2022年5月11日水曜日

11- プーチン演説への少数派の意見 - 神秘主義と焦土作戦の脈絡(世に倦む日々)

 ウクライナを巡る情勢の中で分かったことは、NATOという組織もまた米国が牛耳っているという事実でした。これまで英・独・仏などはには世界の近代化を牽引してきた先進国というイメージを持っていましたが、日本の米国への服従ほど露骨ではないにしても、彼らもまた米国には頭が上がらない関係のようです。しかし世界全体は決してそうではないわけなので、いわば西側(EUと日本など)に特化した傾向というべきでしょう。
 いま西側ではプーチンを部分的にも評価するなどということは許されない雰囲気にありますが、世に倦む日々氏が敢えて、5月9日のプーチン演説(の一部)を評価する記事を出しました。
 彼は、プーチンが「ソ連崩壊後に米国が、自分たちこそが卓越している(要旨)と言い始めたことが、米国の衛星国にも屈辱を与えた」と述べた部分を取り上げて、プーチンは「最も屈辱を与えられた国が日本」であったと考えたのだろうとしています。
 2000年当時、日本はまだGDPが相対的に大きく国力もありました。その日本が自ら米国の飼い犬のようになり、開発力と生産力のない二流国に落ちぶれて行くのを見て、プーチンは何事かを感じたのに違いない。アメリカと張り合う位置にまで強大化した中国と較べて、日本の低迷と凋落に思いを馳せ、その内実と過程を分析し、アメリカの手口の恐ろしさに感じ入ったのだろう」と述べています
 そんな境遇に安住している日本などの計り知れない恐怖感を、プーチンは米国に抱いたのだろうという見方をしています。正義とはおよそ無関係な米国に対してです。
 プーチンの非は非としても、その語るところに聞くべきものはあるということです。
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5月9日プーチン演説への少数派の意見 - 神秘主義と焦土作戦の脈絡
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5月9日のプーチン演説の全文がNHKの記事に載っている。その中で個人的に注目すべき一節があったので、その部分を抜粋して感想と意見を述べたい。

アメリカ合衆国は、特にソビエト崩壊後、自分たちは特別だと言い始めた。その結果、全世界のみならず、何も気付かないふりをして従順に従わざるを得なかった衛星国にも、屈辱を与えた。しかし、われわれは違う。ロシアはそのような国ではない。

われわれは、祖国への愛、信仰と伝統的価値観、先祖代々の慣習、すべての民族と文化への敬意を決して捨てない。欧米は、この千年来の価値観を捨て去ろうとしているようだ。この道徳的な劣化が、第2次世界大戦の歴史を冷笑的に改ざんし、ロシア嫌悪症をあおり(以下略)。

プライムニュースで演説が放送され、字幕が付されているのを見たが、NHKの内容と少し異なり、ヨリ正確な翻訳だった記憶がある。が、残念ながら映像ソースがなく確認できない。

「衛星国にも屈辱を与えた」という部分。NHKの訳を一読しただけだと何のことだか意味が分からないが、プライムニュースの字幕では、ピンと来る妙訳の表現というか、プーチンの認識するところの、冷戦後のアメリカと同盟国の関係を端的に示唆していて興味深かった。私が理解した意味は、それまでは対等だったアメリカと同盟国の関係が、アメリカの優越性が突出し、主人と属国のようになり、属国が屈辱を受けながら、属国の側が敢えてその隷従関係に気づかないフリをしているという図式の告発である。

真実の暴露であり、本質的な批判だ。フランスなど欧州の知識人がこれをどう聞き、どう思ったかは不明だが、私の解釈では、プーチンがここで象徴的に意識し、原稿校了時に念頭に描いた具体例は、おそらくアメリカと日本の関係ではないかと思われる。私の想像力は、このプーチンの衛星国批判に内在し、おのずと日本を顧みて共感する方向に向かう。プーチンの発言の趣旨がこのとおりであったのなら、この一節についてはアグリー⇒賛成だ。プーチンが日米関係の真実を代弁している。われわれは、アメリカから屈辱を受けている。

以下、プーチンに内在してこの問題を掘り下げたいが、その試みは、現在西側で悪魔化されているプーチンを客観的に擁護する議論として判別される可能性があり、今の世論状況と世間常識を考えると、個人的にリスクの大きな無謀な立論となることを恐れる。右翼や左翼から親露派と誹謗中傷され、唾を吐かれ、石を投げられるだろうと余波を逡巡する。が、臆せず勇気を出して論じよう。プーチン個人が、普通に言うところの親日家である事実については、その評価に異論はないだろう。プーチンは柔道家で、国際柔道連盟の名誉会長に就いていた。

