2015年1月5日月曜日

沖縄戦後70年ー「非戦の誓い」全うを 地続きの基地重圧断とう

 琉球新報が沖縄戦後70年に当たり断続的に連載している「沖縄戦後70年」の記事を紹介します。
 このシリーズは「社説」の形を取っています。
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<社説> 沖縄戦後70年 
「非戦の誓い」全うを 地続きの基地重圧断とう
琉球新報 2015年1月3日  
 米軍普天間飛行場の代替新基地建設予定地の名護市辺野古の浜に1日未明、初日の出を拝む約200人が集い、「この海を絶対に埋め立てさせない」と誓った。
 2014年に続いた名護市長選、同市議選、県知事選、衆院選の全てで「辺野古移設ノー」の強固な民意が示された。それに励まされてか、昨年に比べ、家族連れが目に見えて増えていた。
  孫を連れた老夫婦、1歳を超えたばかりの幼子を抱く若い夫婦が「新たな基地を造らせては駄目だ」と語った。共通した言葉は前段の「子や孫のために」だった。
 
艦砲ぬ喰ぇー残さー
 ことしは沖縄戦、太平洋戦争の終結から70年の節目を刻む。今なお続く米軍基地の重圧、それに抗(あらが)う沖縄社会の闘いの原点は「ありったけの地獄を集めた」と形容される沖縄戦にある。
  1944年4月、米軍が沖縄本島に上陸した読谷村楚辺。沖縄の原風景を残す風光明媚(めいび)な海岸線に「艦砲ぬ喰(く)ぇー残(ぬく)さー」の歌碑が建つ。地域の憩いの場である歌碑前に集って正月を祝うお年寄りが「子孫に残す平和の歌だ」と語り、歌碑の意義を説いてくれた。
  沖縄戦体験者の平和への願いを込めた「艦砲ぬ-」は「でいご娘」が歌う。その父で楚辺出身の比嘉恒敏さんが実体験を基に作詞作曲した。戦後史を彩る名曲だ。
  米軍との激しい地上戦による県民の死者は約12万2千人(軍人軍属含む)で、ほぼ4人に1人が亡くなった。家族を全て失った人、死が迫る激戦地に深手を負った家族や友人を置き去りにした人、日本兵に命じられて漆黒の闇に包まれた壕で赤ん坊の首を絞めて絶命させた母-。極限状態の戦争は壮絶な選択を一人一人に迫った。
  「艦砲ぬ-」の歌詞には、猛烈な米軍の砲撃からかろうじて生き残った感慨と死にそびれた自責の念が交錯する。農地を米軍基地に接収されて困り果て、生活物資を求めるために忍び込んだ基地で捕まり米兵に殴られて嘆く。終戦後の苦難と米軍統治に翻弄(ほんろう)された民衆の姿も描き、家族を亡くした記憶にとらわれた遺族の心情を哀感漂うリズムに乗せる。
  戦時中、大阪に出稼ぎしていた比嘉さんは撃沈された学童疎開船対馬丸に乗った両親と長男を失い、大阪では空襲の直撃弾で妻と次男が死んだ。沖縄に戻って再婚しでいご娘の4人を含む7人の子に恵まれたが、1973年、飲酒運転の米兵の車に激突され、妻と共に亡くなった。比嘉さん自身も沖縄の不条理を体現している。
 
引き出される後遺症
  多大な犠牲を払って得た非戦の誓いを一気に無にしかねないきな臭い動きが急速に強まっている。
  米国の戦争に付き従う回路を開く集団的自衛権の行使が容認され、住民を守る「防衛」ではなく、敵に奪われることを前提にした「離島奪還訓練」の頻度が増している。いずれも安倍政権下で進む動きだ。さらに、沖縄の民意を組み敷いて、辺野古への新基地建設を強行しようとしている。
  沖縄戦体験者の約4割が心的外傷後ストレス障害(PTSD)を発症しているか、発症間際の心の傷にさいなまれている。専門家によると、米兵事件・事故や防ぎようがない米軍機の爆音など、日常的な基地の重圧感によって戦争の記憶が揺さぶられ、心の傷口が瞬時に開くのだという。
  県民が置かれた状況は、沖縄戦から地続きで今に連なっているのだ。新基地建設は心のかさぶたを剥がす要因の最たるものだろう。
  「艦砲ぬ-」の最後は「恨でぃん悔やでぃん 飽きじゃらん 子孫末代 遺言さな(戦争をいくら恨んでも悔やんでも足らない。子々孫々まで語り伝えねば)」と平和を継承する決意を込める。
  非戦の誓いを全うし、新たな「ミサイルぬ喰ぇー残さー」を出してはならない。「軍隊は住民を守らない」という沖縄戦の教訓を一片も漏らさぬ気概で継承し、基地の過重負担を断ち切りたい。