2022年5月12日木曜日

米軍沖縄基地が戦争犯罪の拠点に ベトナム戦争を現地で取材した石川文洋さん

 15日で沖縄復帰50年になります。

 米政府は1964年8月4日、米駆逐艦がトンキン湾で北ベトナムから2発の魚雷攻撃を受けたという虚偽の発表をおこない、「自衛権の行使」を口実にした猛烈な北爆を皮切りに、ベトナム侵略戦争を始めました。
 ベトナム人民の不屈の反撃によって1975年に米軍は敗退しましたが、米軍が撒いた枯れ葉剤の後遺症は今も人々を苦しめているということです。
 しんぶん赤旗が、ベトナム戦争を最前線で取材してきた写真家・石川文洋さんに、米軍の戦争犯罪の実態や、沖縄の米軍基地がベトナム戦争には欠かすことが出来なかったという関係について聞きました。
           ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
【沖縄復帰50年】
「戦争犯罪」の拠点に ベトナム戦争最前線で取材 石川文洋さんに聞く
                       しんぶん赤旗 2022年5月11日
 「沖縄なくしてベトナム戦争を続けることはできない」(196512月、シャープ米太平洋軍司令官当時)-。米軍占領下の沖縄は、ベトナム侵略戦争(75年終結)最大の出撃・兵たん拠点でした。200万人もの民間人が 殺されたこの戦争は、ロシアのウクライナ侵略と同様の「戦争犯罪」です。沖縄の本土復帰50年を前に、最前線で取材してきた写真家・石川文洋さんに聞きました。 (竹下岳)

    いしかわ・ぷんよう
1938年、沖縄県首里市(現那覇市首里)出身。65年々68年はサイゴンに住み、南ベ
トナム軍、米軍に従軍してベトナム戦争を取材 69年、朝日新聞社に入社。84年か
らフリー。写真集・著書に『戦場カメラマン』『写真記録ベトナム戦争J『フォト・ス
トーリー沖縄の70年』『ベトナム戦争と私』など多数。

 ウクライナでのロシア軍による民間人虐殺が世界に衝撃を与えましたが、国家総動員の現代戦では、民間人を傷つけて相手の戦意を喪失させるのは軍事戦略の基本です。日本も中国で、民間人への無差,別攻撃をやぅていたわけですから。
バイデン大統領はプーチン大統領を「戦争犯罪人」と呼ぴました。その通りです。でも、その定義に従えば、ベトナム戦争を拡大させてきたジョンソン大統領もニクソン大統領も「戦争犯罪人」になります。ところが、彼らは一度も犯罪者として追及されたことはありません。

村焼く戦闘機
 私は南ベトナムで沖縄から移動した米第3海兵師団、米本土からきた陸軍第1騎兵師団などに従軍取材しました。66年には、ビンディン省の「ベトコン(南ベトナム解放民族戦線)村」侵攻を取材しました。2機の戦闘機が爆弾を次々と投下し、ナパーム弾で村を燃やし、さらに攻撃ヘリが1分間で6000回発射できる銃で機銃掃射する・・・。米軍は「ベトコンー個大隊がいる」と言っていましたが、実際は民間人だけでした。抵抗できない住民を包囲し、上空から機銃掃射し、爆弾で焼き尽くすー。これはテロです。
 米軍はこうした民間人への殺戮を何年も続け、その中で虐殺やレイプなど、数多くの犯罪行為も明らかになってきました。
 枯れ葉剤の被害も深刻です。ベトナムで枯れ葉剤の被害者を取材してきましたが、すでに第4世代、ひ孫の代まで遺伝し、障害が出ています。これを戦争犯罪といわずして、なんというのでしょうか

根底には差別
 一人ひとりの米兵は、陽気で気さくな人たちです。しかし、軍隊という組織の中で、平気で人を殺せるようになる。その根底に、差別があると感じました。米兵は、ベトナム人をグーク(東洋人)と呼び、目がつり上がって黄色い肌で、人間ではない、動物と同じだとたたき込まれていました。旧日本も、徹底的に中国人を蔑視していました。ロシア兵も、抵抗するウクライナ人は「ナチスだ」と洗脳されているのでしょう。殺戮は差別から生まれるのです。
 考えないといけないのは、ベトナム戦争が沖繩なしにはたたかえなかったということです。
 私は、生まれは沖縄ですが、千葉県船橋市で育ち、1957年、久しぶりに那覇に戻った時のことです。那覇軍港にものすごい数の米兵がいました当時は南ベトナムに米国のかいらい政権ができたころで、南ベトナム軍の武器はほぼ100%米軍からの供与でした。ミサイルから日用品まで沖縄を経由して連ぱれていたのです。
 嘉手納基地からは、B52戦略爆撃機が連日、ベトナムに飛び立ちました。私はB52の出撃も、爆撃で破壊されたベトナムの街も両方見てきました。さらに、沖縄からは海兵隊陸軍の空挺師団そして特殊部隊グリーンベレーが出撃しました。宜野座村にあった「キャンプ・ハーディー」という基地に「ベトコン村」を造り、侵攻作戦の訓練を行っている様子も取材しました。

