作家で、東京大空襲・戦災資料センター初代館長などを務めた早乙女勝元さんが10日、老衰のため埼玉県内の病院で死去しました(90歳)。
早乙女さんは、1945年3月の東京大空襲を12歳で経験し、10代のときに工場労働をしながら執筆した『下町の故郷』で作家デビューしました。
作家としては日本ジャーナリスト会議奨励賞、菊池寛賞、日本アカデミー賞特別賞などを受賞したほか、戦争の記憶を語り継ぐために「東京大空襲・戦災資料センター」の開設に力を尽くして初代館長に就任(17年間務めました)したほか、「全国空襲被害者連絡協議会」の共同代表も務めました。
映画監督の山田洋治氏とも親しく、監督は、早乙女さんに東京・柴又の町を案内してもらったことをきっかけに柴又にひかれて、映画「男はつらいよ」の舞台を柴又に設定したということです。
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早乙女勝元さん死去 作家、東京大空襲を記録
しんぶん赤旗 2022年5月12日
作家で、東京大空襲・戦災資料センター初代館長を務めた早乙女勝元(さおとめ・かつもと)さんが10日、老衰のため埼玉県内の病院で死去しました。90歳。東京都出身。葬儀の日程は未定。
45年3月の東京大空襲を12歳で経験。10代のときに、工場労働をしながら執筆した『下町の故郷』で作家デビュー。
空襲体験をもとに執筆した『東京大空襲』で日本ジャーナリスト会議奨励賞を受賞。作家活動のかたわら70年に「東京空襲を記録する会」を結成し、同会の『東京大空襲・戦災誌』は74年に菊池寛賞を受賞しました。
02年、民間の募金を基に開設した「東京大空襲・戦災資料センター」初代館長。全国空襲被害者連絡協議会の共同代表も務めました。
『生きることと学ぶこと』『戦争を語りつぐ-女たちの証言』など著書多数。『戦争と青春』は映画化もされ、日本アカデミー賞特別賞を受賞。
国政選挙で日本共産党への期待を表明。本紙や日曜版にたぴたぴ登場し、平和への思いを語りました。
作家・早乙女勝元さんが死去。空襲の経験通し伝えた、戦争と平和
BuzzFeed Japan(YAHOO!ニュース 2022/5/11
東京大空襲を12歳の時に生き延びた体験を元に、戦争と平和について伝え続けた作家・早乙女勝元さんが5月10日、死去した。共同通信などが報じた。90歳だった。東京都出身。1945年3月10日未明、当時の向島区寺島町(現・墨田区)で東京大空襲におそわれた。10万人が犠牲になった空襲を生き延びた早乙女さんは、「知っているなら伝えよう。知らないなら学ぼう」と呼びかけ、昭和、平成、令和の三つの時代で、戦争の記憶を語り、本や絵本を通して平和について伝えてきた。【 BuzzFeed Japan / 冨田すみれ子 】
『東京大空襲』『戦争を語り継ぐー女たちの証言』『平和に生きるー私の原点・東京大空襲』などの著書を上梓。
1970年に「東京空襲を記録する会」をつくり、『東京大空襲・戦災誌』が菊池寛賞を受賞した。
2002年に設立された東京大空襲・戦災資料センター(東京都江東区北砂)では、17年間にわたり初代館長を務めた。
「どう語り継ぎ、この大きな山をどう乗り越えるのかが課題」
東京大空襲・戦災資料センターでは、3月の東京大空襲の日や8月の終戦記念日などに合わせ、自身が体験した東京大空襲についても語っていた。
センターでは、2019年の終戦記念日にも小・中学生らを対象に、早乙女さんなど東京大空襲経験者が戦時中の経験を語るイベントを開いた。
この時、BuzzFeed Newsの取材に「戦争の体験者もどんどんとこの世を去って行き、将来的には体験者もいなくなる。どう語り継ぎ、この大きな山をどう乗り越えるのかが課題です」と話していた。
終戦記念日のイベントでは、子どもたちに対し、こう語った。
「終戦を迎えた8月15日の夜、初めて電球に覆いをつけずに過ごすことができた。その時、平和って明るいんだ。眩しいんだ、と思ったんですね。今夜から防空壕に入る心配もなく、朝を迎えることができるんだと思うと、体中が震えるほど感動しました」
「学校では、戦争に勝つか一億玉砕だと教えられていたから、負けても生き残れるということを初めて知った。それは私にとって衝撃でした」
「なぜ大人たちはあの戦争に反対できなかったのだろうか。そのことに関心を持ち、本を読んだり学びました。眩しいと思った平和をどのようにして語り継げるか。平和に向かって役に立つ人間になりたいと思いました」
「もしも資料がなかったら、きっと大空襲もなかったことにされる」
早乙女さんが館長を務めた東京大空襲・戦災資料センターでは、東京大空襲についての資料、当時の写真、当時使われていた日用品などが展示されている。
同センターは2015年、早乙女さんが東京大空襲や自身の経験について説明する動画を企画・製作。
その中で早乙女さんは、センターの存在意義についてこう語っている。
「東京大空襲を伝える、学ぶ、知る場所というのは、東京で一箇所しかない」
「もしも資料がなかったら、きっと大空襲もなかったことにされる。単なる戦争だけの継承ではない。人間として生きる基本的なものの形ではないか。ごく当たり前な日常が、毎日毎日、保障されることが平和」
作家 早乙女勝元さん死去 90歳 戦争の悲惨さなど伝え続ける
NHK NEWS WEB 2022年5月11日
東京大空襲での体験を基に、戦争の悲惨さと平和の大切さを伝え続けた作家の早乙女勝元さんが10日、老衰のため、埼玉県内の病院で亡くなりました。90歳でした。
早乙女さんは東京都の出身で、12歳のとき、1945年3月10日未明の東京大空襲を経験し、下町が火の海に包まれる中、多くの人たちが亡くなるのを目の当たりにしました。
終戦後は、町工場で働きながら文学の道を志し、18歳のときに書いた「下町の故郷」が直木賞の候補になりました。
1970年には「東京空襲を記録する会」を結成して、「東京大空襲・戦災誌」の編集に携わるとともに、「東京大空襲」や「東京が燃えた日」などの作品を通じて、戦争の悲惨さと平和の大切さを伝えました。
また、戦争の記憶を語り継ぐために、「東京大空襲・戦災資料センター」の開設に力を尽くして初代館長に就任したほか、全国の空襲被害者や遺族で作る「全国空襲被害者連絡協議会」の共同代表も務めました。
関係者によりますと、早乙女さんは10日、老衰のため、埼玉県内の病院で亡くなったということです。
90歳でした。
山田洋次監督「かけがえのない友人失った」
早乙女さんと50年以上親交があり、早乙女さんが館長を務めていた東京大空襲・戦災資料センターをたびたび訪れた映画監督の山田洋次さんは、「彼は東京の下町に生まれて、かの下町大空襲の中を必死に生きのびた。旧満州で育ったぼくは引揚者としてリュックひとつで日本に戻った。戦後の日本について、平和と戦争について語り合えるかけがえのない友人を失ったことを、心から淋しく思います」とコメントしています。
山田監督は、早乙女さんに東京・柴又の町を案内してもらったことをきっかけに柴又にひかれて、映画「男はつらいよ」の舞台を柴又に設定したということです。