2019年10月11日金曜日

あれから75年 沖縄無差別爆撃を忘れまい/軍備増強が惨劇を招いた

 75年前の1944年10月10日、晴れ上がった沖縄の空に延べ1400機もの米艦載機が襲来しました。午前7時から約9時間かけての5次にわたる空襲で 540トン以上の爆弾が投下されました。
 空襲は沖縄本島各地や離島の飛行場や港の軍事施設だけでなく、学校や役所、民家無差別に攻撃し、旧那覇市の9割が消失しました。軍民の死者は668人(内民間犠牲者は330人)で、ほかに約800人が負傷しました。
 それは日本軍も予測できなかった奇襲攻撃で、翌年の東京、名古屋、大阪、横浜など本土の主要都市への無差別爆撃の始まりでした。
 
 しかし悲劇はそれにとどまらず、「米軍の奇襲攻撃が成功したのは沖縄人スパイが手引きしたからだ」という根も葉もないうわさが流され、その後の沖縄に重大な影響を与えました。うわさは本土の報道機関や政府議会筋にまで伝わり、「県民総スパイ説」が生まれました。まことに罪深い「うわさ」でした。
 敗戦直前の沖縄戦では、日本兵が住民を壕から追い出して食糧を奪うなどしただけでなく、住民をスパイ視して殺害する事件が各地で相次ぎました。「軍隊は住民を守らない」ということが沖縄ではあからさまに実行されました。その背後にこの「県民総スパイ説」があった可能性は否定できません。
 沖縄タイムスは10日、「沖縄無差別爆撃を忘れまい」とする社説を掲げました。
 
 この10日にも、60人の市民早朝から名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブゲート前に集まって、「海を壊すな」と新基地建設に抗議する声を上げました。そして9時になると機動隊員に手足をつかまれながらゲート前から強制的に排除されました。
 
 沖縄の苦悩は、在沖米軍基地の重圧、日米安保条約・日米地位協定がもたらす不条理、歪な経済構造など いまも続いていますが、そうした沖縄社会に横たわる問題の元をたどれば、殆どは沖縄戦とその後の米統治に帰着します私たちが絶えず沖縄戦に学ばなければならない所以です。
 
 10・10空襲や沖縄戦体験に照らせば、日米による沖縄の軍備増強は決して住民を守るものではなく、むしろ基地は外敵からの恰好の標的になる危機物にほかなりません。
 琉球新報は「軍備増強が惨劇を招いた」とする社説を掲げ、そのなかで、
 これらの動きに異議を申し立てるためにも10・10空襲を語り継がなければならない75年前の悲惨な体験を踏まえ、平和を築くことが沖縄の未来に対する私たちの使命だと自覚したい」と述べています
 
 二つの社説を紹介します。
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 社説[1010空襲75年]無差別爆撃を忘れまい 
沖縄タイムス 2019年10月10日
 「バラ色に染まる暁の沖縄東南海上を低く機種不明の編隊機群が現われ、金属性の爆音をとどろかせた。初秋の空は、高く晴れ、千切れ雲が淡く流したようにたなびいていた。(略)前夜の防空演習の疲れで、那覇市民の、眠りは深かった」。住民視点に立って沖縄戦を記録し、1950年に出版した『鉄の暴風』(沖縄タイムス社編)は、44年10月10日をこう記述する。
 10・10空襲である。
 米軍は空母から発進した艦載機延べ1396機で、午前7時からの第1次空襲、午後2時45分からの第5次空襲まで約9時間にわたって540トン以上の爆弾を投下した。奄美大島から沖縄本島、周辺離島、宮古島、石垣島に至るまでの無差別爆撃だった。
 軍民の死者668人を含む約1500人が死傷した。飛行場や港湾、船舶などの軍事施設だけでなく、学校や病院なども爆撃した。民間犠牲者は那覇の255人を含め330人に上る。那覇の約9割が焼(しょう)夷(い)弾などで焼失した。
 
