的民主主義体制なら、そのはずである。だが、日本では、この辺が次第に怪しくなって今日にいたっているのではないか。
 
 公僕でなければ、日本の官僚たちは一体何僕なのだろう。政僕か。彼らは政治家に仕える者たちと化しているのか。モリカケや忖度を想起すれば、そのように思える。はたまた官僕か。官僚たちはお互いに仕え合っているのか。彼らにとって、いまや、お互いの身の安泰こそが一番大切なことなのか。統計の不正集計を意図的に隠蔽してきたのだとすれば、そうも思える。
 
 彼らが政僕化したり官僕化しているとすれば、それは結局、彼らが僕僕だからだ。僕僕主義者は僕ちゃんすなわち自分が一番かわいい。だから政治におもねったり、お互いにかばいあったりすることになる。僕僕は、公僕にはなり得ない
 
  浜矩子(はま・のりこ)/1952年東京都生まれ。一橋大学経済学部卒業。前職は三菱総合研究所主席研究員。1990年から98年まで同社初代英国駐在員事務所長としてロンドン勤務。現在は同志社大学大学院教授で、経済動向に関するコメンテイターとして内外メディアに執筆や出演