2015年11月29日日曜日

菊池直子被告無罪判決は「法治」の精神に寄り添うもの

 オウム真理教による1995年の東京都庁郵便爆発事件で殺人未遂のほう助罪に問われた、元信者の菊池直子被告の控訴審判決で、東京高裁は27日、懲役年とした1審の判決を取り消し、無罪を言い渡しました。
 
 ブログ「世相を斬る あいば達也」はその判決を取り上げ、「『被告イコール有罪ではなく、“証拠に明示性がなければ、被告に不利な証拠として採用しない”と云う原理原則を重視した判決であり、裁判を感情の発露の場としてはいけないと、司法関係者及び国民に明示したものと理解する」として高く評価しました。 
 以下に紹介しますが、出だしの3節は安倍政権を酷評するもので判決とは関係ありませんので、その積りでお読み下さい。
 なお、「注釈:・・・」部分の青字化は原文がそうなっているものです。
 
追記) 
 判決では、井上死刑囚の証言20年前のことについて、不自然に詳細かつ具体的で、信用できない」として退けて、被告を無罪としました。
 オーム事件の裁判では、この事件に限らず井上死刑囚の証言がオウム被告たちの証言と決定的なところで食い違うことが頻出しましたが、裁判所は常に井上死刑囚の証言を採用して判決を下してきました。つまり井上証言は主に検察の構想を裏付ける役割をして来ました。今回初めて井上証言が否定されたことを機に、の判決に問題がなかったのかもう一度精査されるべきです
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戸惑う世間 「空気」を排除「法治」の精神に寄り添う判決 
世相を斬る あいば達也 2015年11月28日 
辺野古新基地建設で、実は苦境に立っている安倍政権が、名護市の頭越しに、自治会長のような輩に、行政の枠組みを超えて、つまり超法規的買収工作で、地域分断を画策すると云う下品な行為がなされたばかりだが、今日、じっくりと、安倍の国家総動員態勢、「1億総活躍社会」など云う茶番劇の内容を読んでいたら、実現に向けた対策だとホザイテいたが、公選法違反のような買収行為まで盛り込まれているのには、腰が抜けた。 
 
この政権は、どこまで下品なのか、限度と云うものがない。当然、日本人が3000年の歴史の中で紡ぎあげてきた「恥の文化」すら身に着けていない人種の坩堝になっている。この人たちは、本当に日本人なのか?そう云う根本的疑問さえ生まれてくる。まあ、日本人のルーツをたどれば、人類学的に、様々な地域から、それぞれのDNAを持った人類が流れ着いて、混血していったのは理解出来るが、科学的に検証するDNA等々とは別次元で「文化」と云うものがあるが、その部分での違和感だ。民族への差別としてではなく、「文化」の違いの部分に筆者の目は釘付けになる。
 
現在の官邸や内閣の政治的傾向は、日本会議がどのように感じているか別にして、奇妙過ぎる。あたかも、朝鮮半島の精神構造で、ことがなされている疑念を強くする。この点への真偽に関して、何ひとつ明らかではないので、判断は留保するが、どうもおかしい。冷静に眺めていると、日本人の醜い面を意図的に、殊更に世界に振りまいている感じなのだ。欧米のリベラルなデモクラシー世界から疑念を持たれ、イスラム世界からも疑念を持たれ、世界の憎まれ役国家イスラエルと蜜月を表明したり、日本の世界における地位を、貶める為政に執着している。これは国家主義ではなさそうだ。隷米主義にしてもかなり変だ。この喉に刺さった小骨が、実は安倍政権そのものの、真の姿なのか、もう少し検証する必要があるだろう。 
 
さて、今日の見出しは、政治的ではないが、日本の警察や検察の「魔女狩り」に、東京高裁において、一石を投じた判決が出た。おそらく、マスメディアも、意外だ意外だの連呼だろう。NHKアベチャンネルも批判的論調で報じていた。ど素人の裁判員が意外だと云うのは、裁判員裁判の目的が、法のジャスティスではなく、国民感情のガス抜きシステムだと理解しておけば、彼らが気分を害するのはよく理解する。しかし、法に携わる者や司法記者であるなら、「法廷」を「感情の吐き出し場」にすることは、「法治の観念」への反逆だと云う事実を、裁判官は明確に述べた判決だろう。「被告イコール有罪」ではなく、“証拠に明示性がなければ、被告に不利な証拠として採用しない”と云う原理原則を重視した判決であり、裁判を感情の発露の場としてはいけないと、司法関係者及び国民に明示したものと理解する。 
 
