文豪 夏目漱石はときに「高踏主義・高踏派」と評されることがありました。今でいう「上から目線」にも通じるものなのでそれなりの批判は込められていましたが、彼には字義通り和漢洋にわたる深い教養があったので、軽蔑されるようなことはありませんでした。
LITERAが「三浦瑠麗が『表現の不自由展』感想ツイートでまた無教養と御用ぶり晒し非難殺到!~」とする記事を出しました。
LITERAは、これまで折に触れて三浦氏(東大講師)を批判する記事を何回か出しており、まことに忘れたころにやってくる「災害」のような存在です。
今回は、トリエンナーレ「表現の不自由展・その後」の検証委員会の「ヒアリング対象者」に選ばれたことで、展示の現場を見た感想を連続ツイートしたのですが、それに対して「言っている意味がわからない」とか「中身はスカスカで違和感だけが残る」などの酷評が噴出したことに関するものです。
彼女の専門は政治学のようですが、TVなどに登場するときの基本姿勢は常に“上から目線”で、「どっちも どっち」と評しながらその実必ず政権側を擁護するというものです。ただ、それでは身も蓋もないので、先ずは怪しげな(意味不明の)言葉を尤もらしく並べてから擁護に回るという手法を採るわけです。
LITERAの記事は長文(8470語)のため、約6200語に短縮しました(それでもかなりの長文です)。しかし要約したのでは原文の厳密さが伝わらなくなるため、思い切って約2000語分をまとめてカットする方法によりました。原文には下記からアクセスできます。
この評論は小杉みすず氏の力作です。
(注 文中「マウンティング(自分の優位性の誇示)」などと、カタカナ外国語の次にカッコ内に青字で書いた部分は、当事務局が勝手に書き加えたものです)
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三浦瑠麗が「表現の不自由展」感想ツイートでまた無教養と御用ぶり晒し非難殺到! ナチスばりの芸術観まで披露
LITERA 2019.10.02
脅迫やテロ予告を含む電凸攻撃によって閉鎖に追い込まれていた「あいちトリエンナーレ」の企画展「表現の不自由・その後」が、10月6〜8日を目処に再開する運びとなった。9月30日に、トリエンナーレと不自由展の両実行委員会が展示再開で合意したためだ。
同展の中止をめぐっては、国内外から「表現の自由」の抑圧を危惧する反対の声が相次ぎ、先月25日には、第三者による検証委員会が会場の警備等を念頭に「条件が整い次第、すみやかに再開すべきである」と中間報告で提言していた。「表現の不自由展・その後」の展示作品では、慰安婦問題を象徴する「平和の少女像」が「反日」とのバッシングを受け、大浦信行氏の作品「遠近を抱えて PartⅡ」が「昭和天皇の肖像を燃やしている」などとして右派から攻撃の対象となった。また、中垣克久氏の作品はネット上で「特攻隊を侮辱している」なるデマ攻撃を受けた。
本サイトで伝えてきたように、その背景にあるのは、菅義偉官房長官、柴山昌彦文科相(当時)、河村たかし名古屋市長や松井一郎大阪市長、自民党の国会議員らによる電凸の扇動だ。さらに文化庁は先月26日、トリエンナーレに対してすでに採択してあった約7800万円の補助金を交付しないとの決定を下し、表現者を中心に大きな批判の声があがっている。安倍政権によるマッチポンプ的な“国家検閲”が仕掛けられてもなお、「表現の不自由展・その後」の再開が合意されたことは、表現の自由が本来、国家権力から個人を守るための権利であることからも当然だ。まずは率直に再開を喜びたい。
そんななか、不自由展の展示に言及した“あの人”の連続ツイートが、にわかに話題になっている。国際政治学者の三浦瑠麗氏だ。
三浦氏といえば、テレビにも頻繁に登場し、一見、中立ぶったメタ目線(高次目線・上から目線)の話をしているようにみせかけて、実のところ政権を擁護しまくっている“安倍応援団”の一員。そのかいあってか、最近では安倍首相が開催する有識者会議のメンバーにも選ばれるようになり、どんどん政権御用化が露骨になっている。