命つなげなかった何百万人もの人。断ち切ったのは米軍

侵略の拠点に
 47年に米国が「トルーマン・ドクトリン」で旧ソ連などとの対決を宣言して、沖縄は対共産主義の「太平洋の要石」として強化されてきました。ベトナムヘの軍事介入も共産主義の拡大を防ぐためというものでした。
 ベトナム戦争が終われば湾岸戦争、アフガニスタン、イラク、今度は台湾有事です。米軍は沖縄本島だけでなく、南西諸島にも分散して臨時基地を造ろうとしています。台湾有事で日本が集団的自衛権を行使して米国を支援すれば、県民の4に1人が死んだ沖縄戦の地獄の再来です
 「中国や北範鮮のことを考えれば、沖縄の米軍基地が必要だ」という人には、沖縄は本土を守るために犠牲になってもいいのか、と問いたい。沖縄戦も、旧日本車が本土決戦に備えて基地を置いたから起こったのです。これ以上、沖縄に基地は要りません。
 名護市辺野古の米軍新基地はオスプレイの拠点になります。私がベトナムで兵士と一緒に乗っていたUHヘリは7人乗りでしたが、オスプレイは24乗り、飛行速度も航続距離もはるかに優れている。それだけ殺傷能力が高いわけです。将来、米軍が再びアジアで侵略に戦争をやれば、そのための基地になるのです。

沖縄から出撃 米軍が民間人大量殺戮

「命どぅ宝」(ぬちどぅたから)
 沖繩には「命どぅ宝」(命こそ宝)という言葉があります。ウクライナの人たちもそうですが、家はまた建てることができるけど、命は失ったら、戻りません
 サイパンでの集団自決を生き残った石川静子さんという人がいます。弟と妹は母親に殺されたと告白しました。静子さんは「あなたは長女だから」と生かされた。今はお孫さんもいます。生きたから、命をつなぐことができたのです。ベトナムには命をつなぐことができなかった何百万人もの人がいた。命を絶ち切ったのが米軍でした。沖縄の基地問題を考える上で、忘れてはなりません。
 「上官が、『お前たちは何をやりたいのか』と聞いたとき、答えは決まっていました。『キル(殺せ)! キル キル』と叫ぶことでした」。米海兵隊員だった平和運動家の故アレン・ネルソンさんは1966年、ベトナム戦争に従事する前、沖縄のキャンプ・ハンセンで受けた訓練について、しばしばこう語っていました。
 ベトナム戦争が本格的な「アメリカの侵略戦争」になったのは64年8月の「トンキン湾事件」(別項)以降です。65年3月、沖縄から第9海兵遠征旅団が南ベトナム・ダナンに上陸。5月には第3海兵水陸両用軍(ⅢMAF)に再編成され、沖縄の第3海兵師団が現地で司令部を構成しました。

女性や子ども
 同師団は5月6日、「索敵撃滅」(サーチ・アンド・デストロイ)作戦を開始。密林や農村に暦んでいる一「ベトコン」をあぶり出し、即座にせん滅する戦法です。しかし、殺害された「敵」の圧倒的多数は女性や子どもを含む民間人でした。女性に対する無数のレイブも発生していました。これらは「戦争犯罪」そのものです
 ⅢMAF司令官は66年11月、「海兵隊員がベトナム民間人を殺害したとされる重大事件が多発している」と認め、上級司令部に極秘報告(みすず書房『動くものはすべて殺せ』)。ネルソンさんも「大勢の女性や子どもたちを・・・いともたやすく、無感動に、何のためらいもなく」殺したと告白しいます。
 さらに65年7月、嘉手納基地を発進したB52戦略爆撃機30機が、南ベトナムのサイゴン東南方を空爆。B52は「台風避難」を□実に、68年2月から嘉手納に常駐しました。
 B52は嘉手納、グアム、タイのウタパオから出撃し、65年6月から73年8月までに、第2次世界大戦全体での米軍の投下爆弾総量のほぽ3倍に相当する爆弾を投下。村や本田が破壊され、国土が焼き尽くされました。B52の拠点だった沖縄はベトナム人にとって「悪魔の島」でした。
 68年11月、B52が離陸に失敗し、大爆発します。核兵器も貯蔵されていた知花弾薬庫の目と鼻の先でした。それでも米軍は配備継続を強行しましたが、住民の反対の声にされ、70年10月、撤去に追い込まれました。

復帰後も出撃
 しかし、沖縄が本土復帰した72年5月15日以降、B52は再び嘉手納に飛来。復帰後もベトナムヘの出撃拠点とされたのです。沖縄返還に関する米政府の最終決定(国家安全保障決定覚書第13号=69年5月28日)は、返還にあたって譲れない条件として,「朝鮮、台湾、ベトナムに関する基地の最大限の自由使用」を明記しています。
 本土復帰後も、沖縄に膨大な基地が残された最大の理由は、日本の防衛とは無縁の侵略・干渉戦争への出撃拠点とするためでした。 (竹下岳)

トンキン湾事件
 米政府は1964年8月4日、米駆逐艦がトンキン湾で北ベトナムから2発の魚雷攻撃を受けたと発表。「自衛権の行使」だとして北爆に踏み切る。しかし71年、暴露れた機密文(ペンタゴン・ペーパーズ)により、攻撃を受けたとされる駆逐艦は64年2月からトンキシ湾で秘密作戦を行っていたことが明らかになり、当時のマクナマラ国防長官も「回顧録」で、2発の魚雷攻撃はなかったと告白。「でっち上げ」が確定している。