2021年1月6日水曜日

06- 手塚治虫とマルクスと杜甫 - 病苦と使命の狭間で創作した偉大な天才たち(世に倦む日々)

 「世に倦む日日」氏が「手塚治虫とマルクスと杜甫 - 病苦と使命の狭間で創作した偉大な天才たち」と題したブログを発表しました。
 3人の天才たちの「病苦と使命の狭間で創作した晩年について述べています。

 そしてご本人もこのところずっと体調不良に悩まされていて、「ブログをやめるか、手を抜いて減らすか、使命を信じて続けるか。真面目に選択を迫られている」ことを吐露しています。
 私がこのブロガーを知ってから20年ほどになります。最初からその重厚で緻密な論理と斬新な視点に圧倒されました。
 切にご健康をお祈りいたします。
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手塚治虫とマルクスと杜甫 - 病苦と使命の狭間で創作した偉大な天才たち
                          世に倦む日日 2021-01-05
手塚治虫は60歳で世を去っている。1989年、胃がんだった。連載を抱えて激務で、生前の睡眠時間は平均4時間だったと言われている。85年にNHKの取材を受けたときは1-2時間の睡眠だった。ストレスを溜めながら無理を重ねていたのだろう。死の1年前の88年に倒れて胃の手術を受け、2か月間入院している。入院した自分を何かのマンガの中で描いていて、過労が原因だと書いていたような記憶がある。世はバブルの絶頂期。日本人はこれまで一度も豊かになったことはなく、有史以来常に貧乏で働きづくめで、身体を壊すまで働く生き方をしていたんだなあと、バブル経済の繁栄を横目に、そんな感慨と省察をしみじみと語っていた。NHKの番組の中では、おにぎりを頬張りながら、ときどき壁に向かって逆立ちしながら、うんうん唸ってページを描き上げていた。池袋に近い古いマンションで、一人で狭い部屋に籠もって締め切りに追われる過酷な日々を送っていた。「アイディアだけは、もうバーゲンセールしてもいいぐらいあるんだ」と言った、その言葉はよく覚えている。

情報では、手塚治虫は自身の病気について最後まで正確な診断を知らされてなかったことになっている。だが、手塚治虫は医学博士であり、『ブラックジャック』の作者だから、疾病の正体が何であり、何が原因で重症化し、現在の病状の進行具合がどうかということを察知してなかったはずがないと思われる。無理をしていたのだ。身を削っていたのだ。自分の生命の肉片を削って、それを作品に変えて、読者を感動させ、夢を与え、生きる喜びやエネルギーを分け与えていたのだ。NHKの番組の中でも、そんなことを言っていたような気がする。自分が苦しむ分、人を喜ばせているのだと。1日24時間、1週間、精神的身体的にはストレスの連続であり、呻吟と苦悩と疲労を積み重ね、身体内部に強い負荷をかける一方の生活だった。家族との憩いの時間もほとんどなかった。NHKの放送を見たとき、バブル全盛期、私は30歳そこそこの働き盛りの若僧だったが、ストイックに創作する手塚治虫を見て羨ましさと憧れを感じ、こういう表現者と制作者の人生を送りたいと思ったものだ。

バブルの頃というのは、とにかく経済が過熱して超スピードで回っているときであり、組織と個々にとっては仕事が次から次に過剰に入ってくる繁忙なときであり、受注に応じて価値の生産を担う若手労働者が、『リゲイン』のハードワーカーの日常を送っていたときである。そういう若い労働者にとっては、当時、フリーランスの立場と職業は憧れだった。今では考えられないことである。社会保険のサポートのない、クレジットカードも作れない、そういう一匹狼の生き方を、あの頃の東京の若者は希求し、フリーランスの肩書きと名刺を持ちたがっていたのだ。それが成功の姿だと考えていた。何というバラ色の日本経済だったことだろう。そこから30年の日本経済は、悪夢としか言えない現実の過程であり、いつ悪い夢から醒めるのだろうと思い続けた日々だったと言っていい。新海誠が予感して描く「いつか訪れる破滅」を、われわれはあのとき体験し、そこから終末後の暗い世界を生きているのだと実感する。一日一日と惨めさと醜さを増しながら。非人間的な野生動物に戻り、環境悪化で種の個体数を減らしながら。

