2019年12月5日木曜日

中村哲医師 が生前、週刊朝日に語っていた夢

 AERAに「中村哲医師 が生前、週刊朝日に語っていた夢」が載りました。
 以下に紹介します。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
銃撃された中村哲医師 が生前、本誌に語っていた夢
「現地では優しくしてもらっている」
池田正史、多田敏男 AERA dot.2019.12.4
※週刊朝日オンライン限定記事  
 アフガニスタンやパキスタンで人道支援活動に長年取り組んできた中村哲医師(73)が4日、銃撃されて亡くなった。
 現地の報道などによると、中村さんは現地時間4日朝、アフガニスタン東部ナンガルハル州の州都ジャララバードを車で移動中、何者かに襲われ銃弾を受けた。病院に運ばれいったんは回復に向かったが、容体が悪化し息を引き取った。同乗していた運転手や警備員らも死亡したという。

 中村さんは福岡県出身で九州大学医学部卒。「麦と兵隊」「花と龍」などで知られる作家火野葦平のおいでもある。NGO「ペシャワール会」(事務局・福岡市)の現地代表と、ピース・ジャパン・メディカル・サービスの総院長などを務めていた。
 アフガニスタンやパキスタンで30年以上にわたって、医療や農業用水路の建設などに携わってきた。その活動は国際的に評価され、2003年には「アジアのノーベル賞」ともいわれるフィリピンのマグサイサイ賞を受賞。国内でも菊池寛賞やイーハトーブ賞などを受けている今年10月にはアフガニスタンのガニ大統領から名誉市民証を授与された

 アフガニスタン大使館はホームページに次のようなコメントを掲載した。

「中村医師はアフガニスタンの偉大な友人であり、その生涯をアフガニスタンの国民の生活を変えるためにささげてくださいました。彼の献身と不断の努力により、灌漑システムが改善され、東アフガニスタンの伝統的農業が変わりました

 中村さんは9月にいったん帰国し、用水路建設に取り組む現地職員らと農業関連施設を訪れたり、講演会をしたりした。その後、再び現地に入っていた。
 中村さんは1984年にパキスタンでハンセン病などの医療支援を開始。アフガニスタンに活動の場を移し、「飢えや渇きは薬では治せない。100の診療所よりも1本の用水路が必要だ」などとして、水利事業や農業支援に力を入れてきた。

 本誌記者もかつて中村さんを取材したことがある。対テロ戦争の名目で武力行使が続いていることが、アフガニスタンを混乱させていると訴えていた。
「現地は危険だと言われるが、いくら武器を持っていても安全にはなりません。現地の人たちに信頼してもらうことが大切です」
 2008年には「ペシャワール会」の男性が武装グループに殺害される事件も起きた。中村さんは警備員をつけるなど安全確保に注意しつつ、現地の人たちと直接ふれ合うことを続けてきた。
診療するうちに、待合室で亡くなる貧しい子どもの姿を何人も見てきました。大干ばつに襲われ栄養状態が悪い子どもたちを救うには、医療だけでは足りません。用水路をつくって農業を支援する必要があったのです
 アフガニスタン東部で「マルワリード用水路」の建設に03年に着手。建設資材の不足などに悩まされながらも、全長25キロ超の用水路を10年に完成させた。「緑の大地計画」としてさらに農地を復活させるべく、活動を続けていたところだった。

 70歳を超え体調も万全ではなかったが、最後まで自ら現地で動くことにこだわった。
「私は日本では邪険にされることもありますが、現地の人たちはとても優しくしてくれます。日本よりもお年寄りを大事にしているからです。あと20年は活動を続けていきたいですね」
 取材では、心配をかけてきた妻や子どもら家族に感謝する言葉もあった。
「帰国した時にお茶漬けを食べたり、風呂に入ったりすると安心します。日本に残して苦労をさせてきた家族に、罪滅ぼしをしたいと思うこともあります」

 妻の尚子さんは4日報道陣に、「今日みたいな日が来ないことだけを祈っていました」と答えたという。
 ペシャワール会は、「事業を継続するのが中村さんの意志でもある」として、人道支援活動を続けていく方針だ。 (本誌・池田正史、多田敏男)