以下、二つの朝日新聞の記事を元にして、筆者の考えを話しておく。この判決に違和感を持つのは、感情的には理解するが、法的には支持する気には、そもそもなれない。日本の刑事裁判は「疑わしくは罰せず」が根源的精神だ。このことを、日本人も警察司法関係者も、経験則で根源的精神を忘れているに過ぎない。筆者は、菊池直子被告が逮捕され、センセーショナルにメディアで報道された時から、この被告が有罪じゃ話にならん法治だな、と思った。「オウム信者なら、全員罪びと、有罪で良いのだ」この空気感と法治は、別の世界であることを、誰も知らないのかな、と思った。法律を学んでいたら、本来、真っ先に気づくことだ。 
 
「魔女狩り裁判」は日本の刑事裁判で、我が物顔に振る舞っていた。マスメディアが「コイツは魔女」と騒ぎ立てれば、国民は、間違いなくそうだと思う人々が多い。検察は、自分のリークで「空気」を作り、法廷闘争を有利に導く「世論形成」を行う。多くの裁判官も、この空気感には敏感な点は、人間だから当然だ。しかし、そのような状況があるとしても、法的に「疑わしいとも考えられるが、有罪にするほどではないな」と云う、裁判官のギリギリの法治を守る意志が働いたものだろう。以下、朝日の記事を抜粋する形で、此の判決をウォッチしておく。 
 
≪裁判長が語りかけた。 「法律的には無罪です。ただ、あなたが運んだ薬品で重大な犯罪が行われた。心の中で整理してほしい」≫
 注釈:この裁判長の言葉が、すべてを表している。“法治国家の法理に照らすと、有罪には出来ません。ただし、結果的に、貴女の行為で、重大な犯罪が起きた事実を忘れずに、自分の中で整理してくださいね”と諭している。 
 
≪この幹部は「逮捕状を取った当時は、オウム信者を微罪でも捕まえろ、という世論の後押しがあった。年月を経て、慎重な司法判断が下されたのではないか」と話した。≫ 
≪元捜査幹部は「菊地元信徒は逃亡したからこそ注目を浴びたが、オウム事件全体でみると果たした役割は小さかった。事件に直結する役割ではなく、元々、立証に難しさはあった」と話す。≫ 
注釈:世論の後押し=魔女狩り=感情の吹き出し口。おそらくこう云う図式だが、検察とマスメディアによって「世論」は作られて行くことを、法治国家の国民も司法関係者も、ちょっと立ち止まる賢明さが欲しいと云うことだ。 
 
≪検察幹部は「予想外の判決だ。かなり違和感がある」。東京高検の堺徹次席検事は「控訴審判決は意外であり、誠に遺憾。判決内容を十分に精査・検討し、適切に対処したい」とのコメントを出した。≫ 
注釈:判決の趣旨から考える限り、検察は控訴を見送る可能性が高い。筆者の目から見ると、菊池被告は、極めて純真で優しい心の持ち主ではないかと云う印象がある。高橋克也被告を匿い続けた行為を、単に下世話な男女関係と見るか、外出さえままならぬ、昔の仲間の窮状を見るに見かねてか、その点の解釈も重要だったと考える。 
 
≪高裁判決は、一審の裁判員裁判を覆す内容だった。「市民感覚を反映するための制度なのに、裁判官の経験則で覆していいのか。オウムの恐ろしさが風化してしまったのだろうか」。別の幹部は疑問を呈した。≫ 
注釈:この捜査幹部は、裁判員制度の前に、法治の法理念が存在することを失念している。裁判は感情や空気感で裁いて良いと思っているに過ぎない。
 
≪裁判員を務めた会社員の男性(34)は「無罪と聞いてショック。確かに証拠が少ない難しい事件だったが、私たちが約2カ月間、一生懸命考えて出した結論。それを覆され、無力感を覚える」と話した。≫ 
注釈:二か月でも、十年でも、法に照らすと云う精神を忘れて、「疑わしきを罰する」情緒に惑わされたことこそ、反省すべきであり、初めから、被告は犯罪者だと思い込んでいる発言に過ぎない。裁判員が一生懸命頑張ったから、被告は有罪じゃあ、法治はなきに等しいよ。 
 
≪左手指を失った元東京都職員の内海正彰さん(64)は「(菊地元信徒は)長年逃亡生活を続けており、罪の意識は十分持っていたはずです。無罪の判決は、その事実を法廷という場でしっかりと立証できなかったということで、誠に残念なことだと思います」との談話を出した。≫ 
注釈:この方も、法治の概念に齟齬がある。罪の意識は充分にある。それは認めよう。しかし、だから、有罪だと云うのは、法ではない。被告に、罪の意識があることと、法的に有罪であることに、相関はない。それが法律と云うものだ。日本人独特の、このような情緒は一般的だが、民主主義国、法治国においては、情緒や空気に惑わされる判事が多すぎるのが問題なのであって、日本の刑事訴訟そのものの、傾向こそ中世的司法なのである。
(以下の朝日新聞記事の全編紹介部分はカット)