2月20日、98歳で亡くなった金子兜太さんは、戦後を代表する俳人・前衛俳句の巨匠でした。晩年は全身全霊で反戦を訴え、2015年、安保法の反対運動が盛り上がったときには、「アベ政治を許さない」という力強い文字をプラカードに揮毫しました。
日刊ゲンダイが、戦争体験を語り続けた金子さんの「聞き手」を務めてきた俳人の黒田杏子さんにインタビューし、金子さんの思い出を語ってもらいました。
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注目の人 直撃インタビュー
故・金子兜太さんの「聞き手」 黒田杏子さんが思い出語る
日刊ゲンダイ 2018年4月2日
戦後を代表する俳人、金子兜太さんが2月20日、98歳で亡くなった。前衛俳句の巨匠だった金子さんが晩年、注目されたのは全身全霊で反戦を訴えたからだ。2015年安保法の反対運動が盛り上がったとき、「アベ政治を許さない」というプラカードが掲げられた。これを揮毫したのが金子さん。戦争体験を語り続けた金子さんの「聞き手」を務めてきた俳人の黒田杏子さんに思い出を伺った。
■アベ政治への危機感で「戦争の語り部」に
――2015年、流行語大賞トップテンに「アベ政治を許さない」が選ばれました。その前年に安倍政権は集団的自衛権に道を開く解釈改憲の閣議決定を行い、翌15年にいよいよ安保法案を出してきた。2015年の1月から東京新聞で「平和の俳句」が始まり、金子さんといとうせいこうさんが選者になりました。4月には金沢で開かれたNHK学園の俳句大会で黒田さんとご一緒されていますよね。ここで金子さんは戦争の語り部になることを宣言されたと聞きました。
そうです。金子さんは「私の人生、仮にあと10年くらいあるとしても大したことはできません。自分に何ができるのかを考えたとき、トラック島での生の体験を皆さんにわかりやすく話していきたい。戦争がいかに悲惨なものか、人間にとって平和以上の幸福はないのだということを伝えていきたい。それを俳人としての仕事としてゆきます」とおっしゃったんですね。600人ぐらいの聴衆がいましたが、拍手が鳴りやみませんでした。
――それはやはり、金子さんの安倍政治に対する危機感から?
すごくあったと思います。金子さんは、東大時代、俳句をやっていた先輩が拷問で爪をはがされ、「おまえも気をつけろ」と言われた経験がある。そんな金子さんがあのころ、「戦前の取り締まりと似てきた」とおっしゃっていましたから。
――東京新聞の「平和の俳句」(2015~17年)も“言論弾圧”への抵抗で始まったんですよね。
さいたま市の公民館が<梅雨空に「九条守れ」の女性デモ>という句を月報に載せなかったのがきっかけだったと聞いています。そんなに抑えつけるんなら、「抑えつけられる句を増やしちゃえ」ってことで始めたとか。金子さんは「戦後70年たって、まさか戦争反対の句の選者を自分がやるとは思わなかった」とおっしゃっていました。
――1年間のはずが3年間も続いた。最後の3カ月間を金子さんは黒田さんにバトンタッチされた。
金子さんは戦争体験を経て、知的野生ということを盛んに言われた。戦場で下っ端の工員、餓死寸前の人、下積みの人、そういう人たちが手りゅう弾の実験で背中がえぐれた仲間の遺体を懸命に運んだりするんですね。人間の本質、生の声に触れて、そういう存在者の生の魅力を俳句に持ち込まれたのが金子さんです。東京新聞の「平和の俳句」は俳句の巧拙より、とにかく、金子さんに自分たちの平和への思いを知ってほしい、金子さんに共感の意を表したい。そういう俳句が多くて、朝日俳壇、その他の俳壇にはない句が集まった。それが金子さんの琴線を揺さぶったのだと思うし、無二の体験を私にも経験させようと思われて最後に選者を譲って下さったのかなと思うんです。
■「嘘とか欺瞞で丸め込むな」
――平和への思い、政治への危機感、そうした生の声が俳句という形であふれてくるわけですね。
平和の俳句の中に天皇、皇后の慰霊の旅を取り上げた句がありました。その選評で金子さんは天皇、皇后の行動を評価され、さらに「好戦主義者恥を知れ」と書かれたんです。そんな選評は前代未聞でビックリしました。
――金子さんは「社会も政治もインチキだ」とも言われていたとか。
晩年はしばしば言われていましたね。嘘とか欺瞞ということをうまく丸め込んで体裁をつくっているのはおかしいと。
亡くなられて改めて存在感が増しました
――日刊ゲンダイのインタビューでも、安保法に対し、「安倍政権は9条には触らないで周辺をぐるぐるといじる。これが危ない」とおっしゃっていました。揮毫で「アベ政治とカタカナにしたのは、こんな政権に漢字を使うのはもったいないから」と斬り捨て、「戦争のにおいも嗅いだことのない連中が安保法のようなケチなものをつくる。そんな資格はない」と断じておられました。
そういう気持ちを多くの人が共有していたんですよ。だから、金沢の講演で「戦争の語り部になる」と宣言されたときも拍手喝采で、ロビーでは人があふれて、握手、写真攻めでした。金子さんは驚いたというか、感動されたんだと思います。その夜、お食事をご一緒させていただいたときに「この後、あんたが聞き手になって、自分の話を引き出してくれ」と頼まれたんです。
――以後あちこちへ?