年末の何かのBSの番組で、名前も知らない作家が登場して何かの問題について解説していた。つい数日前のことだが、中身はすっかり忘れている。ただ、リモートという演出で撮影されたその作家の自宅の居間と書斎が瀟洒で、デザインと色調がセンスよく、いい住空間と仕事部屋だなという印象が残っている。そういう方面では、凄絶な格差社会という矛盾はあるものの、昔と比べて日本人は豊かになった。手塚治虫がアトリエにしていた古マンションの一室は、そこから比べると何とも狭く暗く貧相で、天下の巨匠がどうしてこんなボロい棲家でと思うような場所だった。手塚プロの借金問題があって清貧に努めていた可能性もあるが、手塚治虫はその創作空間がお気に入りの様子で、不具合感は全く漂わせていなかった。私にはどうしてもその方面に注意と関心が向かう。堀田善衛の書斎というのが一度テレビに登場したが、エッと思うほど華飾さのない地味な部屋で驚いたことがある。丸山真男に至っては、吉祥寺の自宅の書斎スペースは、小さな小さな、居室の一角に設えた、幅1メートルほどで僅かな奥行きの、畳に座って書き物をする低い和机が置いてあるだけである。
尊敬する日本の天才たち、日本の巨匠たちは、とてもとても質素な空間で歴史に残る名作を書いていた。信じられないほど慎ましい空間で知的創作の営みを行っていた。資料を精読し、研究し、独創し、アイディアを練って表現を作品化していた。巨大な価値を作り出していた。

マルクスは64歳で肝臓がんで死んだ。1883年である。パリコミューン敗北後の1872年のインターナショナルの分裂が、マルクスを疲労させ、不眠症と神経症と肝臓病を患わせる原因となったと言われていて、翌73年には55歳で脳卒中を起こして倒れている。そこから幾度も療養の旅を続けたが、病気は悪化する一方となり、気管支炎や肋膜炎を併発して苦しむ晩年を送る。死の前年に最愛の妻イエニーを失い、生きる気力を奪われたような最期で孤独に病死した。病身となった晩年の10年間、ずっと資本論の執筆を続け、第1巻の刊行と第2巻・第3巻の草稿完成に漕ぎ着けている。長大で晦渋な資本論の文章の執筆はマルクスにとってどういう作業だっただろうと、ときどき思うことがある。それは30代から企図した壮大なプランの実現であり、ライフワークの達成であり、経済学を根底から変革し、そして人類の歴史を揺り動かす力業だったが、病身のマルクスを蝕む精神的ストレスの時間でもあったに違いない。資本論に命を賭けたマルクスも、手塚治虫と同じだったのではないか。手塚治虫が無理をやめられなかったように、マルクスも無理を通して労作に精魂を傾けた。貧困と窮乏の中で使命を押し通して作品を手がけた

杜甫は59歳で死んだ。喘息と神経痛とマラリアと糖尿病に苦しみ、漂泊と貧窮の末に右手が利かなくなり、耳も聞こえなくなった身で、洞庭湖に浮かぶ船の中で生涯を閉じた。最後まで社会を憂い、長安に戻って政治を変革し民を救済する夢を燃やしつつ、憔悴して、家族に看取られて死んだ。杜甫の詩も、やはり命を削って創作されている。静寂と観察の中、魂魄と情念を削って削って、憂いを煮詰めた淵から字句のアルゴリズムを宇宙に巻き上げ、情報処理された隕石を天空から降らし落としている。ピシピシと完璧に五言七言の絶句律詩の形式に配列させている。天才であっても、その詩作の絶唱の力業は、何がしか重いストレスの作業だっただろう。いつもいつも弱い者に寄り添い、苛斂誅求されて泣き沈む弱い民衆に内在し、政治批判の言葉を絞り出し、理想を空に突き刺す詩を書いた。憂いと傷みこそが自分の表現の根源であり、身悶えしながら精神を格闘させて佳作が編み上がるのだと言っているように見える。今、杜甫のような、手塚治虫のような知識人がいない。杜甫や手塚治虫の生き方に共鳴する者がいない。共感することがなく、後に続こうとしない。今の日本人は、むしろ彼らを蔑んで嘲笑する態度に徹している。売名と金儲けと快楽だけが目的になっている。

昨年2020年は消化器系に悩まされ、半年で二度も胃の内視鏡検査を行った。腹部CT検査も初めて受けた。不眠症から始まった胃炎が、一度は落ち着いたものの、秋に奇妙な具合で痛みを再発し、がん発症を恐れて再び胃カメラを入れる不安となった。異常なしという診断になったが、考え直すと、11年前の09年に類似の自覚症状が生じ、そのときも発がんを恐れ、初めて大腸の内視鏡検査を試みたことを思い出した。あのときの軽かった異変が、今回、もっと重い形で再発されている。11年前の症状はすぐに元に戻り、健康を回復してすっかり忘れていた。消化器系の病気で悩むことなるとは、若い頃は全然予想していなかったことだ。というより、杜甫がマルクスが晩年に多病で苦しんだ事実は、紙の上の偉人の歴史の一部であり、それが老境に誰にも降りかかる難事だとは微塵も想像していなかった。どうやらその近辺に接触する身体年齢となり、不調は精神的ストレスによるものとの医師の診断を真摯に受け入れざるを得なくなった。診断を受け入れるということは、症状悪化の原因についての指摘を素直に認めるということだ。ブログをやめるか、手を抜いて減らすか、使命を信じて続けるか
真面目に選択を迫られている。そんな感じで2021年の新年を迎えた。人生は短い。残りの人生の時間は長くない。医師でもあった手塚治虫は、このコロナ禍と医療崩壊の日本と世界を見て何と言うだろう。