2019年10月18日金曜日

ソフトウェア論の世論工作 小さな政府派の堤防不要論(世に倦む日々)

 台風19号がもたらした洪水の被害に関して、「世に倦む日々」氏がブログを発表し、二つの主張を載せました。
 
 一つは、台風19号の襲来に当たり、テレビ報道はスマホを使えばいろいろ便利な水害監視情サイトがあるから自分で確認するようにと繰り返していたが、一人暮らしの高齢者に対しては酷だし、ネットを検索して自分で避難しろと言うのも、政府マスコミの対応としてあまりに無責任であるとし、緊急時の災害関連情報テレビ例えばNHK-BS102など)を受信媒体の第一に位置づけることを法制度化することの提起です
 
 もう一つは、被災後にすぐに始まった星浩の強調する「地域防災のソフトウェア化」 ⇒ 地球温暖化時代は堤防決壊が頻発するし、国の公共事業の予算は限られているから、もう堤防の改修や補強などのハードウェアへの支出はやめて、住民が素早く避難するよう教育訓練して減災効果を上げるソフトウェアの方に重点投資するべきだ)論の誤りの指摘で、要するに「ソフトウェア」論の考え方は人の命だけが助かればそれでいいというもので、家屋や財産や田畑や工場や学校や病院はどうなってもいいという発想。それが誤りであることは自分を被災者の立場に置き換えればすぐにわかることだと述べています。
 
 そして20年前の小泉政権以降、この国は「小さな政府」の路線に狂奔し、地方の土木公共事業に無駄のレッテルを貼って潰し、治水を怠った結果であるとして、今回の災害は人災で責任は彼ら新自由主義者にあると結論付けています。
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星浩の「ソフトウェア」論の世論工作 - 「小さな政府」派の堤防不要論 
世に倦む日々 2019年10月16日
15日夜のテレビ報道は、今回の台風が想定外だったとする表象工作に躍起になっていた。「想定外」をキーワードにして納得させる洗脳工作で、TBSのNEWS23が特に熱心にやっていた。被災者たちにカメラの前で「想定外だった」と言わせ、被災者たちが精神的に怠惰で、想像力と緊張感が欠如していて、日頃のイメージトレーニングが不十分であり、だから天罰が下ったのだと意味づける総括を下していた。災害への想定が甘かった被災者の自業自得であると、そう言わんばかりの放送内容だった。大雨洪水の災害が起きると、マスコミは必ずこの結論と総括を前に出して国民に教訓を垂れる。被災者の自己責任に帰結させる。政府の責任を隠蔽する。だから、私は先回りして15日に異議を申し立て、気象庁の予報はどうだったのだと問題提起を試みた。スパコンを使いながら雨量計算を誤り、被害が集中する地域の予想を間違えたではないかと指摘した。 
 
さらに重大な政府の過失として、報道でも一部出ているが、国交省の河川情報のサーバーが12日深夜にダウンし、河川氾濫情報と水位監視情報が閲覧できなくなっていた事実がある。12日のテレビ報道は、こういう便利なサイトがあるから自分でスマホで確認しろと、そればかりを繰り返していた。具体的な河川の刻々の危険情報はテレビでは紹介されず、ネット(国交省)に丸投げで、特に東北の河川については不案内であり、注意や警戒を促す報道は全くなかった。サーバーがダウンした問題は、13日朝の日曜討論で逢坂誠二が軽く触れていたが、国会でも取り上げて国交省の答弁を聴きたい。おそらく、今回、関東整備局は管轄河川の状況をフルの態勢で注視し、水門と水量を管理していたはずだが、東北整備局の方はそれほどでもなかった可能性がある。厳重な指示が国交省から下りていなかった疑いを拭えず、この点を検証する必要があるだろう。
 
浸水で犠牲になった被災者は、昨年の真備町と同じく、足が不自由で家の一階でしか生活できない高齢者が少なくない。そうした一人暮らしの高齢者に、スマホで河川情報サイトを確認しろと言うのは酷だ。ネットを検索して自分で避難しろと言うだけでは、政府(マスコミ)の対応としてあまりに不十分で無責任ではないか。国民の命を守る防災行政とは言えない。緊急時の災害関連情報の提供については、ネットではなくテレビを受発信媒体の第一に位置づけるべきであり、この点、理念を明確にして法制度化するよう野党に要請したい。例えば、NHK-BSの102chを使うとか、NHK地上波の3chを変則活用するなどして、視聴者が居住する地域のリアルタイムの災害情報やインフラ情報を臨時放送するシステムを整備構築するべきだ。ネット任せにしてはいけない。テレビ放送局、なかんづく受信料で運営するNHKが責任を負うべきで、前面に出るべきだ。提案したい。
 
もう一点、どうしても言わなくてはいけない問題がある。それは、被災後にすぐに始まった「地域防災のソフトウェア化」のキャンペーンの佞悪性である。TBSの星浩が威勢よく言挙げし、NHKに出てくる怪しげな専門家なども口を揃えている。要するにこういう言説だ。これからの地球温暖化時代は、このような堤防決壊が頻発するし、国の公共事業の予算は限られているから、もう堤防の改修や補強などのハードウェアへの支出はやめて、住民が素早く避難するよう教育訓練して減災効果を上げるソフトウェアの方に重点投資するべきだという考え方である。具体的にどういう中身かよく分からないが、15年の鬼怒川洪水のときから「専門家」がこの政策方針を触れ回る光景が目立った。早い話が、地方の住民を守る公共事業を削減したいのだろうし、災害への基本対処を自己責任(自助と共助)にしたいのだろう。社会保障と同じで公助を廃止したいのだろう。それを合理化する操作言語が「ソフトウェア」だ。
 