柔道や空手や剣道で高段位の達人になるほどの外国人は、基本的に親日の傾向と心情が強く、日本の文化や伝統や歴史について積極的に学び、吸収し、自己の人格や教養の一部としている者が多い。日本を理想化し、日本の武道と思想を偶像崇拝している者が少なくない。武道は日本の大事なソフトパワーである。プーチンが柔道を始めたのは14歳のときで、小柄で体力の虚弱な不良少年が、喧嘩で強い相手に勝ちたい一心で始めたのに違いない。「柔よく剛を制す」。他の男の子たちと同じく、この理念に惹かれ憧れたのだろう。

負けず嫌いの少年プーチンは18歳で黒帯となる。14歳から18歳の猛稽古。柔道はプーチンの人格形成に決定的に大きな影響を与えている。だから必ず講道館に来る。親日家のプーチンの思い描く日本は、柔よく剛を制して日露戦争に勝った日本であり、柔よく剛を制しきれず、原爆を落とされて日米戦争に負けた日本であり、東洋の独自の文化を持った尊敬と共感の対象となる国である。そうした視線で日本を見ていたのは間違いない。そのプーチンの目から見て、冷戦後、特に2000年代からの日本の萎縮没落は信じられない変化と病態なのだ。

プーチンは69歳だから、青年期から壮年期の日本は奇跡の高度成長を遂げて、製造業と経済で世界を席巻した経済大国である。その日本の成功と繁栄は、武道に体現される日本人の精神性に由来し、独自で独立不羈のものと映る。その日本が、自らアメリカに従属し、飼い犬のようになり、強みを失い、開発力と生産力のない二流国に落ちぶれて行くのを見て、プーチンは何事かを感じたのに違いない。アメリカと張り合う位置にまで強大化した中国と較べて、日本の低迷と凋落に思いを馳せ、その内実と過程を分析し、アメリカの手口の恐ろしさに感じ入ったのだろう

パックス・アメリカーナに服属した衛星国として日本は典型的で奇形的なモデルだが、プーチンの目からは欧州諸国も同様で、サルコジやマクロンには失望していたに違いない。メルケルだけが見所のある欧州の指導者だっただろう。フランス語もどんどん変容し、発音が英語化した。EUの統合拡大は、ヨーロッパ独自の経済と文化の繁栄ではなく、欧州のアメリカ化であり、アメリカ支配の欧州の拡大であり、アメリカ資本主義の別天地の繁栄に映ったはずだ。欧州らしさを喪失し、第二アメリカたるEUに変貌した、底の浅い英語現代文化のヨーロッパ。

プーチンとロシア人の目には、それは欧州の自滅とロシアの危機に映るのだ。事は単に、NATOという集団的自衛権の軍事同盟によって敵指定され、封じ込めを受けているという安全保障上の危機だけではない。まさしく、ハンティントンの『文明の衝突』的な構図で、西欧とは異質の文化文明で近現代を生きてきたロシアが、その生き方を否定される存亡の危機なのだ。アメリカは、リベラル・デモクラシーという形での、アメリカの政治思想しか普遍的と認めないのであり、嘗てソ連が共産主義を東欧諸国に押しつけて子分にしたように、他を属国化するのである。

プーチンやキリルの危機感と問題意識は、決してロシアの一部のものではなく、政権中枢だけの発想ではない。高齢者だけの想念と信条でもない。私と同世代のイゴール・パナリンという政治学者がいるが、プーチン以上の過激な言説を露骨に主張している。彼らは「文明の衝突」の圧迫に焦燥し、ロシアの精神的独自性を強調する文化運動を興し、対米戦略のカウンターを策し、ナショナリズムを燃え上がらせている。プーチンの演説にある「道徳的な劣化」という表現も、そこに繋がる意味があり - 報道1930で紹介していたが - 要するにLGBT主義などポリコレ⇒政治的正当性思想への反発が中身だ。