 当初、日本軍の演習と思った人が少なくなかった。
 学童疎開船「対馬丸」が撃沈され、6日間の漂流の末に救助された上原清さん(85)は当時10歳。那覇に戻って1週間余りたったころ、夜明けに渡り鳥が飛ぶように何機も頭上を飛んでいった。「友軍だ!」と兄たちと喜んで手を振った。だが警報音で敵機だと知り、壕に逃げ込んだ。
 那覇市山下町の日本軍高射砲陣地の日本兵も「バンザイ!」「バンザイ!」と歓呼の声を上げたとの証言もある。
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 米軍の狙いは、日本への物資輸送拠点だったフィリピン・レイテ島奪回のため日本軍の後方支援基地を絶つこと、日本本土侵攻の足掛かりとなる沖縄攻略に向け地形や軍事施設などを上空から撮影することなどといわれる。
 当日の空襲は日本軍さえ予測できない奇襲攻撃だった。それだけに衝撃は大きかった。迎撃機はほぼ見当たらず、生命や財産を失い、住民には日本軍への不信感と失望感が広がったといわれる。
 その後の沖縄に重大な影響を与えるのが「米軍の奇襲攻撃が成功したのは沖縄人スパイが手引きしたからだ」とのうわさが流されたことである。沖縄戦研究の大城将保さんは『沖縄秘密戦に関する資料』の解説で、うわさは本土の報道機関や政府、議会筋にまで伝わり、県民総スパイ説はこの時期からすでに表面化しつつあったと指摘する。
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 10・10空襲は翌年の東京、名古屋、大阪、横浜など本土の主要都市の無差別爆撃の始まりでもあった。沖縄では米軍の上陸が必至で戦場になることを告げるものだった。
 沖縄戦で、日本兵が住民を壕から追い出して食糧を奪うなど軍隊は住民を守らず、住民をスパイ視して殺害する事件が各地で相次いだ。
 民間人を巻き込み地上戦への岐路となった10・10空襲から75年。「ありったけの地獄」を集めたといわれる沖縄戦を予兆させ、事実上沖縄戦始まりの日とみることもできよう。体験者の証言から不断に学び直し、平和を希求する思いを引き継いでいきたい。
 
 
<社説>10・10空襲から75年 軍備増強が惨劇を招いた
琉球新報 2019年10月10日
 南西諸島の島々を延べ1400機の米艦載機が攻撃した「10・10空襲」から75年になる。668人が死亡し、768人が負傷した。那覇市の約9割が壊滅し、被災した市民約5万人が本島中南部に避難するという大惨事となった。空襲の被害は周辺離島、宮古・八重山、奄美にも及んだ。
 
 米軍上陸による激しい地上戦の前哨戦となった10・10空襲は、日本全国で76万人が犠牲となった無差別攻撃の始まりでもあった
 早朝に始まった5次にわたる空襲は主に飛行場や港湾の軍事施設を標的としたが、攻撃対象は民間地域にも広がった。那覇市では大量の爆弾や焼夷(しょうい)弾を投下し、学校など公共施設や民家を焼き払った
 それだけではない。商業、交易の街として栄えた那覇の歴史や文化が一日にして壊滅した。復興のために市民の多大な労力と長い年月を要した。戦争のすさまじい破壊力はこの街の歴史と将来を奪った。
 
 なぜ沖縄が米軍の標的となり、壊滅的な空襲被害を受けたのかを考えたい。
 1944年3月に創設された第32軍は米軍の侵攻に備え、沖縄本島や周辺離島で飛行場や軍事施設の構築を推し進めた。その過程で多くの県民が動員された。米軍はこれらの飛行場や軍事施設を攻撃し、日本軍の弱体化を図った。
 日本軍は沖縄を日本本土防衛の防波堤とし、県民に対しては「軍官民共生共死」の方針を強いた。米軍は本土攻略に向けた戦略的な価値を沖縄に見いだした。太平洋を部隊とした日米両軍の戦闘が10・10空襲、翌年の沖縄戦へとつながり多大な県民の犠牲を生んだ。そのことから私たちは「戦争につながるものを許してはならない」という教訓を得たのである。
 
 今日、沖縄では日米双方による軍備増強が進められている。これは沖縄戦の悲劇から得た教訓に反するものであり、今日の県民の意思にも背くものだ。
 宮古島では陸上自衛隊ミサイル部隊の配備計画が進んでいる。既に宮古島駐屯地に、住民への説明がないまま中距離多目的誘発弾や迫撃砲は保管されていた。石垣島でも陸自駐屯地の工事が今年3月に始まった。いずれも地域住民の理解を得たとは言い難い。
 
 名護市辺野古では沖縄の民意に反し普天間飛行場の返還に伴う新基地建設が強行されている。さらに今月、核弾頭が搭載可能な中距離ミサイルを、沖縄をはじめとする日本に配備するという米計画が明らかになった
 10・10空襲や沖縄戦体験に照らせば、日米による沖縄の軍備増強は住民を守るものではない。むしろ危機に陥れる可能性が大きい。これらの動きに異議を申し立てるためにも10・10空襲を語り継がなければならない。
 75年前の悲惨な体験を踏まえ、平和を築くことが沖縄の未来に対する私たちの使命だと自覚したい。