そんな三浦氏が先月26日、自身のTwitterに〈あいちトリエンナーレを観てきました。時間がなくて、話題の展示もほとんど見ることができず、今は閉鎖されている「表現の不自由展~その後」だけ専門のキュレーターの方にガイドしていただき、鑑賞してきました〉と投稿。不自由展と展示作品について連続ツイートをしたのだが、その理解のあまりの浅薄さに、いま、方々からツッコミが相次いでいるというわけだ。
ちなみに、なぜ三浦氏が閉鎖中の「表現の不自由展・その後」を鑑賞できたかというと、前述した検証委員会の「ヒアリング対象者」だったからである(検証委員ではない)。中間報告書によると、検証委員会は約30名にヒアリングしており、その対象は芸術監督の津田大介氏や参加アーティスト、実行委員会関係者、あるいは大村秀章愛知県知事および県庁の関係者らがほとんど。このなかになぜか「有識者」なる3名の枠があり、三浦氏は木村幹・神戸大学大学院教授、木村草太・首都大学東京教授とともに名を連ねていた。
朝鮮半島研究で知られる木村幹氏、憲法と思想信条の自由などの人権が専門の木村草太氏はまだわかるが、なぜここで三浦氏が出てくるのか。ちょっと人選基準が謎だが、それはともかく、三浦氏は観賞の感想をいつもの“上から目線”で連続投稿した。すると、Twitterでは「言っている意味がわからないがとにかくヤバイ」「中身はスカスカなのに違和感だけが残る」との多くの酷評が噴出したのである。
ネトウヨのレッテルと論理展開をそのまま使って作品を批判する三浦センセイの不見識
では実際、三浦センセイの連続ツイートの何が「ヤバイ」のか。解読してみよう。
まず、三浦氏は〈実際に見た感想では、いくつかの配置や説明、そもそもの作品の取り合わせによる配慮不足が目立ちました〉と主張。次に、大浦作品や千葉の朝鮮学校の学生による作品などに言及する。そのうえで〈けれどもやはりこの部屋で目を引くのは二点〉と強調し、こう続けている。
〈いわゆる戦前回帰の危険を訴えた「日本人の墓」のアートと、そしてその向こうにすぐ見える少女像です。大浦作品によって、説明不足なままに天皇に対する愛憎のようなウェットな世界観を見せられた鑑賞者は、十分他の作品を消化することなしに、この「墓」アートと少女像に直面することになります。〉
〈感情のジェットコースターのように、情を掻き立てる表現と、「日本人の墓」のように鑑賞者に分断線を引く表現に晒されたうえで、鑑賞者は少女像に共感してみることを提案されるのです。ここでいう分断線を引く行為とは「目覚めた者」と「愚か者」、「知者」と「愚者」を分けようとする行為を指します〉
えーっと、いちおう突っ込んでおくが、三浦氏の言う「日本人の墓」なんて名前の作品は存在しない。三浦氏が指しているのは、中垣克久氏の立体作品のことだろうが、この作品はかまくら型をしており、外壁には「日本は今病の中にある」と書かれた紙や、安倍首相の靖国神社参拝や政権の右傾化を批判する内容の紙片、あるいは新聞記事などが貼られ、頂上には日章旗が、内部には星条旗が置かれている。
2014年の東京都美術館の展覧会で「憲法九条を守り、靖国神社参拝の愚を認め、現政権の右傾化を阻止して、もっと知的な思慮深い政治を求めよう」という紙片が館側から問題視され、その部分を撤去させられた。今回の中止問題でも、ネトウヨたちが「間抜けな日本人の墓」と呼んで“反日”レッテルを貼ったが、正式な名称は「時代の肖像−絶滅危惧種 idiot JAPONICA 円墳−」である。
それを、ネトウヨと同じく「日本人の墓」なんて呼んでいる時点で「あ、三浦センセイ、ネットの聞きかじりだけでテキトーなこと言ってるだけなんじゃないの?」って気がしてくるが、それにしても〈「目覚めた者」と「愚か者」、「知者」と「愚者」を分けようとする行為〉って……。とりあえず引用を続けよう。
