2016年7月5日火曜日

05- 通信平和の輪第126号を掲示します

  今月号のテーマは 参院選投票日直前号として、
 
 平和を壊すのかOR 輝かせるのか
   ―日本国憲法公布70年、歴史的な参院選の大争点に―  です。
 
    中見出しは、
 
  争点隠しは許されない
      そして
  これで三度目 今度はもうだまされない!   です。
                                     
  2面には久しぶりに「私の戦争体験(55)」が載っています。
 
  これは、POF画面を90度回転させて読む必要があります
  この操作が苦手な方のために、同記事のテキスト版を末尾に添えましたのでご覧ください
  
 「私の戦争体験」をお寄せ下さい。ご寄稿をいただける方や、その方をご紹介いただける方は、世話人の笛木譲までご連絡願います。(Tel 025-785-5062

 「通信平和の輪」などをご覧になる場合は、下のタイトルをクリックするとまず画面の下側に選択肢:「ファイルを開く」・「保存」が表示されるので、「ファイルを開く」を選択すると表示されます。
 
 Google Chrome の場合は左下にアルファベットのタイトル(「○○.pdf」)が表示されるので、それをクリックすると開きます。
 
 文字が小さい場合にはPDF画面右上の最大化マーク(□)をクリックするか、上段の中央付近にある倍率(%表示)を調整して下さい。

通信 平和の輪. 第126号   (1面)
通信 平和の輪 第126-2号 (2面)


通信 平和の輪.  第125号   (1面)
通信 平和の輪 第125-2号 (2面)

通信 平和の輪. 第124号  (1面)
通信 平和の輪 第113-2号  (2面)
通信 平和の輪 第112号  (1面)
通信 平和の輪 第112-2号  (2面)
通信 平和の輪 第111号  (1面)
通信 平和の輪 第111-2号  (2面)
 
「通信 平和の輪」 第110号以前(2015.4.9以前発行分、「私の戦争体験」を含む)については下記にアクセスしてご覧ください。
 
 
 
通信 平和の輪 「私の戦争体験一平和への思いを込めて-」(55
 
2016.6.5  旭原
 片桐 ユキ (92歳 南魚沼市城内生れ)   並木 シゲノ(88歳 湯沢町原生れ)
 樋口 米子 (86歳 湯沢町滝の又生れ)   牛木 フミヨ (84歳 南魚沼市城内生れ)
 
 旭原初代入植の方4人に片桐さんの家に集まって頂き、2時間程お話を伺いました。
 お話の内容を戦中と戦後に整理して4人それぞれをK,N,H,U,で表記してまとめました。
 
1.戦時中の事
 Kさん(92歳)
 戦時中(満州事変、支那事変)小学校では先生はとても怖かったです。あの頃はにシラミがたかっている子がいっぱいで、大事な式のために並んでいる前の子の首筋をシラミがもぞもぞしているのが見えました。それが気になって、ソーと手を延ばしてそのシラミを取ろうとした所を先生に見つかって、大変に叱られたのが忘れられない思い出です。シラミは終戦後もしぱらくは誰のにもいました。
 
 小学校を終えると紡績工場の募集人の勧めで、京都の綾部の紡績工場に働きに行ました。昭和14年に行って16年暮れに大東亜戦争が始まるまで勤めました。(昭和1612 日本軍ハワイ真珠湾攻撃)戦争が本格化して空襲が心配だという事で親に呼び戻されたのです。
 家で、夏は百姓をして、冬は群馬の前橋の機織り工場に冬働きに行きました。
 自分は機織りではなくて、糸撚りの仕事をしました。
 戦時中はどこも食べ物が不足していたからそれでもうちは農家で米を作っていたので家から米を送ってもらって、休みの日に河原に行って、みんなでお金を出し合って買った釜で御飯を炊いて、塩おにぎりを握って分けあって食べたりしました。そのおにぎりがとても美味しくて、今でも忘れられない思い出です。
 その当時一緒に働いた友達と今でも交流が続いています。
 家が百姓をしていて、親にこのようにして守られていたので、子どものあの頃にひもじいという思い出はないです。そう思うとありがたい事だなと思います。
 
 昭和20年にはこのあたりもB29が飛ぶのが見えたり、夜は電気に黒い布を披せて外に明かりが漏れないようにしたり、空襲警報が鳴ったりしました。
 B29などとは良く知らないで空を飛んでいる飛行機に向かって一生懸命に手を振ったりしたこともあります。
 当時は青年学校というのがあって週に何日か勉強がありました。
 8月15日、終戦の日も青年学校の先生にいわれて、城内ののぎわ鎮守様に集まって、お前(松田大本家)のひげをピンと生やしたおじい様から「戦争に負けた」と言うお話を聞きました。
 
 Nさん(88歳)
 土樽の原の生れです。兄弟姉妹も多かっしおんなっ子だしで、学校はちゃんとは行かなかったので、字が十分には書けませんでした。
 学校が終わると女のきょうだいは3人とも石川県の大聖寺の紡績工場に行かされました。
 仕事も辛いし、食べ物が不足で、家に手紙を書いて、何か送ってもらいたいと思っても手紙がちゃんと書かれないのが大変困った事でした。そこで工場の中の夜間の学校で勉強して、字を覚えて手紙が書けるようになったのがとてもうれしい事でした。
 もらった給料は家に仕送りしました。当時はそれが当たり前の事でした。
 紡績工場から戻ってからも、水上に女中奉公に行ったりして、働いたお金を家に入れてきました。
 終戦の時の事は良く覚えていません。
 
 Hさん(86歳)
 私は旭原のすぐ下の滝の又の生まれで、この人達のようにあっちこっちと出て働いた事が一回もありません。本当にこの辺りしか知らない暮らしを今までず-っと続けて来ました。
 今までには大病もしたりして、大変だったの’に、運が強いのかこの年まで長生きしています。
 小学校も行ったり行かなかったりで、とにかく子どものうちから家の手伝いをいっぱいしました。あの頃は勉強できるかどうかなんてのは大事な事ではなくて、特に女っ子は勉強などよ,り手伝いの方が大事でした。だから小学校の事は思い出す事があまりないです。
 
 学校がおわってからは毎日家の百姓の仕事を手伝っていました。
 今と違って、機械などはなに一つ無くて、何でも人の手でするのだから働く人手が一番必要だったのです。
 8月5日、終戦の日も同じようだったと思い-ますが良くは覚えていません。・
 ただ一つ、8月下旬の小坂の観音様の盆踊りを、戦争に負けたから、今年はしてはいけないのかしてもいいのか、自分も含めて、青年団の何人かが小坂の甲申塔の所に果まってどうだかと話し合いました。代表が村おもだちに聞きに行ったら「今年はしちゃダメだ」と言われて戻ってきたのが忘れられない思い出です。         
一次に続く-