2020年11月17日火曜日

「令和の蓑田胸喜」が官邸を支配している!(牧 太郎氏)

 サンデー毎日に「 ~ 『令和の蓑田胸喜が官邸を支配している 」とする牧太郎氏の短いコラムが載りました。
 美濃部達吉が唱えた「天皇機関説」天皇は法人としての国家の最高機関)を昭和10年(1935年)、まず軍出身の貴族院議員が議場で天皇に統治権の主体である国体を破壊する思想だと攻撃し、それに呼応して軍部や右翼による天皇機関説と美濃部自身への排撃が激化すると、政府は「天皇機関説」を否定して「天皇が統治権の主体であり、日本は天皇の統治する国家である」旨の「国体明徴声明」を二度にわたって出しました。
 その国体明徴運動の理論的リーダーが、熱烈な皇室中心思想を持った憲法学者の蓑田胸喜(みのだ・むねき)でした。
 国を挙げての批判騒動のなかで、美濃部不敬罪で告発され(不起訴)、公職を追われ著書「憲法提要」は発禁にされまし

 しかし「天皇機関説」は決して異端の説などではなく、当時既に憲法学者の間でも通説となっていたもので、昭和天皇自身も賛意を示し高く評価していました。
 美濃部が貴族院で「一身上の弁明」と呼ばれる演説を行い、自己の学説の正当性を理路整然と説いた時には、議場は水をうったような静けさだったといわれます。

 それが一部の学者と軍部や右翼が扇動した結果このような結末に至ったのでした。
 戦後、新しい日本国憲法案が出来て国会に諮られたとき、美濃部は、国民主権原理に基づく新憲法は「国体の変更」であるとしてそれに反対し、枢密院における新憲法草案の審議ではただ一人反対し、議会通過後の採決も欠席棄権するなどして「国体の変更」を認めようとしませんでした。彼が開明な「天皇機関説」論者であるとともに熱烈な国体護持者でもあったことについて、周囲は「オールドリベラリストの限界」と評しましたが、戦前の通説であっことからも明らかなように別に矛盾している訳ではありません。

 それはともかくとしていま官邸を支配している「令和の蓑田胸喜」は、菅氏共々一刻も早く退場すべきです。
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熱烈な反共主義者「令和の蓑田胸喜」が官邸を支配している!
                  牧太郎 サンデー毎日 2020年11月22日号
                      「牧太郎の青い空白い雲/791」
 「蓑田胸喜(むねき)」さんのことをご存じだろうか?
 明治27(1894)年、熊本県八代郡に生まれた憲法・論理学者。大正14年、雑誌『原理日本』を創刊。自由主義的な学者を攻撃した人物である。
 東京帝国大在学中に国粋主義の学生団体に参加。慶應義塾大の教授になってからは教壇でマルクス主義を徹底批判。試験では、受講生が「明治天皇御製(ぎょせい)の三首」を書いて出せば及第点を与えた!という逸話が残っている。熱烈な皇室中心主義者だった。
 彼が日本の「戦前戦中」を決定づけたのが昭和10(1935)年の「天皇機関説」事件である。当時、大日本帝国憲法下で、多くの憲法学者が「天皇は法人としての国家の最高機関である」と考えていた。東京帝国大名誉教授で貴族院議員だった美濃部達吉氏が唱えた「天皇機関説」が通説だった。

 ところが「天皇は現人神(あらひとがみ)」と主張する軍部は反発した。1935年、貴族院本会議では元陸軍中将の議員が「国体を破壊する思想だ!」と攻撃。時の政府は「天皇機関説」を否定して「国体明徴(めいちょう)声明」を出した。
 天皇機関説が「天皇を統治機構の一機関」としているのに対し、国体明徴声明は「天皇が統治権の主体である」と明示し、日本は天皇の統治する国家である!と宣言した。この「国体明徴運動」の理論的リーダーが蓑田さんだった。
 美濃部教授は不敬罪で告発され(不起訴)、公職を追われ、著書は発禁にされた。
 この事件をきっかけに、蓑田さんは大学粛正運動を指導した。日独防共協定が締結されると、近衛文麿らが顧問を務める反共・国粋主義の「国際反共連盟」を結成した。やがて日本は「蓑田胸喜」流で戦争に突入した(彼は終戦後、首を吊(つ)って自殺している)。

 歴史の中で忘れられた「蓑田胸喜」さんのことをあえて書かせてもらったのは、例の「日本学術会議の新会員任命拒否」騒動が当時と似ているからだ。
 東大の宇野重規教授(政治思想史)、東大大学院の加藤陽子教授(日本近現代史)ら6人の任命を拒否した理由に関して、菅義偉首相は「会員の45%が、いわゆる旧帝国大学に所属するなど偏りが見られる」と答弁したが、どうやら「任命拒否」の狙いは「共産党寄りの大学」を粛正する運動の始まりなのか。

 誰とは言わないが、官邸に間違いなく「令和の蓑田胸喜」がいる。