2019年12月26日木曜日

つれづれ語り「自由と安全」(田中篤子弁護士)

(この記事はブログ「原発をなくす湯沢の会」のものですが、広く司法に関するものでもあるので「湯沢平和の輪」のブログでも紹介させていただきます)

 田中淳哉弁護士ご夫妻が『上越よみうり』に連載中のコラム「田中弁護士のつれづれ語り」に自由と安全(田中篤子弁護士)が載りました。
 淳哉弁護士が「専門的知見が関連する事件であっても、司法府として、独自の見地から判断すべき事柄は必ずあります。そこで当該領域の専門家として責任ある判断を示すことができるかどうかは、司法に対する国民の信頼を確保するうえで決定的に重要だと思います」と前書きされています。まさにこれに尽きているのですが・・・。

 3.11以前の司法は、井戸謙一判事の一審判決を唯一の例外として20数件の原発差し止め訴訟を、政府の言い分が正しいとして悉く却下しました。いわば思考停止という太平の眠りの中にいたのでした。それが福島原発の大惨事でほんの一瞬だけ覚醒したかに見えましたが、樋口英明判事の再稼働不可の判決以降「強烈な外力」が作用して、再び「新規制基準が正しい」とする思考停止に入りました。
 たとえ裁判において原発の安全を否定する如何なる論議が行われようとも、全て「新規制基準に合理性がある」の一言で片付けることがパターン化されました。規制委のトップが「新規制基準は安全を保障するものではない」と明言しているにもかかわらずにです。

 今回の「つれづれ語り」も例によって限られた字数の中で、実に簡潔に(分かりやすく)ポイントが示されています。
 いわば司法の果たすべき役割に関する同弁護士の哲学の開陳であり、それは直ちに裁判を行う人間に対し、外圧的にというよりも内面的・内発的なショックを与えるものです。
 それにしても、司法に対する現行の家父長的支配体制は余りにもそれから逸脱しています。
 何よりも重みのあるクリスマスプレゼントになることを祈ります。

お知らせ
都合により27日と28日は記事の更新ができません。ご了承ください。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
つれづれ語り自由と安全)(田中篤子弁護士)
田中篤子弁護士 2019年12月25日
『上越よみうり』に連載中のコラム、「田中弁護士のつれづれ語り」
2019年12月25日付に掲載された第74回は、「自由と安全」です。
篤子弁護士が、原発差止訴訟における司法判断のあり方について書いています。
専門的知見が関連する事件であっても、司法府として、独自の見地から判断すべき事柄は必ずあります。そこで当該領域の専門家として責任ある判断を示すことができるかどうかは、司法に対する国民の信頼を確保するうえで決定的に重要だと思います。

自由と安全

1 原発から私たちを守れるのは
原発訴訟についての報道を見ていると、この国の人々の司法に対する信頼はいつまで保たれるのか不安に思うことがあります。原発問題は国政選挙によって決せられるべきエネルギー政策の問題だというある種のイメージがついていますが、福島第一原発事故で明らかとなったように、安全性の不十分な原発は、一度の事故で多数の人々の命や健康、生活していた土地やその地を中心とした人間関係、仕事などを含め人生を根こそぎ奪い取るような甚大な人権侵害を引き起こします。多数者による人権侵害から少数者を救済することこそが司法の最も重要な役割である以上、原発推進の国策に関わらず、司法は原発の安全性について積極的に判断する姿勢を示していくべきです。行政判断をただ追認するだけの裁判で再び原発事故を招くようなことがあれば,司法は完全に国民から見放されてしまうでしょう。そのような国家でどうして社会の秩序が維持できるでしょうか。

2 十分に安全な原発を
裁判所が何よりも真摯に考え判断すべきなのは、そもそも原発にはどの程度の安全性が求められるのかという点です。社会が原発に求める安全性のレベルはどの程度のものなのか。福島第一原発事故の際、大量の放射性物質が海に放出されてアメリカにも到達しました。原発事故の被害は容易に国境を超えます。そうである以上、原発の安全性を自国の経済などの利己的な理由で低めに設定することは許されません。ここでいう「社会」とは立地自治体でも日本でもなく「国際社会」と言わなければなりません。この点、ドイツでは、福島第一原発事故よりも相当以前から、原発には高度な安全性が求められることを前提にこれを確保するための基準を裁判所が示してきました。例えば、安全性については通説的学説だけでなく代替可能なすべての見解を考慮する必要があるとされています。自然科学の分野では通説的見解とは異なるが一応の合理性がある見解が存在することは珍しくありません。通説的見解では安全と言えても、別の見解からすれば安全とは言えない場合には、直ちに安全とは評価できないというのがドイツの裁判所が示した判断であり、これには共感を覚える方も多いのではないでしょうか。

3 裁判官だけが判断できること
原発訴訟のような専門技術的な知識が要求される裁判では、裁判官は科学者や技術者による検討を経た行政庁の判断を尊重するという姿勢になりがちです。しかし、科学者や技術者は,原発が抱えるリスクの有無や程度という「事実」を判断することはできても,そのリスクを社会が許容することの可否・合理性・条件といった社会的な価値判断を含む問題については判断することはできません。科学的見解が複数ある場合や科学が発展途上で不確実性を伴う場合などに、「疑わしきは安全に」の原則をとるのか「疑わしきは(経済活動の)自由に」の原則をとるのか,いずれを社会の基本方針とするのかを科学者が決めることはできません。それは社会学,倫理学,法学などの人文・社会科学の領域であり裁判官の専門領域であって、まさに司法が判断すべき領域です。冒頭で述べたような人権侵害を防ぐために、電力会社の経済活動の自由をどの程度制約できるのか。その判断を可能にするための基準は,行政が設定した新規制基準などではなく,ドイツの裁判所のように司法自体が確立しなければならない基準です。経済の発展に責任を負う立場にある行政が作成した基準と,人権侵害を救済することが主要な目的である司法とでは,基準が異なるのは当然です。行政の作った基準に合理性があるからといって,それが司法の目的に沿うものとは限りません。守るものが違えば,そこには対立があるのがむしろ自然なのです。司法が国民から信頼されるためには,人権救済の観点に立ち,その専門性を生かして,より具体的で精緻な判断基準を定立していく努力が欠かせないと思います