2022年5月3日火曜日

03- ウクライナ政府が「国賊狩り」を強化し統制を図っている(櫻井ジャーナル)

 ロシアのウクライナ侵攻は、武力の行使を禁止した国連憲章や国際条約にに違反するものであり、世界中の国ぐにと市民社会が「ロシアは侵略やめよ」「国連憲章を守れ」の一点で声をあげ力を合わせることが、侵略を止める一番の力になるのは明らかです。

 それはしかしウクライナ側の非を指摘したり報じることを禁じるということではありません。非も認識したうえで前述の1点で力を合わせるというのであれば、より重みのある決意ということになります。

 ところでいまウクライナでは治安機関SBU(ウクライナ保安庁)を使い、ゼレンスキー政権の政策に従わない人びとを拘束していて、その数は北東部ハリコフだけで400名近くに達しているということです。
 CIAの指導下にあるSBUはこれまでも暗殺、誘拐、拷問を実行してきました。ウクライナ政府の強権性は2014年のいわゆるマイダン革命以降 米国に主導されて顕著になり、19年にゼレンスキー政権が出来てからはロシア系住民に対する弾圧が一層激しくなりました(それまでは歴代の大統領は基本的にウクライナ系住民とロシア系住民の融和政策を採ってきましたが、ゼレンスキーはそれまで第2公用語であったロシア語を公用語から排除するなどの強硬策を取りました)。
 ⇒(3月10日)ウクライナのネオナチを隠蔽するマスコミ(世に倦む日々/櫻井ジャーナル)

 そもそも2月24日のロシアによるウクライナ侵攻は、ウクライナの政治家、オレグ・ツァロフが2月19日に緊急アピール「大虐殺が準備されている」を出し、ゼレンスキーがごく近い将来、ドンバスで軍事作戦を開始するという情報をキエフから得たことを明らかにしたのが直接の契機でした。
 ⇒(3月18日)ウクライナの戦争でも行われている歴史のぶつ切り(櫻井ジャーナル)
 
 公平に見てゼレンスキー政権には問題があります。11の政党活動を禁止し上述のような市民の拘束を進めることは、決して戦時下なのでやむを得ないといえるものではありません。逆にそうした強権性が戦乱を招いたように思われます。
 櫻井ジャーナルの記事を紹介します。
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ウクライナ政府は治安機関を使って「国賊狩り」を強化、統制を図っている
                          櫻井ジャーナル 2022.05.03
 ウクライナの治安機関でCIAの下部機関でもあるSBU(ウクライナ保安庁)はウォロディミル・ゼレンスキー政権の政策に従わない人びとを拘束している。APによると、その数はウクライナ北東部にあるハリコフだけで400名近くに達した。

 2013年11月から14年2月にかけてアメリカのバラク・オバマ政権はウクライナでクーデターを実行、ビクトル・ヤヌコビッチ大統領を暴力的に排除したが、そのヤヌコビッチ派の議員だったオレグ・ツァロフは2013年11月に議会でジェオフリー・パイアット米大使の下で内戦が準備されていると演説している。
 実際、クーデターが実行され、その中心にはビクトリア・ヌランド国務次官補とパイアット大使がいた。そのふたりがヤヌコビッチ後の閣僚人事について話し合っている音声 が2014年2月4日、インターネット上に公開された。
 ヌランドは暴力的にヤヌコビッチを排除するつもりだったが、EUは話し合いで混乱を解決しようとしていた。話し合いではヤヌコビッチを排除することは難しく、怒ったヌランドは「EUなんかくそくらえ」と口にしたのだ。そしてヤヌコビッチ後の閣僚人事を話題にした。彼女が強く推していた人物はアルセニー・ヤツェニュク。実際、首相に就任した。

 ツァロフは今年2月19日、ウクライナで「大虐殺が準備されている」という緊急アピールを発表した。ゼレンスキー大統領がごく近い将来、ドンバスで軍事作戦を開始、ドンバスを制圧してからキエフ体制に従わない住民(ロシア語系住民)を「浄化」、つまり皆殺しにする計画で、西側からの承認を得ているともしていた。
 さらに、SBUはネオ・ナチと共同で「親ロシア派」の粛清をウクライナの他の地域でも実行することにもなっていたという。そうした虐殺の責任を西側の政府や有力メディアはロシアに押し付けるつもりだったのだろう。ゼレンスキー政権はこの計画を行動に移している