〈一見、この「墓」の芸術作品は倫理的なように見えます。しかし、この分断線が引かれていることで、まず「あちら側」にいる人間が参加しにくくなり、次にそのような態度をもつ作者の見解は必ずしも明白に真実とは言えないため、却って反感を呼び起こしがちです。〉
〈そもそも、何をもってして「目覚めた自分」と「目覚めていない大衆」を分けているのか。アートに使われた多数の新聞記事の報じた法改正や議論の中身を、この作者は果たして理解できているのか。様々な疑問が浮かびます。〉
なんてことはない。ごちゃごちゃと書いているが、簡単に言い換えると「反安倍政権っぽいから政権が好きな人は嫌がるよね」という、極めて低レベルな感想。つまるところ、“反政権的な要素”という作品の表層をすくって、「こちら側」(反政権)と「あちら側」(親政権)に分け、作者が「あちら側」を「愚か者」に分類していると決めつけることで、“反感が生じてもしょうがない”と主張しているわけである。しかも「新聞記事の中身を作者は理解できているのか」とマウンティング(自分の優位性の誇示)をのおまけ付き。三浦センセイが得意とする論法だ。
いい機会なのでタネを明かしてしまうが、実はコレ、右派論壇による“朝日新聞バッシング”とか“リベラル叩き”とまったく同じやり口である。“反権力”的な言説ないしメッセージに対して「なんで上から目線なんだ。バカにするな」と食ってかかることで、権力構造を組み替え、本来ならルサンチマン(恨み)が支配層へ向かうところを無理やり「進歩派」「リベラル」へすげ替えるという手法。だいたい、以前の展示会で「時代の肖像」の政権批判の文言を消さざるをえなかったという文脈に、三浦氏はどうして触れようとしないのか。その時点で作品の感想として二流もいいところだろう
ネトウヨの電凸を「コストに見合わず不快に感じた鑑賞者」「人びとの怒りは至極当然」
いずれにせよ、くだらないマウンティングと主題のスリカエのために、わざわざ分かりにくく文章を装飾するという滑稽さ。さすがは三浦センセイとしか言いようがないが、もっと酷いのはここからだ。三浦氏は続けてこんな「芸術観賞論」を展開する。
〈芸術を鑑賞するという行為は、アーティストや場をしきるキュレーター(展示・管理を行う人)と、一般の鑑賞者の間に大きな壁を創り出します。このヒエラルキー(上下)関係は、「時間」や「コスト」をかけて会場にたどり着き、並び、犠牲を払ってたどり着いた人びとが、好まない芸術や見解に対して不快さを感じうる主要な原因です。〉
〈苦労して出掛け、並び、なのに質の低いと思われるものに出会った、その表現はさっぱり共感できないものであるか、あるいは作者が自らの無謬性と正義を主張しているものにしか見えない、となれば、脅迫行為は論外にしても、人びとの怒りが集まるのは至極当然の流れだったでしょう。〉
バカバカしくて口を開く気もしないが、あえて真面目に反論しておくと、そもそも「表現の不自由展」はトリエンナーレ開幕初日からバッシングが相次ぎわずか3日で中止に追い込まれた(もしかして三浦センセイ、ご存知ない?)。脅迫や電凸攻撃を行った者のうち、実際に同展を観賞した人なんてごく少数(あるいは皆無)だろう。加えて、不自由展はあいちトリエンナーレ全体から見ればほんの一部だ。にもかかわらず、文化庁はあいちトリエンナーレ全体への補助金を全額取り消した。
百歩譲って、不自由展だけが目当てで「コストをかけて」「苦労して出掛け」「並び」「犠牲を払ってたどり着いた」人がいたとして、だ。少なくともそういう鑑賞者は、不自由展のコンセプトやいくつかの展示作品の背景について予備知識を持っていたはずである。つまるところ、「質の低さ」や「作者の無謬性と正義云々」(三浦センセイの主観)は鑑賞者次第としても、じゃあ、そういう人たちが本当に「わざわざ頑張って観に行ったのに!」と怒って電凸したとでもいうのだろうか?