私はロシア思想史には無知同然の素人だけれど、森安達也がどこかで、ロシア正教の神秘主義的特徴について語っていたのを思い出す。話が脱線して恐縮だが、例えば、コミュニストが歌う『インターナショナル』は、オリジナルのフランス版とソビエト・ロシア版ではかなり趣が違っている。フランス版原曲はシャンソンのように軽快な響きであるのに対し、ソビエト版は荘重過飾で重々しく交響曲的に設えている。それから、マルクス主義の「全般的危機」論も、いかにもロシア的な宇宙崩壊的なセオリーで、聖書の黙示録を連想させる。マルクスではなくソ連共産党発案の性格が滲み出ている。

京産大の森哲郎が、ベルジャーエフの宗教哲学を講義したレジュメがネットにあり、ロシアの思想には「極端から極端へと動く極端主義の特徴がある」と説明している。そして、1812年のナポレオンの侵攻時に「ナポレオンに占領されるくらいならば、自分たちの手で焼いてしまえ」とモスクワに火を放った故事を挙げている。森哲郎の講義は6年前のものだが、予言的であり、蒼然として胸騒ぎを覚えるのは私だけではないだろう。ニューズウィークの4/28の記事を読むと、ロシア国営テレビの番組でジャーナリストが、核戦争に発展する話題になったとき、「どうせいつかは死ぬのだから」と発言している。

戦争の行方への見方として、第三次世界大戦・核戦争が必至というリアリティの感覚は、ロシア国内でじわじわと影を濃くしているようだ。この感覚は決して一部のプーチン政権周囲だけのものではない。ロシアはすでに「窮鼠猫を噛む」段階ではなく、「肉を切らせて骨を断つ」段階から進んで、「毒を食らわば皿までも」「死なばもろとも」の追い詰められた心理にある。1945年の日本の「一億玉砕」の狂気に近づいている。何と言っても、ロシア軍のパフォーマンスは悪く、戦況は不利で、通常戦力ではNATOに歯が立たず、ロシアには核のカードしかないのだから。ロシア人の誰もが悟り始めている。敗北か核戦争か二者択一をせざるを得ない局面が来ると。

話を戻して、プーチンが演説で言う欧米主流思想への抵抗について、われわれはどう考えるべきだろう。欧米が世界の生き方を一元化する文化侵略への反発について、どう受け止めるべきか。そこには二つのイデオロギー基軸がある。一つは自由と民主主義の普遍的価値観、いわゆるリベラル・デモクラシーの政治思想であり、もう一つは国連がSDGsで正統化して布教中の、ジェンダーやLGBT多様性を謳うポリコレ教義の現代思想である。私自身は、前者に対しても後者に対しても懐疑的で、消極的で、ずっと批判的な言論を続けてきた。その依拠する視座と着眼は、例えば東南アジアや西アジアの市民だったらどうだろうとか、南米やアフリカの市民だったらどうだろうという問い返しである。

ロシアを国連人権委から追放する決議案に対して反対棄権した諸国の人々の意識は、おそらく私に近く、二つの基軸に対して冷ややかな視線だろう。そのイデオロギー性(侵略性)を看破し、欧米グローバル資本主義を正当化し地球ローラー化するための二本の柱だと警戒しているはずだ。一方、先進国の人間、日本の人間はどうだろう。例えば、社会主義の思想は、この二つの基軸に対してどう対応するだろうか。また例えば、日本の戦後民主主義の思想は、二つの基軸に対してどうだろうか。ロシアは独立国だとプーチンが言う意味は、二つの基軸で簡単に攻め落とされないぞという意味であり、ロシアには正教を伝統とする文化と価値観があるのだという自己主張の意味である。

私は、日本の左翼リベラルが、例えば内田樹が、まるで二つの基軸の代表的推進者のようにそこにコミットし、マスコミ(大本営)論者と異口同音にプーチン叩きをする態度に同調できない。同じ列に入れない。西側の戦争プロパガンダに賛同する一人にはなれない。内田樹と田中宇の中間に立つ。とまれ、いずれにせよ、5月9日のプーチン演説は、西側のアメリカ同盟国に対して、自らの独自性と価値観を失い、属国化しているのではないかと批判している。したがって、大本営マスコミが解説するように、決して、自国民だけに向かってメッセージを発しているわけではない。オルバンのように、そのメッセージが響く欧州内部の人間もいるのだ。

最後に、何度も念を押すが、だからと言って、国連憲章違反の侵略戦争が正当化できるわけではない。この点を何度も執拗に確かめてくる者がいるので、何度でも念を押して断言しておく