回を重ねるごとに話の内容が深く豊かになり、聴衆との共感も高まりました。信州、松本でやった岩波講座には1700人、明治大学でやったときは1200人、会場いっぱいでした。東大安田講堂も500人くらいかしら。青森でやった東奥日報文化財団県俳句大会70周年は初めて満員札止めになりましたし、加賀乙彦さんが会長をなさっている「脱原発文学者の会」での講演も大好評でした。白寿に向かう俳人で、これだけ支持され、広く共感された方は他にいないのではないでしょうか。
■幻になった瀬戸内寂聴さんとの対談
――だからこそ、訃報も各紙で大きく掲載されました。
私は日経、東京新聞、共同通信から依頼されて追悼文を書きました。訃報、追悼文だけじゃなくて、全国紙の論説委員の方々が取り上げてくださった。私は日経俳壇の選者を長らく担当しているのですが、金子さんを偲ぶ句がどっと投稿されてきたんです。1週では載せきれないので、2週にわたって載せることになりました。
――<存在の巨星兜太の逝く二月>(日経3月24日、饗庭洋さん)が印象的でしたが、そうなると、金子ロスというか、今、とても危うい時代にいる日本において、精神的支柱、それもとてつもない巨木を失った寂寥感というものがあります。
いえ、私はそうは思いません。金子さんが亡くなられて、改めて先生の存在感が増した。こんなに愛されていたことが分かった。あれだけ思い切った発言をされ、俳句も見事に残されて、ますます注目されている。金子さんの句は難解だとか言われますが、定型だとか季語とかを超えて、広く受け入れられてゆく気がします。俳句の世界が広がりました。何より金子さんの句は翻訳されやすいし、実際、海外で人気が高いのです。長崎で詠んだ<彎曲し火傷し爆心地のマラソン>をはじめとしてね。現役大往生を果たされました。時代のニーズでしょうが、これだけ愛され、注目されて亡くなるのはめでたいことだと思いますね。
――忘れられない句はありますか?
正統派の山口青邨に師事していた私が金子さんの句に注目したのは60年安保で樺美智子さんが亡くなり、国民葬が行われた時でした。金子さんの句に打たれたんです。
<デモ流れるデモ犠牲者を階に寝かせ>
山口先生は伝統派の方でしたが「金子兜太という人をどう思いますか」と尋ねたところ、「あの人はあの人の道を行けばよい。彼はそれができる人だと思います」と。以後、金子兜太の研究をしようと決心したんです。<霧の村石を投らば父母散らん>も好きです。金子さんの故郷、秩父には12の句碑がありますが、訃報が伝わるや全句碑に花が捧げられていたそうです。
私が熊谷総合病院で最後にお会いしたのは2月18日です。すやすやと眠られていて、枕元には秩父音頭が流れていました。亡くなったのは20日の深夜11時47分。たまたま、金子さんとの初めての対談を予約していた瀬戸内寂聴さんと電話でお話をしている時刻でした。翌朝、亡くなったことを知らされました。瀬戸内さんからは「架空対談でもまとめてよ」と激励されています。
▽くろだ・ももこ 1938年8月10日生まれ。1990年俳誌「藍生」を創刊、主宰。2011年句集「日光月光」で蛇笏賞。日本経済新聞俳壇選者。「証言・昭和の俳句」(角川選書)、「存在者金子兜太」(藤原書店)など著書多数