んなわけないでしょ。政治家とネット右翼が「反日」と煽り、展示を潰すために多数の電凸攻撃が展開された。これが事実だ。
しかも、三浦センセイは「コストに見合わず不快に感じた鑑賞者」との妄想を飛躍させ、いきなり「人々の怒り」なる誤った一般化をし、殺到した批判や攻撃を「至極当然の流れ」と正当化している。書いていて自分の非論理性に気がつかないのか。それとも、わざとミスリードしているのだろうか。続きを読めばわかるが、おそらく後者だろう。
想田和弘監督に文化行政についての無知、無教養を指摘された三浦瑠麗
三浦センセイは「大衆の怒りは至極当然の流れ」とした後に、意気揚々とこう続けている。
〈大衆的な民主主義の時代においては、一番の権力者は民衆です。彼らに全く受け入れられない「アート展」には持続可能性がありません。公共の場を借りた展示が、多くの人の学習意欲を満たし、十分に教育的で説明的であってほしい、という需要に応えるものになっていくことが求められている結果です。〉
〈公金を注いだ企画や会場であればなおさら、こうしたことが重視されます。大衆の時代においては、見たくないものに対する圧力も、権力というよりは一般社会から生じるのであって、まさに「大衆とアートとの関係」こそが問題となってくるのです。〉
「持続可能性」という言葉の奇妙な使い方も気になるが、要約すれば「大衆に受け入れられないアートは好ましくない」「公金を注いでいるのだからなおさら」という主張だ。このツイートにこそ三浦センセイの浅薄さと立論の恣意性が凝縮されている。
そもそも三浦氏がいう「大衆に受け入れられ、学習意欲を満たす、十分に教育的で説明的なアート」ってなんなのか。当たり前だが、芸術作品に対して「受け入れる/受け入れない」というのは個人の態度や感性の問題である。そして、芸術は常に新たな表現を探求する。それこそ、同時代では「受け入れられなかった」が、作者の没後に高い評価を得た芸術作品など山ほどある。三浦センセイは「大衆に受け入れられるものだけがアート」というふうに嘯くが、それがどれだけつまらない話であるかの自覚がないらしい。もはや「無知」とか「詭弁」とかを通り越して、その感覚に薄ら寒さすら感じる。
もうひとつ言うと、啓蒙的・教育的なものだけが「アート」では決してない。既存の価値観を破壊するものもまた「アート」だ。というか、そもそも最初から「すべての大衆に受け入れられる」ような作品など存在しえない。もし、あるとしたら、公権力が「これこそが芸術だ」と定義し、大衆が「受け入れざるを得ない」状況だけである。三浦センセイの主張は、前衛的表現などを「退廃芸術」と呼んで禁じ、それこそ「大衆がわかりやすい」保守的な作品を推奨したナチスの芸術観に近いと言わざるを得ない。
(紙面の都合で以下約2250語分をカットします)
あらためて言うが、補助金不交付が大問題なのは、「弱い者いじめに見える」からではない。文化庁が当初は採択していた補助金を、不自由展を事後的に問題視して取り消したからだ。これでは、事前に展示物をひとつ残らず申請させ、その通りにつくらなければ補助金を止めるという“事実上の検閲”が常態化し、政権を忖度した過剰な自主規制を招くだろう。しかも、こんな前例を許してしまえば、国や自治体から補助金が出るイベントならなんでも、ネトウヨに電凸や脅迫を繰り返させ炎上に追い込むことで、政治権力が「対策ができていない」などと理由付けして補助金を止めるというマッチポンプが起こされかねない。事実、検証委員会の中間報告書でも指摘されているように、政治家の扇動は確実に電凸攻撃に影響を及ぼした。
その意味においても、やはり、「表現の不自由展・その後」の中止問題を論じるうえで最も重要なのは、慰安婦問題を象徴するキム・ソギョン氏とキム・ウンソン氏の「平和の少女像」や大浦氏の「遠近を抱えて PartⅡ」、中垣氏の「時代の肖像−絶滅危惧種 idiot JAPONICA 円墳−」が、どうして右派政治家やネトウヨの攻撃対象にされたのか、ということのはずだ。
三浦センセイは「大衆とアートとの関係」「アーティスト・キュレーターと鑑賞者の壁」などと無用の補助線を引くことでポイントをずらしているが、本当の答えはずっとシンプルで、自明だ。安倍政権が強要する「偏狭な愛国主義」のムードのなかで、これらの作品が「排除すべき不都合な“反日”」とみなされたからに他ならない。
しかし、三浦氏は例の連続ツイートでもそうした社会状況をまったく問題視しないし、なんら批評すら試みない。だから“御用学者”なのだ。
念を押しておくが、本サイトは別に、三浦氏がアートや表現の問題に無知で、ただの“御用学者”だからといって、外野がよけいなことに口をはさむな、と言うつもりはない。当然、三浦氏にも「表現の自由」があるし、どんなジャンルで言論活動をしてもらっても結構だ。
ただ、こういう“どっちもどっち”的なポーズとレトリックに騙され、無知無教養に気がつかないで有識者扱いするメディアや公的団体がいるかぎり、今後も、三浦さんの言論の底の浅さを指摘せねば「ヤバイ」とは思っている。 (小杉みすず)