短い記事ですが、三浦瑠麗氏の本質が端的に語られている見事な論文です。
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それでもバカとは戦え
ナチスか? 悪霊の復活…三浦瑠璃の“見識”に頭がクラクラ
適菜 収 日刊ゲンダイ 2019/10/05
国際政治学者を名乗るコメンテーターの三浦瑠麗が、国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」の企画展「表現の不自由展 その後」についてツイッターに連投。
《大衆的な民主主義の時代においては、一番の権力者は民衆です。彼らに全く受け入れられない「アート展」には持続可能性がありません。公共の場を借りた展示が、多くの人の学習意欲を満たし、十分に教育的で説明的であってほしい、という需要に応えるものになっていくことが求められている結果です》
頭がクラクラ。これは企画展の是非や補助金の不交付がどうこうといった問題がぶっ飛ぶほどの恐ろしい発言だ。
要するに三浦は「一番の権力者」に「受け入れられない」アートを否定しているわけだ。
ナチスですか?
ヒトラーは印象派などの近代美術を「退廃芸術」として攻撃。芸術を「学習意欲を満たし、十分に教育的で説明的」なものに限定していった。スターリンも芸術を「学習」「教育」のために利用した。「ロシア・アバンギャルド」は弾圧され、「社会発展のために役に立つプロレタリア芸術」のみが認められた。こうして芸術は党の管理下に置かれるようになった。
三浦は展示品に対し「説明不足」「鑑賞者に説明なしに黙って見ることを要請」と繰り返すが、芸術とは「鑑賞者に説明なしに黙って見ることを要請」するものである。そもそも簡単に説明できるものなら芸術という形式をとる必要はない。
なお、ここで論じているのは展示品が芸術か否かではない。三浦の芸術観が幼稚で浅はかであるだけでなく、過去の悪霊の復活につながることを指摘しているのだ。
三浦は展示品の作者に対し《そもそも、何をもってして「目覚めた自分」と「目覚めていない大衆」を分けているのか》と批判するが、それはこちらが聞きたい。三浦の文章からにじみ出るのは「自分は目覚めた側の人間であり、社会を俯瞰的に眺めている」という傲岸不遜な態度である。
そんなルリ(39歳)が考える「一番の権力者」に受け入れられ「持続可能性」のある「学習意欲を満たし、十分に教育的」な芸術展とは何か。ナチス公認の「大ドイツ芸術展」というのもあったが、われわれの社会は20世紀の愚行を繰り返そうとする危険人物に対し寛容に過ぎるのではないか。
適菜 収 作家
1975年生まれ。作家。ニーチェの「アンチクリスト」を現代語訳した「キリスト教は邪教です!」、「ゲーテの警告 日本を滅ぼす『B層』の正体 」など著書40冊以上。購読者参加型メルマガ「適菜収のメールマガジン」も始動。詳細は適菜収のメールマガジンへ。