2022年5月5日木曜日

平和憲法を守ろう 信念を曲げず 先人の決意と覚悟を尊ぼう(世に倦む日々)

 毎年憲法記念日に記事を出している世に倦む日々氏が、「平和憲法を守ろう  信念を曲げず 先人の決意と覚悟を尊ぼう」とする記事を出しました。

 同氏は「共産党の志位和夫氏が、ロシアに9条があったら歯止めになったはずだと言っていることに素朴に賛成してよい」として、「ロシアも、ウクライナも、憲法に9条の原則の明記があれば、戦争になる前に、国民が9条守れと言い、議論になり、戦争以外の方法で問題解決できないかという方向に政府を動機づけただろう」と肯定する一方で、
 現在の日本は、すでにとっくに憲法9条が改訂された後の現実になっている。日本国憲法は生きておらず、殺されてしまっている。死文同然になった憲法があり、それが明文で書き変えられる間際にある」との悲観的な見解を表明したうえで、
 「だが、9条は生き続けるだろうと思う。第三次世界大戦を経た世界の人々が、9条平和主義を自国の憲法に導入するだろう。日本人ではなく、別の国の人々が、この理想の追求を始め、その地平を広げて行くに違いない。武力放棄の安全保障を虚妄だとせず、夢想だとせず、それこそ真の平和実現の理念だと認め、9条を選択することになるだろう。 9条は不滅であり、普遍的価値観となる」と述べています。

 また、「リアリズムなら私も負けない」として、「中国との戦争は5年以内に起こり、10年後には終わっていると直観する。 アメリカは必ず台湾を口実にして戦争を始め、日本を中国との全面戦争に仕向ける。 今、日本の9割くらいが、時間軸はともかく、中国との戦争は必至で確実と想定し、ほとんど前提しているのではないか」とも述べています。
 もしもそれが実現してしまうなら、日本は降り注ぐ砲弾・爆弾で火の海になりますが、それはある意味で9条を軽んじたが故の「業火」かも知れません。

 とても全体を要約することは出来ませんが、世に倦む日々氏の「平和憲法の理念は永久に滅びることのない真理だ」という信念は伝わってきます。
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平和憲法を守ろう - 信念を曲げず、先人の決意と覚悟を尊ぼう
                          世に倦む日々 2022-05-04
昨日(5/3)は、ブログの過去ログを追って憲法記念日に書いた記事を読み直した。毎年、必ず何か雑文を書き綴っている。今年はウクライナでの戦争があり、その悲惨な実態を見て、あらためて9条の価値と意義を噛みしめた。戦争で命を落とすなどバカらしい。兵隊になって人を殺すとか、逆に殺されるとか、何でそんなことをしなくてはいけないのか。そんな目に遭わなくてはいけないのか。これほど無意味なことはなく、人のやることとして悲しく辛く愚かなことはない。

戦争は絶対悪だと確信する。国家の主権や正義のために死ぬなどあり得ない。たぶん、年をとり、先の人生が短くなったから、余計にその気持ちが強くなるのだろう。志位和夫が、ロシアに9条があったら歯止めになったはずだと言っている。改憲派の罵倒を浴びているが、素朴にその意見に賛成してよい。ロシアも、ウクライナも、憲法に9条の原則の明記があれば、戦争になる前に、国民が9条守れと言い、議論になり、戦争以外の方法で問題解決できないかという方向に政府を動機づけただろう。

今年のマスコミの世論調査では、例年になく憲法改正に賛成の声が多く、9条改憲に同意する数字が高くなっている。ウクライナ戦争の報道で、改憲派の論者ばかりが登場して、武力を持ってないと攻められるとか、平和を守るために軍事力が必要だとか、その種の宣伝扇動を喚きまくったものだから、必然的にこの結果に導かれた。政治家だけでなく、松原耕二のようなマスコミを仕切る人間が9条改憲に舵を切る論調と態度になっていて、「放送の中立」の座標軸を改憲派に合わせている。影響が出ないわけがない

その状況を見て焦燥する気分にならないわけではないが、一方の感覚として、世論がどうなろうが自分の護憲派の立場は不動だという達観のようなものがある。以前とは違う、雲烟過眼物事に深く執着しないことの醒めた心境に向かう。その原因と正体は何かというと、要するに、残りの人生の時間意識であり、健康寿命の刻限まであと8年ほどだという自覚と諦念だ。じたばたしても10年もない。あと8年の健康寿命なのに、何で今さら護憲派の立ち位置を変える必要があるだろう。世間は勝手に動くがいい。自分は少数派に踏み止まり、戦後民主主義の土に還る。

そういう気分があり、マスコミが作って撒く世論調査の数字に動揺することがない。甲羅がぶ厚くなった。思えば、20年近く、ずっと9条護憲の意義をブログで訴えてきた。浅学非才の頭を絞って、9条エバンジェリズム⇒伝道の言葉を探し、納得でき感動できる言葉を探し、論理と表現を捏ねる試行錯誤を続けてきた。丸山真男や加藤周一から言葉を探し、その精神と意志を受け継ごうとしてきた。改憲派の怒濤に抵抗し、特に、左翼リベラルが改憲に流れる動きに警戒を向け、裏切りの言説に切り込む抗論を挑んできた。