星浩らの「ソフトウェア」論のイデオロギー散布を聞きながら、私はこう思った。もし、今回、多摩川や荒川の堤防が決壊して、東京23区内が水浸しになっていたら、星浩は同じことを言うだろうかと。23区内の数十万戸の家屋が、千曲川の破堤と浸水で泥だらけになった家々のような惨状になったとき、星浩や専門家たちは同じように「ソフトウェア」への政策転換を説く口上を嘯くだろうか。きっと、それはないだろう。堤防を強化せよと言い、堤防対策が遅れていたと政府を非難するだろう。東京に住む自分たち上級国民の問題になれば、正常な神経で対策を論じるに決まっている。自分の問題ではないから、他人事だから、地方は国富に貢献しないコストだと差別しているから、堤防増強はやめろなどと冷酷な主張ができるのである。地方や高齢者を社会の重荷だと蔑視し、23区内に住む自分はエリート身分で国民を指導する立場だと思っているから、社会保障を削減しろだの、堤防工事は無駄だからやめろだの平気で言えるのだ。
 
もし東京が水没していたら、星浩や防災専門家は、堤防の補修や増強はやめて、住民の早めの避難行動を達成するシステムを作ればいいと、そういう主張をしただろうか。今回、多摩川と荒川の堤防は決壊しなかった。荒川の氾濫水は遊水池である彩湖に吸収され、また、川越付近の支流を溢れさせて一帯を水浸しにし、埼玉の上流地域を犠牲にして江戸川区や江東区を守った。東京の被害は最小限で、ネットでは国交省河川部・関東整備局の万全の堤防メンテナンスと絶妙の水流コントロールを喝采する声が上がっていた。利根川も、渡良瀬遊水池への流し溜めと八ッ場ダムの保水の活躍で事なきを得た。首都圏を水害から守るため、東京23区と都心を守るため、どれほど莫大なハードウェアの投資が行われ、水防耐久力の維持に心血が注がれていることか。もしも、荒川利根川水系のハードウェア(ダム・堤防)を一瞬でも手を抜いたら、23区と都心が千曲川の被災地と同じく一面泥に埋まるのである。絶望と悲嘆に暮れる住民が取り残されるのだ。
 
「ソフトウェア」論を提唱する論者に問いたいが、素早く避難して住民の命だけが助かればそれでいいのか。長野の現場を見ても分かるとおり、被災住民たちは家に戻り、途方に暮れながら泥を掻き出す作業を始めている。そこが住み暮らす家だから、生活基盤だからそうせざるを得ない「ソフトウェア」論の考え方は、家屋や財産や田畑や工場や学校や病院はどうなってもいいという発想だ。人の命だけが助かればそれでいいという政策だ。それでは、家を失った被災者国民はどこに住むのか。誰が生活の面倒を見るのか。収入はどうなるのか。ハードウェア(堤防)の破壊のために、どれほどの経済価値が失われ、それを回復するために社会がどれほどの努力と負担をしなければならないか、その認識と思考が星浩には全く欠落している。もしも、東京を守るため荒川・多摩川だけはハードウェアが必要で、他の地方はソフトウェアで済ませばいいと言うのなら、それは差別であり、平等である国民の人権を侵害する政府行政に他ならない。
 
星浩と専門家の「ソフトウェア」論は、要するに「小さな政府」の思想を正体とするショック・ドクトリンである。社会保障と同じく地方公共事業を削減したい政府の代弁であり、竹中平蔵と安倍晋三を代弁した発言に他ならない。今や、朝日新聞とTBSは新自由主義者の牙城と化している。福島や宮城の被災実況を見ながら、直観したのは、おそらく、阿武隈川や吉田川についても本来の堤防改修計画があったはずなのに、それが後回しにされたのではないかという経緯への疑いである。8年前の震災が起きて、東北整備局も、県の土木部と県下の土建業者も、震災からの復旧復興工事にかかりっきりとなり、がれき処理だの、津波堤防だの、高台移転だの、除染だの、中間処理施設だの、そちらの方に人員も資材も手一杯になっていたと思われる。経費も高騰した。それが原因で、河川の防災事業の方は手薄にならざるを得なくなっていたのではないか。もしそうだとすれば、行政当局含めて、東北の関係者には同情するばかりで、今回の被害の責任追及など到底できない。
 
北関東と北信の河川の堤防決壊についても、中身を詳しく検証する必要がある。約20年前の小泉政権以降、この国は「小さな政府」の路線に狂奔し、田中角栄的な公共事業政策を蛇蝎のように嫌忌し拒否するようになった。新自由主義のイデオロギーが社会を席巻した。民主党政権の八ッ場ダム建設中止はその典型で、新しく台頭する野党ほど積極的に「小さな政府」を鼓吹し、地方の土木公共事業に無駄のレッテルを貼って潰して行った。北関東・東北の中小河川は、本当は20年前に堤防補強の計画があったのに、竹中平蔵の「構造改革」によって、蓮舫と前原誠司の事業仕分けによって、計画が潰され、改修されず放置されて傷んでいたのではないか。だとすれば、今回の災害は人災で責任は彼ら新自由主義者にある。