沖縄タイムスは、戦後70年にちなんだ社説企画「地に刻む沖縄戦」を9月までの間、実際の経過に即しながら随時掲載しています。
70年が経ちましたが決して忘れてはならない太平洋戦争における沖縄の悲劇です。
本ブログでは、出来るだけフォローして掲載の都度紹介するつもりです
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[戦後70年 地に刻む沖縄戦] 朝鮮人軍夫 飢えと差別と重労働と
沖縄タイムス 2015年8月25日
糸満市摩文仁の平和祈念資料館の裏、道をはさんだ場所に小さな公園がある。石を積み上げたまんじゅう型の塔が平和祈念堂をバックに建っている。「韓国人慰霊塔」。
隣の資料館には引きも切らず観光客が訪れるが、ここまで足を延ばす人は少ない。
公園内の円形広場に、故国の方向を示す矢印が埋め込まれている。なぜ、矢印を刻んだのだろうか。碑文を読むと、矢印に込められた痛切な思いが伝わる。
「この沖縄にも徴兵、徴用として動員された1萬余名があらゆる艱(かん)難(なん)を強いられたあげく、あるいは戦死あるいは虐殺されるなど惜しくも犠牲になった」
「祖国に帰り得ざるこれら冤(えん)魂は、波高きこの地の虚空をさまよいながら雨になって降り風となって吹くであろう」
推定で1万~2万人の朝鮮人が軍人・軍属あるいは「従軍慰安婦」として沖縄に連れてこられた、といわれる。だが、犠牲者数を含め正確な数ははっきりしない。
「平和の礎」に刻まれている朝鮮半島出身の戦没者(6月現在)は韓国365人、北朝鮮82人のあわせて447人にとどまる。県援護課が公表している沖縄戦戦死者の推計にも朝鮮人戦死者は含まれていない。
朝鮮人軍夫は、決して忘れてはならない存在でありながら、人々の記憶から忘れられつつある存在だ。
朝鮮人軍夫の沖縄戦体験は、現在につながるさまざまな問題を内包している。
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1938年、国家総動員法が朝鮮に適用され、翌年の39年には国民徴用令も公布された。
すべてを区別なく平等に遇するという意味の「一視同仁」、朝鮮を差別せず内地(日本本土)と一体化するという意味の「内鮮一体」-これらのスローガンを通して朝鮮総督府は朝鮮の人々を鼓舞し、皇民化を推し進めた。
日本軍の軍人・軍属としてアジア・太平洋各地に送られた朝鮮人は、24万人とも34万人ともいわれる。
朝鮮人軍夫は日本軍の軍属として沖縄本島、慶良間諸島、宮古島などに送られ、飛行場建設や陣地の構築、荷役、運搬などの雑役に従事した。
特設水上勤務第104中隊の陣中日誌は、中隊の任務として軍用物資の陸揚げ、運搬、道路工事などを挙げたあと、次のような業務を明記している。
「無学文盲なる朝鮮軍夫の教育訓練に従事す」
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市町村史には、朝鮮人軍夫に関する証言が少なくない。日本兵の露骨な朝鮮人蔑視と居丈高な態度が目立つが、沖縄県民も決して差別感情から自由ではなかった。
「一視同仁」「内鮮一体」と言いながら、沖縄での扱いは理不尽極まるものだった。
海上特攻兵として慶良間諸島の戦争を体験した深沢敬次郎は書いている。
「隊員には小さい米のおむすびが支給されていたのに、軍夫に与えられていたのは、桑の葉の混ざった少ない雑炊だけであった」(『沖縄戦と海上特攻』)。
阿嘉島では、米軍への投降をおそれ、壕の中に軍夫を監禁した。「私が医務室にいるとき、よく朝鮮人の死体が運ばれてきました」「みんな骨と皮だけになってしまって、明らかに餓死です」(『沖縄県史 沖縄戦記録2』)。
ひもじさのあまり、食糧を盗んで逃げようとした軍夫は山中で処刑された。
収容所に収容され、ポツダム宣言受諾の報に接したとき、彼らは戦争が終わったことを深くかみしめ、快哉(かいさい)を叫んだという。
敗戦を解放と受け止め喜んだのは、日本兵とともに戦ったはずの「植民地朝鮮」からきた軍夫であった。