残念ながら、思うような政治的方向に至らず、努力の割に結果に報われていない。非力の故、徒労となった。だが、残りあと10年、長くて20年なのだから、同じように言葉を探し、自分なりの9条護憲、9条賛歌の言語を開発、模索する旅を続けようと思う。道を曲げず、真っすぐ歩こう。古賀誠が「平和憲法があることは大きな力であるし、先人が残した決意と覚悟なんです」と言っている。同感だ。護憲派で踏ん張るということは、その「先人」たちの「決意と覚悟」の輪に参加するということである。

古賀誠は「理屈じゃない。戦争はやってはいけない」とも言っている。そのとおりだと思う。9条を守ることは理屈ではない。信念だ。9条にコミットしてきた先人に連なり、先人に感謝することである。昨日(5/3)のNHKのニュースで、石川健治が、改憲に反対する憲法学者の代表としてコメントし、立憲主義から9条を基礎づける新理論の講釈を垂れていた。聞いたことのない学説が披露され、9条は国家の安全保障の原則を立てているわけではないなどと嘯いていた。学者が商売で理屈をひねっているだけに聞こえる。議論に説得力を感じない。

結局、この国は、長い間、(1)9条の非武装中立の平和主義と、(2)日米安全保障条約の立場と、二つの間で葛藤相克を続けてきた。二つの矛盾する国是を持ち、不断に鬩ぎ合ってきたのである。国の平和を守るためには何より対話の外交が重要で、友好と協調と互恵の関係構築だとする思想、否、平和を守るためには軍事力こそ必要で、武力優勢な国との同盟強化こそが得策だとする思想と、二つが刺を立てて衝突してきたのだ。後者は常に我こそがリアリズムだと威張り、前者をお花畑の空想的理想主義だと罵ってきた。

さて、実は、リアリズムなら私も負けない。中国との戦争は5年以内に起こり、10年後には終わっていると直観する。それくらいの時間軸で予想している。9条改憲のタイミングがどうあれ、アメリカは必ず台湾を口実にして戦争を始め、日本を中国との全面戦争に仕向ける。戦争が回避できれば、それは神の奇跡だ。今、日本の9割くらいが、時間軸はともかく、中国との戦争は必至で確実と想定し、ほとんど前提しているのではないか。マスコミの論調はそうであり、抗う声はなく、日本人全体がそのコンコース⇒広い道を歩いている。列の進行から逃げられない。

この将来の災難については、残念ながら、平均寿命や健康寿命よりも先に来る。中国との戦争を実人生で経験せざるを得ないと覚悟している。戦火に巻き込まれて命を失うか、見終わった老人として果てるか、いずれかだろうと観念している。結局のところ、日本は9条を持っていたけれど、最後は戦争してしまいました、平和を守ることはできませんでしたと、そういう結論になるだろうと悲観する。しかし、それは9条の責任ではない。平和憲法に問題があったわけではない。日本人が9条を守ろうとせず、9条の原則で国家の外交と安全保障の政策を方向づけなかった所為だ。逸脱したからだ。

現在の日本は、すでにとっくに憲法9条が改訂された後の現実になっている。日本国憲法は生きておらず、殺されてしまっている。死文同然になった憲法があり、それが明文で書き変えられる間際にある。教育基本法や労働基準法の外濠が埋められた後、遂に本丸が炎上・崩壊する段階に来た。その最期は、上皇や上皇后の日本国の終焉でもある。最早、地上に日本人らしい日本人はおらず、司馬遼太郎が28年前に予言したとおりの、蛆虫が這う列島の地上になった。平和憲法は日本国と共に劇的な最期を遂げる。戦争によって燃え果てる。そのようにパセティック⇒哀れ・悲観的に予想する。

だが、9条は生き続けるだろうと思う。第三次世界大戦を経た世界の人々が、9条平和主義を自国の憲法に導入するだろう。日本人ではなく、別の国の人々が、この理想の追求を始め、その地平を広げて行くに違いない。武力放棄の安全保障を虚妄だとせず、夢想だとせず、それこそ真の平和実現の理念だと認め、9条を選択することになるだろう。100年、200年と、9条の理想にチャレンジする人類史を歩むだろう。第三次世界大戦後に主役になる国々が、9条を受け継いで実践に出るだろう。9条は不滅であり、普遍的価値観となる。

そう展望する根拠の一つは、核兵器禁止条約に86の国が署名、60の国が批准している事実である。核兵器と通常兵器の差は、いわば、夜の歌舞伎町を歩く市民にとっての拳銃とナイフの脅威の差だと喩えていいだろう。大量破壊と少量破壊の差だ。殺傷力の差だ。どちらも兵器(凶器)である。すなわち、核兵器廃絶の向こうに通常兵器廃絶がある。核兵器禁止条約には憲法9条の契機が伏在している。要するに、ここにも9条をめぐる本質的な思想対立があり、各国は、自国の平和実現のために、核兵器禁止条約を全面化するか、それとも核武装するか(或いは核の傘に入るか)の選択が問われるのである。

人類は理想を求めて進む。単線的にではなく、逆戻りと屈折と停滞の紆余曲折を経ながら、時間をかけ、世代を超えて理想に挑戦する。人間は不完全な生きものだから、挑戦はやがて失敗するし、エートス⇒出発点・特性を失い、途中で腐って挫折してしまう。常にそうだ。だが、理想は生き続ける。護憲派の自分にとって、この25年は不本意と切歯憤懣の堆積だったけれど、少年期青年期の平和と繁栄は9条の賜物だと認識し、古賀誠が言う「決意と覚悟」の「先人」のおかげだと感謝している。憲法記念日は、自己内自己内対話・丸山眞男で憲法感謝の日みたいになっている。