 SBUは暗殺、誘拐、拷問を実行してきた。ロシアからの人道的支援やロシア軍との交渉を受け入れた地方の役人は逮捕されている。例えば、ルガンスクのクーデター政権が支配している地域の市長で、ロシア話し合いでの解決を目指していたボロディミル・ストルクは3月1日に誘拐され、拷問された上で胸を撃たれて死亡した。
 3月5日にはロシアと交渉しているチームのひとり、デニス・キリーエフがキエフの路上で治安機関SBUの隊員に射殺され3月7日にはゴストメルのユーリ・プライリプコ市長の死体が発見されている。4月25日現在、ウクライナでは11名の市長が行方不明だともいう。
 SBUによる「国賊狩り」が行われる中、ウクライナの南部にあるミコライフ州のビタリー・キム知事は4月21日、「ウクライナ24テレビ」の番組で「全ての裏切り者を処刑する」と語っている
 そうした処刑を実行するための秘密部隊を編成、すでに作戦を遂行しているともいう。キムにとって「裏切り者」とはゼレンスキーの政策に同意しない人びとであり、それはネオ・ナチに従わない人を意味する。言うまでもなく、その背後にいるのはアメリカ政府だ。アメリカ政府はウクライナで恐怖政治を始めたと言えるが、そうしなければ国民を抑えられないと判断しているのかもしれない
 ミコライフ州はビクトル・ヤヌコビッチの地盤だった地域で、ロシア語を話し、ロシアに親近感を持つ住民が多い。ゼレンスキー政権やその黒幕は住民の反乱を恐れている可能性もある。

 西側の有力メディアが展開しているプロパガンダにどっぷり浸かっている「マトリックスの住人」はともかく、現地の人びとは実態を知っている。口を封じる必要があるはずだ
 実際、ドンバス(ドネツクとルガンスク)でロシア軍によってネオ・ナチの親衛隊から解放された人びとは異口同音にネオ・ナチの残虐さを語っている。親衛隊の中心がマリウポリを拠点にしていたアゾフ大隊(現在の正式名称はアゾフ特殊作戦分遣隊)だ。
 現在、ウクライナで行われている「国賊狩り」はベトナム戦争の際にCIAと特殊部隊が行った住民皆殺し作戦「フェニックス・プログラム」、あるいはラテン・アメリカでCIAが現地の軍人で編成した「死の部隊」に酷似しているとも指摘されている。

 フェニックス・プログラムは1967年6月、MACV(ベトナム軍事支援司令部)とCIAが共同で実行した「ICEX(情報の調整と利用)」として始まった。その名称はすぐに「フェニックス・プログラム」へ変更される。殺人担当チームは軍の特殊部隊から引き抜いて編成されたが、命令はCIAから出ていた。
 そうした秘密工作の実働チームとして動いていたのは、1967年7月に組織されたPRU(地域偵察部隊)という傭兵部隊。この部隊を構成していたのは殺人やレイプ、窃盗、暴行などで投獄されていた囚人たちが中心で、「ベトコンの村システムの基盤を崩壊させるため、注意深く計画されたプログラム」だ。
 CIA長官としてウィリアム・コルビーはフランク・チャーチ上院議員が委員長を務める特別委員会で証言、その中で「1968年8月から1971年5月までの間にフェニックス・プログラムで2万0587名のベトナム人が殺され、そのほかに2万8978名が投獄された」と語っている。

 コルビーはアレン・ダレスの側近のひとりで、1959年から62年までCIAサイゴン支局長、62年から67年までは極東局長、そして68年から71年まではフェニックス・プログラムを指揮。コルビーはチャーチ委員会でCIAが行ってきた秘密工作の一部を明らかにしたことから情報機関の世界には「裏切り者」とみなす人もいた。
 そのコルビーの水死体が1996年5月7日、メリーランド州のワイコミコウ川で発見された。近くには砂で満ちたカヌーがあったことから、事故死とされているのだが、行方不明になった日の日程から考えて日没後でなければカヌーに乗れない。隣人の話によると、コルビーの家の鍵はかかっていなかった上、ラジオやコンピュータはついたまま。飲み掛けのワインのグラスがカウンターにあった。
 死体が発見されたのは行方不明になった4月27日から10日後。死亡したのは食事から1、2時間後なので、水に浸かっていた時間は9日程度と言うことになるだろうが、死体が水に浸かっていた時間は1日か2日のように見えたという。
 フェニックス・プログラムと同じ作戦はラテン・アメリカのほかイラクでも実行されている。そして今、ウクライナでも始まったようだ